小說『サラの需要』 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 最終更新: 2020年4月8日 公開: 2018年8月18日 第1版 2018年9月1日 誤字修正 2018年12月22日 第2版 附錄: 『サラの需要』後書 http://kimitin.sinumade.net/2018/1-atogaki 『サラの需要』HTML版 http://kimitin.sinumade.net/2018/1 『サラの需要』PDF版 http://kimitin.sinumade.net/2018/1-pdf 適用: Creative Commons — CC0 1.0 全世界 http://creativecommons.org/publicdomain/zero/1.0/deed.ja 著・發行者: 絲 letter@sinumade.net http://kimitin.sinumade.net/ ---------------------------------------------------------------------------------------------------- ルビ:|《》 傍點:【】 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- ■■■■ 注意事項 ■■■■ ・成人對象[成人対象] — 二十歲以上の讀者を對象とする[二十歳以上の読者を対象とする] ・小說[小説](フィクション) — 實在の事柄とは關はり無し、描寫中の行爲を獎めるもので無し[実在の事柄とは関わり無し、描写中の行為を奨めるもので無し] ・性描寫[性描写] — 性に關はる露骨な話題[性に関わる露骨な話題]を含む ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 『サラの需要』  好色家の女・ミルキーは、ゲイ・サハラから失戀の內を吐露される。意氣投合した二人は、サハラの家で一晩を明かす事にする。 ・14635字/400字詰原稿用紙・37枚 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- サラの需要 「おれがやくたたずだからナホキはおれをすてていつてしまつたんだ」。  相手が自分はゲイなんだけど氣にするか、と言つたので、私は氣にしない、と言つた。本當はすごく氣にしてゐる。だから、ゲイ生活について、あれこれ質問するつもりだつた。輕い自己紹介が終ると、相手はすぐ切出した。  失戀したらしい。相手は——サハラといつた——めそめそと、泣いた。  私はどう言つたものか、分らなかつた。人から慰められる事はあつても、自分が慰める側に廻る事は、滅多に無かつた。私ができるのは精々說敎で……だから、彼が泣き止むまで、ずつと默つてゐた。 「ごめん」 「いいよ。好きなだけ泣いて」 「でも……」 「私もさ、|訣《わか》れ話して、散々泣いて、つて事あつたし。そのための話し相手でしよ」 「ありがたう……」  歲は十くらゐ離れてゐたが、愛の喪失に歲なんて關係無かつた。ゲイの勝手なんて分らないが、まあ性癖が男に向いてゐるといふだけの話——つまり、私と同じといふ事だ。ちよつとは男の好みとかセックスについて、話せるだらうか。私は指を曲げて爪を見た。 「役立たずとは言つたけれど、さういふ……戀とか愛とかの關係に、役に立つとか立たないとか、あるの?」  何も觸れない方が身のためだらう、とは思つたが、抑へられはしなかつた。破れ去つた戀について語る事が、藥となるか毒となるかなんて、分りはしないのだから。それに話さへしなければ——私は、何でこんなところにゐるのだらう?  彼、サハラ♂は「話を聞いて欲しいです」と揭示板に書込んでゐて、私ことミルキー♀は、「サハラさんの話、聞かせて下さい」、とIDを送つたまでだ。「女性に聞いて欲しいです」なんて書かれてゐたから、てつきりそれ目的——つまりは女好き、女に癒されたい、關はりたい類の、どこかにでもゐる“盛んな男”だと思つてゐた。ゲイなら男に聞いてもらひたいのだらうと——しかし同性を求めるでもない——多分、彼は、【普通に】、自分の「話」を聞いてもらひたいのだ。性的對象としての自分ではなく——でもそれは無理だらうな、と私は思ふ。だつて相手が私だもの。どの道、相手がゲイだらうが何だらうが、「男」である已上は、私のカモなのだ。 「別に……別に利用されてても構はないんです。逢つてくれるなら。構つてくれるなら」 「あー、さういふタイプなのね」  でもだめよ、なんて說敎したくなる。まあいいぢやないか。どうせ、訣れたんだから。後はこの男が未練がましく、同じやうな事を繰返すかどうかなのだ。 「相手の要求に從ふのつて、疲れない? 常にご機嫌見なきやいけないでせう?」 「でも……、構つてくれるのは、彼だけだつたから……おれの要求も……聞いてもらへたから……」  どんな要求にせよ、逢ふ事や構ふ事自體が、「おれ」の要求であり見返りだつたわけだ。みじめだ。自分でも覺えが無いわけぢやない。 「『彼だけ』か。緣が切れない人の大半つてさう思ひ込んでるけどさ、構つてくれるのが、その人だけなわけないつて、分つてるんでしよ?」  そんなの、揭示板を見てゐれば分る。刹那的な出會ひを求めるもの、「ヴァーチャル」と割切るもの、雜多にゐるが、大半の人間は構はれたいだけだ。日常の話、趣味の話、仕事の愚癡、治せない依存症、消えない夢、曝け出せない性癖……電動齒ブラシ、遮光カーテン、パスタ、宇宙の果て、どうでもいい話を彈ませたくて、仕方無いのだ。勿論さういふ話のできる人間と、性愛を募らせる相手といふのは違ふかもしれないが、少なくとも私の場合は——氣輕に話のできる人間が、性愛の對象になる事が多い。それだけの事。そして案外に、その「氣輕に話のできる人間」つていふのは、たくさんゐるのだ。たまらなく良い男つてのもゐるんだけれど、まあ、それを捕まへられるかどうか、つていふのは別の話だ。 「あのね、つまりかういふ事なんだと思ふよ。——あなたにとつて都合の良い男が、そのナホキつて男だつた」 「そんな事……!」 「でも都合ががつちり嵌らなきや、人間なんて附合へないでしよ」  今みたいに。  どつちが遊ばれてゐたか分らない、さう、きつと、さういふ事だと思ふよ。 「心の底から話し合つた事ある?」 「……最初の頃は」 「最後の方は、どうだつたの」 「ナホキは、やさしかつた。いつも、やさしかつた。こんなくづみたいなつまらないおれなんかに。おれはつまらなくて、口下手だから、あんまり、上手い事言へなくて」 「あなたは、どうなりたかつたの。そのナホキと」 「戀人……いや、戀人なんて、そんな蟲の良い事、思つちやいけないんだ、ただ、ただ……普通に、逢つて、話して、やる、さういふ普通の事がしたかつた」 「それ、|傍《はた》からすると戀人だよね」 「……」 「ごめんごめん、あたしもさ、なんていふの、あんまり戀人とか友逹とか、さういふ境界の無い人間なんでね、今言つたのは、冗談よ、ごめんね」 「ミルキーさんは……ミルキーさんは、その、戀人でなくてもするの、その」 「セックス?」 「うん」 「さうだねえー、あへて關係には名前をつけないやうにしてるつていふの、ま、そんなあやふやさに氣が滅入る時もあるけどさ、でも私の場合、さういふのがあると逆に緊張しちやふつていふか」 「でもそれつて、臆病つていふ氣がする。遊び……つて事でしよ」  言ひなりになつてたあんたが言ふか。 「遊びは遊びかもしれないけどさ、私は相手の期待で釣上げるやうな眞似はしないから」  どうだか。私が揭示板を眺めてゐるのはそれこそ男を釣上げるため、いふなればセックスにこぎつけるためで、全然誠實でもない氣がする。 「つまりはさ、私は戀人を作るつもりもない、愛も友情もよく分つてない、つて、最初に言ふからさ」  それで良しとされるかは分らないが、“誠實”な相手を探してゐる人間はこれで逃げていくだらうといふのだ。 「……遊び人なんだね」 「さういふつもりはないけど……まあ、さうなのかねえ」  散々男を釣つておいて、何を言つてゐるんだらう、と思ふ。でも、何となく惡女めいたアイデンティティに、にやにやとしてしまふ。不誠實な人間だと言はれると應へるけれど、遊び人と言はれると、惡い氣はしない——ああ、私つてまだ、子供だなあ。 「多分、それは、本氣で好きになつた事が無いんだよ」 「それ、好きな人に言はれた」 「……。その好きな人、吿白した事あるの?」 「あるにはある、かな。でもさ、『好き』つて言つて、『でも、戀人になるつもりはないの』つて言つたら、返事に困ると思はない?」 「それは、ね」 「多分、|總《すべ》ての戀の到逹點つていふのは、『現狀維持』なんぢやないかなあ」  私はそれを戀だなんて思つてないけどね。 「何か、もつたいないつていふ感じする、おれたちは、本當に『現狀維持』しかないのに、ヘテロのあんたがそんな事言ふのは、  いくらでも可能性があるのに、」 「私はちやんと選んでるよ。性癖なの。しやうがないの」  戀人だの何だの、面倒臭いのよ。そのくせ、私は氣に入つた相手には、何度でも逢ひたくなつてしまふ。とんでもなく我儘だ。でもそれも含めて、性分。 「ミルキーさんは……」 「それ、言ひづらくない? ミキでいいよ」 「ぢやあおれは、サラ?」 「うん、サラさんでいい」  サラといふのはいかにも女つぽい名前だけれど、彼に不滿は無いらしかつた。 「男の人つて、本名から|名前《ハンドル》取つてくる人、多いよね」 「さうかな?」 「さうさう。頭文字とか、少しづつ取つて繫げるとか、色氣の無いの」  人生唯一の元彼も、散つていつたメル友も、そんなふざけた名前だつた。  このサハラといふのが本名から取つたにしろ、サハラ砂漠か何かから取つたにしろ、大して興味は無い。私のミルキーだつて、ある日の安直な思ひ附きにしか過ぎないのだから。私は未だに「好きな人」の本名は知らないし、知つておけば良かつたかなと思ふ時はあつても、「必要」は感じない。知らないなら知らないで、それで良いのだ。名前、なんて。現に私は本名を捨てた氣でゐるし、それを「必要」とするのは、身內か、仕事で關はる人間だけだ。それ已外の人間には——關係性すら定かでない「男」たちには、「ミキ」と呼ばせてゐる。本名なんて、本當に書類上の、私が敷かれた道で生きていくための記號に過ぎない。 「ミキは、何か話したい事あつたんぢやないの」 「うーん、さうだなあ、ゲイの生態についてあれこれ質問するつもりだつたけど、いいや、今度で」 「ゲイの生態つて」 「要するに、セックスの話よ、あたしね、男と話す時はいつつもさうしてるのよ。さういふ女なの。ごめんね」 「いや……」 「あたしね」  セックスの話をする時は、少し緊張するが、それでも明け透けに話せてきたのは、男たちが自分を性的對象として見てくれたからだ。でも今はどうだらう? ゲイのサラは。不快に思つてはゐないだらうか? 「男を性的對象として見てゐるのよ、勿論、ゲイのサラも例に|洩《も》れず。この意味わかる?」 「……、わかるよ、おれだつて、男と話す時は、ちよつと期待してたり、するから。それで?」 「あなたを【だし】にしたり……よ、いろんな事考へてるの。いろんな事。それでも平氣なの?」 「そんなの、自由ぢやないの。【だし】にしなかつたりされなかつたりする人なんて、ゐないと思ふけど」  そりやさうだ。私は思ひの外緊張してゐるらしい。相手もまあ、大人といふわけだ。 「ぢやあ、よかつた」 「ミルキー……ミキは、やさしいのかやさしくないのか、分らないな」 「そんな事ないでしよ、あたしはやさしいでしよ!」 「まあ、かもね」  私たちは、薄く笑ひ合つた。  その日はそれでお開きになつた。時間にして二時間弱。惡くはない。  二日後の同じ時間、サラがログインしてゐたので、また私から聲を掛けた。それまでの傾向からいふと、最初つから最後まで性の話で終つた相手とは、話題が性で固定されてしまふ事が多かつたが、サラとは比較的氣兼ねなく、二囘目の通話では、日常の何氣無い話をした。普段はごくごく普通の會社員であるといふ事、風呂場はユニットバスでない事、自炊をしてゐるといふ事や、週二囘ジムに通つてゐる事、などが分つた。天候や氣候には疎く、欲しいものがあるとすぐ買つてしまふタイプ——でも借金はした事がなく、つまりは依存しない程度に買物好きで、金には不自由してゐないといふ事だ……この調子だと、例の訣れた男にも貢いでゐたのではないか? そんな想像をしてしまふ。十中八九、さうだらうな。プレゼントは勿論、行きたいところには行かせるし、交通費や食費に困つてゐると知つたなら、平氣で差出す。過去にさういふ男と一度だけ附合つた事はあるが、あまり良い氣持はしなかつた。「何でも買つてあげるよ」つて。それは都合の良い言葉のはずなのに、鳥肌を覺えてしまつた。お金程度の事なら、と彼は言ふ。  それからぽつぽつと、二週間に一遍くらゐ、私たちは話し合つてゐた。時間は三十分前後。週末、寢る前といつた感じだつた。たまに短くメッセージのやり取りをしながら、サラから誘つてくれる事もあつた。ナホキ已降のゲイ事情は知れないが、今のところはカラッとやり過ごしてゐるやうだ。性については、自分でする時の事とか、經驗人數について、さらりと觸れたくらゐだ。通話當初の興味深さこそ薄れてはゐたが、それでも、サラとの會話は心地良く、平穩だつた。もし性の介入しない“友逹”關係があるとしたら、こんな感じだらうか。私たちは友逹? いやいや、ただの「話し相手」。  しかし知合つてから四箇月目に差掛ると、相手から「逢はないか」と言はれた。びつくりするやうな、心臟を突拔ける歡喜。「假死」してゐたのは、相手がゲイだつたから。今でも望みは無いと分りつつ、ついうきうきしてしまふ。  夏も終つたぬるい季節、私たちは電話番號を交換し、容姿の特徵を囁き合つて、サラの最寄驛で逢ふ事にした——それも、宿泊込で。いいのかな。こはく、ないのかな。抑へられるか、分らない。どきどきしながら、ブーツに脚を通す。今まで何人かの男と逢つてきたけれど、初めて顏を合す時は、いつだつて緊張する。  驛で待つてゐたのは、中々に良い男だつた。やつぱり私がネットで逢ふ男つて、そこそこ良い顏してるなー。未だに續く幸運に感謝する。それだけに、手を出せないのが惜し過ぎるが。間近で見ると、三十六相應にくたびれて見えるのだが、遠目に二十臺に見えるなら、充分ぢやないか。  サラは私が“食ふ”合格ラインだつた。觸れられないまでも、私はそれだけで滿足した。恰好はTシャツによれつとした長ズボンなのだが、不思議とだらしない感じはしないどころか、おしやれにすら感じる。それで連れて行かれたのが、驛からすぐの高層マンションだつたから、ああ、金持つてやつぱり何著てもおしやれに見えるんだな、と思つた。意外と著てゐるものも、高かつたりして……。“安物だよ”つていふのが、|金持《あいつら》の決り文句。  通された部屋も、思ひの外廣くて、びつくりした。私の知つてゐる「|部屋《おうち》」つていふのは、揃ひも揃つて一Kかそこらで、玄關から部屋が一望できるのが當り前だつた。部屋が|家《うち》なのではなく、ちやんと家の中に「部屋」がある。こりや、エラい違ひだ。小綺麗な內裝も氣に入つたのだけれど、どこか「別世界の居心地」がして、變に落著かなかつた。本當に「邪魔」しにきたやうな。これから眞面目な話が始まるやうな堅苦しさ——一方で、こんな素敵な部屋で「もてなし」てくれるといふ、特別扱ひを受けてゐる感じ。  【リビング】に悠々と置かれた、つるつるとしたアイボリーのソファに腰を下ろす。サラがポテチとグラスを持つてきてくれ、隣に坐つた。無精髭の顎が、すごく色つぽい。  私は地下の賣場で買つてきた、豆乳と罐チューハイを出した。豆乳のパックはもう汗を搔いてゐたけれど、渴いた喉には充分過ぎる程冷たかつた。「ああ、おいしい」。一リットルのパックにサラは驚いた風だつたが、私がごくごく飮んでゐるのを見て、笑つた。ついでに買ふもんある、と電話した彼には、罐チューハイ。彼は酒を飮む|人間《ひと》で、「甘いものなら何でも良い」と言つた。私みたい。 「來てくれて、ありがたう」 「え? ああ、うん、宜しく」  私は濡れた手をズボンでさつと拭いてから、差出した。相手もそれに應じ、握手を交はす。この握手といふのも、知合の男から倣つた慣習なのだが、私は本來かういふ時ハグをする。それで男の心を鷲摑み……、といふわけだ。下心を拔きにしても、私は男にぴつたりとくつつくのが好きだ。でも相手はゲイだし、ソファに坐つた體勢で「ハグしよう」つて言ふのも變だから、この場はそのままにしておいた。 「意外と廣い部屋なんだね、驚いたよ」 「まあ、このへんぢや普通だよ」 「またまたあ。いやみい~」  くすくす笑つた。互ひに、飮み物をちよびちよびと|啜《すす》る。 「どうする? ご飯にする?」  時刻は午後五時を過ぎてゐた。 「うん、腹減つた」 「ピザとパスタ、どつちがいい?」 「うーんとね、パスタ」 「冷性パスタでもいい?」 「うん、食へるならなんでもいー」  彼は冷藏庫から、大皿を兩手に持つてきた。ああ、もう作つてあつたんだ、私を待つてる間に。 「わー、ありがとー、あたし、すぐ食べたかつたんだよね」 「さうだと思つた」 「いいね、このエビ、あたし、エビ大好きなんだ」 「よかつた」  さう言ふ彼の笑顏は眩しかつた。トマトか何かの赤いソースに、でつかいでつかい、ピンクの肉厚なエビ。これは本當に、嬉しかつた。 「いただきまーす」  殘念ながらお代りは無かつたが、腹八分目、エビもパスタも堪能できたし、滿足だ。 「なんつーか、まじ上手いぢやん、料理」 「見やう見まねだよ」 「でもすごくよくできてるぢやん。センスあるし、何より美味しさうで、美味しかつた」 「ありがたう」 「よく友逹にも作つてあげるの?」 「……いや、だちには作つてる暇無いつていふか、」  顏を覗き込むと、少し逸らされた。あ、顎の下のところ、ほくろがあるんだ。 「でも知らない女に作つてるやうな暇はあるんでしよ」  ははは、と私は笑つた。 「それは、ちやんと來てくれたから」  …… 「あ~疲れた、ちよつと、ぼーつとしててもいい?」 「いいよ、もちろん」  サラは端にあつたクッションを寄越した。どう使つていいか分らなかつたけど、適當に腰のところに挾んだ。  暫し私とサラは無言で過ごした。その間、彼はテレビをつけないでゐてくれた。音樂も。|携帶電話《スマホ》さへ。ただ私と同じやうに、坐つてもたれてゐるだけで、私は落著け、守られてゐる感じがした。  私は一度トイレに立つて、彼の橫にぴつたり、坐り直した。 「……」 「厭?」 「別に、おれは、氣にしてないけど」 「ほんとお? 無理してない?」 「してないよ」  彼は半袖だけど、私は長袖で、その他も覆はれてゐて、體溫は上手く傳はつてはこないのだが、「男」の隣にゐるといふ存在感はあつた。 「はあ……」  溜息を聲に出してしまふ程、昂奮してゐる。「男」の隣にゐると、むずむずする。セックス直前の「あの感じ」を、私は今受けてゐる。男の……いや、……ああ、……  私はいつになく豆乳をがばがば飮んだ。口の中はミルクの薄まつたのでいつぱい、お腹は膨滿感でいつぱい、でも飮むのを止められなかつた。  一リットル入りのパックを傾ける私を、サラは傍觀してゐた。 「そんなに飮んぢやつて、大丈夫? 肥るんぢやない?」 「肥んないよ。大豆なんだから……」  それに私はもうムッチリでしよ、と言ひたいのを抑へる。 「どうしてそんな、無茶な事するの」 「だつて、サラだつて、何となく好みつぽい男が傍にゐたらそはそはするでしよ。それと同じ」 「……何となく、好みつぽいの?」 「あたし、惚れつぽいの」  私は眞顏で言つたつもりだつたが、彼はくすくす笑つた。 「おれも、惚れつぽいかなあ」  見詰めた虛空には、元彼氏がゐたか知れない。  お腹がたぷたぷになつた。ほんとに一リットル飮干してしまつた。 「もう何も入らないんぢやない?」 「そりやさうよ」 「ぢや、ケーキは? 別腹ぢやない?」 「……勿論、別腹よ」  あれ、冷藏庫にケーキなんて無かつたけど。さう思つたら、彼は冷凍庫からそれを出してきた。所謂アイスケーキだ。そのカラフルな圓狀を見ただけで、舌が味を豫想する。サラは本當に、私の好きなものを心得てゐる。 「サラはアイスケーキ好きなの?」 「ん、まあ、アイスケーキに限らず、甘いものは好きかな」 「お酒も甘いの好きだもんね」  がははと笑ふ。 「えーー、附合つてたのつて、ホストなの?」 「うん……」 「ゲイ向けの?」 「いや、普通、といふか、女の子相手の……」 「へえええー、BLだとさういふの王道だけどさ、ほんとにあるんだ」 「……」  彼ははにかむやうに笑つた。 「どうやつて逢つたの?」 「その……知合の女の子が……ゐて」  坐り直したり、指を組替へたり、彼は記憶を辿つてゐた。それとも、言出しづらいのか。言ひたくないなら別にいいよ、と言はうとしたら、彼は續きを紡いだ。 「知合の子が、その……そいつのお客だつたんだよね——たまたま、店の近く通つたらさ、ゐてさ、何となく流れで知合つてしまつたわけさ」 「その知合の子つて、サラがゲイだつて知つてたんだ?」  彼は首を振つた。「同僚だから」 「で? どういふ『流れ』で關係を持つ事になつたの? といふか、一目惚れだつたの?」 「一目ぼれッ……うーん、ちよつと違ふやうな……確かに良い男なんだけど……なんていふか……流れ……」 「流れ?」 「具合惡いからつッて……その子が家まで送りますつて言つてたんだけど……正確に何て言つたかは覺えてないけど……おれが附添つた方がいいつて事で、話がまとまつちやつて……」 「ふうん?」 「きつと、プライベートに突つ込まれたくなかつたんぢやないかな」 「ええ、うそおー、それ男側からしたらちよーチャンスぢやん? 女の子も食へる上、どんどんお金引出せるわけだし」 「でもプライベートでくつついちやつたら、お店に行く必要無くなつちやふぢやん?」 「うーん……でもそれは、そいつの力量といふか、それこそ腕の見せ所つてやつぢやないかな」  私と彼はにやにやしながらも、話の筋を戾す。 「——それで、そいつの家に行つた。意外と近かつた」 「部屋に上がつたの?」 「お|禮《れい》といふか……全く關はりの無い人に送つてもらつて|申譯無《わる》いつて言ふから……酒の一杯でも出すつて」 「ふうん」 「でもおれ、その時點で醉つてて。へろへろになる程ぢやなかつたけど。だからココア出してもらつた」 「ココア」  私は笑つた。 「別にいいだろい。笑ふならおれよりココアを家に置いてゐる奴を笑へ」 「うふふ、確かにをかしい。意外とそいつ……」  女つぽい|撰擇《チョイス》、と言ふのは反感を買ふ氣がしたし、女でもゐるんぢやないの、と言ふのはもつと不味さうだつた。 「それから?」 「それでその……ココア飮んで……、話しして……それで……それで……した」 「え?」 「した」  その時私はにやけてゐたといふか、それでゐて眉を|顰《ひそ》めたやうな、微妙な表情をしてゐた。意圖が彈き出された瞬間、ぱ、つと私の心は涌いた。 「え! 初對面で? しかもノンケを?」 「おれだつて驚いたよ……。酒も入つてたから、そんなに抵抗は無かつた……かな」 「どつちが受け?」  この問ひには|顰蹙《ひんしゆく》を買ふと思つたが、すぐ返された。「おれだよ。おれしか有り得ないだろ、初めてで、そんな、ノンケとやるなんて……」  そりやさうだ。初體驗で自分を虐め拔く奴なんてゐない。 「あなたがゲイだつて言つたの?」 「いや……その……なんていふか……流れ……」  また流れ、流れつて。ああ、だからこそ附合つてこれたんだらうな。 「要するに、口が上手かつたのね。引出されたんだ」 「さう……かな」  まんざらでもなささうだつた。 「それで? あなたが醉つた勢ひでやりたいとでも言つちやつたの?」  ノンケくんのしつぽで。 「ち、違ふよ! いくらなんでも、初對面の……、しかもノンケに……おれはノンケに、そんな事は言はない」  つまり、ゲイには言つちやふんだ。 「相手から誘はれたつて事?」  それからは、サラはだんまりだつた。  それつて、相手がバイだつた、つて事ぢやないの——。實際にどういふ“流れ”があつたにせよ、疑はざるを得なかつた。ゲイが往來するやうな繁華街で、いい感じにいい感じの男を引つ掛けて、セックスをする。最初つから、そのつもりだつたんぢやないの。大體、その男は介抱をさせるために、サラを連込んだはずなのに。相手がゲイだからつて好奇心からするか、普通? サラだつて氣附いてゐるはずだ——でも彼は最初つから言つてゐたではないか、「利用されたつて構はない」と——ああ、さういふ捨て鉢な態度——きつとそのホストに逢ふ前からその態度だつたのだらう、だから附込まれたんだ。 「隨分リスキーな事してるね」 「え」 「だつてさ、同僚……お客さんなんでしよ、漏らされても、をかしくないでしよ」 「ナホキは……、そんな人ぢやないよ、大體、自分も關係してるつて、ばれちやふぢやないか」 「相手なんて誰でもいいのよ、その同僚との間に『とつときの祕密』ができればそれでいいのよ、それで關係が强固になれば。ゲイバーから出てきたとか、知合のホストとできてるとか、何でもいいの」 「そんな事……」 「ごめんね、ありもしない事、ごめん」  でも、さういふ、現實的な危うさに、事の愚かしさに、私は氣附いて欲しかつた。相手はあなたを利用してゐるだけぢやない、あなたの弱味すら握つてゐるの。同性愛のいざこざは“全う”な社會で生きるサラには不利に働くんぢやないか。分らない。そもそも私がそんな世間體、どうでもいいと思つてゐる人間なのに、氣にしてもゐないはずなのに、——さう、こんな風に見てしまふ私こそ、邪惡なのよ、偏見の權化なのよ。そして私のやうな偏見持ちが|堆《うづたか》く積り上がつて、今がある。下らない、總てはあなたを守りたいだけなのに! 「餘計なお世話だつたわね」 「いいよ……」 「もう寢ましよ。夜更かししてると、變な氣分になる」  私が立上がると、彼も立上がつた。 「ベッドで寢なよ」 「ええ、うん……」  私がずつと氣になつてゐた奧の引き戶を開けると、ベッドが姿を現した。  【寢室】がある! 「すごい。ダブル?」 「セミダブル」  彼はテーブルのグラスやらごみ屑やら、片附け出した。  ベッドのシーツは白い綿だつたが、枕と掛布團は眞つ黑なサテンの生地になつてゐて、つやつやしてゐた。 「やだ。安つぽいラブホみたい」  ふふふ、と背後で笑ふ氣配がした。 「先にシャワー入つていい?」 「どうぞ」  浴室は「浴室だけ」。人一人が體を動かしまくるには充分で、タイルはぴかぴかだつた。ソープのボトルにぬめりは無いし、足元のタイルの溝にはちよつと|翳《かげ》りはあつたけれど、普段から手入れされてゐるのだと分る——つい「きれい」だと、きれいなままなのだらうな、と思つてしまふけれど。「きれいなまま」なのは、人の手が掛つてゐるからだ。……不意に、昔埃の積つたテーブルに食事を出された事を思ひ出した。  泡立たせたソープを滑らせる。撫でる感覺に、ぞはりとした。なんていふんだらうな……やつぱり、サラも男だから。引つ掛けたら案外落ちるかも、なんて。でも、私だつて女から誘はれたら萎えちやふだけだし。何よりこんな面白をかしい、貴重な話が聞けたのも、私がヘテロの女で、サラがゲイの男だつたからなんだ。私が性的對象として見る事はあつても、相手からは見向きもされない、そんな關係だからこそ得られた經驗なんだ。 「ねえ、下著で出步いてもいい?」 「いいよ」  一應パジャマ代りの輕裝は持つてきてあるけれど、私は普段下著で寢てゐるし、その方が樂だから、お言葉に甘える事にした。  彼はソファに坐つてゐた。先程の大皿やフォークも、シャワーを浴びたみたい。  ふー、と少し間を空けて、彼の橫に坐る。女の露出には、抵抗が無いのかな? 「麥茶、飮む?」 「うん、飮む」  麥茶のボトルは既に出されてあつて、私の分のグラスもあつた。 「いつぱいソープ使つちやつたし、髮の毛も落ちてるかも」 「氣にしなくて良いよ」  ぢやあおれも、と立上がり、【脫衣所】に消えていく。  けッ、【脫衣所】だつてよ。こつちはそんなスペースすら無い上に、便所があるつていふのによ。ソファに寄つ掛り、背|凭《もた》れに首を押附け、逆さになつた背面の壁とカーテンとを見やる。——ずつとここに、ゐられたらいいな。男の部屋にくると、いつもさう思ふ。いつか何かの緣で、男と一緖に住む事にならんかなー、とも。しかし私の普段の、だらしない姿を直視するなら、もはや誰も寄附かなくなるだらう……。ああ。  姿勢を戾し、冷たい麥茶を呷りながら、ふしだらな妄想に浸る。もし、上がつたばかりの、全裸のサラにくつついたなら、どんな感じがするだらう……サラつて、どんなカラダをしてゐるんだらう……あれはでかいのかな……やつぱり男とした痕もあるんだらうか……。サラの裸體に對する甘い|妄想《ひらめき》に、私のどこかも膨らんでいつた。そんな感覺にポウッとしてゐると、浴室のドアが開いた。  サラがどんな恰好で出てくるのかと期待してゐたところ、彼はTシャツとパンツの、殆ど私と變らない恰好で出てきた。パンツが見られたのは、とつてもラッキー! 綠のタータン柄の、とつてもかはいいパンツだつた。Tシャツは寧ろ著てくれてゐて助かる。私は男の胸板に免疫が無いから。何度セックスしても|堪《た》へられない。  彼は私の隣に坐つて、麥茶を飮んだ。  私は麥茶を底の底まで飮干すと、のろのろと〈寢室〉に步み寄つた。 「いいね。廣いし、ちやうどいい硬さで」  遠慮も無くベッドに上がる。 「……ここでセックスした事、ある?」 「ある。……ナホキは、ここに來てくれなかつたけど」  まだ未練があるの? 「サラもここに來な。一緖に寢よ」  ジュジュジュ、と高い音で麥茶が吸はれる。 「こんなに廣いのにもつたいないよ」 「でも……厭ぢやない?」 「厭ぢやないよ。寧ろ嬉しいくらゐだよ——大丈夫、なんにもしないから」  と言ひつつ、にやにやするのは止められない。  やつぱりあたし、男が好きなんだ。  端と端つてわけでもないし、かといつてカラダが觸れるわけでもない、そんな距離で、私たちは燈を消した。  もぞもぞと、洗ひ立てだらう滑らかなシーツを脚でまさぐつてゐると、トン、とサラの毛深い脚に觸れた。 「ふふふ」私は思はず、聲を上げた。 「どうしたの」 「いや、なんといふか……あたしつてさ、ほんと手出すのが早いなつて」 「男に?」 「今まで振返つてみるとね。|堪《こら》へ性が無いんだ」 「……いいんぢやないかな。少なくとも、若いうちはさ」 「あたしもどんどんぼろくなつてくよお」 「まだ若いぢやないの。それに、女の人は、いくつになつても需要あるし」 「いやいや、それは男の方でしよ。男は歲食つてもかつこいいからいいぢやない」 「……」  暗闇で會話するのも、何だか變な氣分だつた。だつて男と寢る時つて、いつもぴつたりくつついてゐたもの……。そもそも私たちは、何でくつついてゐないのだらう? 恐らく、互ひに刺戟し合ふのがこはいのだ。一人が、たつた一人が|獸《けだもの》であるために、一對の男と女は、くつつかないでゐるのだ……。そんな世界が、いくつあるつていふだらう? 「『なんにもしない』つて言つてさ」  彼は言つた。 「なんにもなかつた事なんて、一度も無いんだ」 「……さう」  それはレイプされたとか、あるいはしたとか、さういふ類の意味なのだらうか。私にはそんな詮索、できつこなかつた。でももしさうであるならば、私だけは誠實でありたい、彼との約束を守つてあげたい、守らせてあげたい、さう思ふ。  何度かの寢返りを打つた後、彼の寢息が聞こえてきた。こんな、慾に飢ゑた女一人、彼にとつてはとんだ化け物かもしれないのに、よく眠つたものだ。良かつた。彼はこの危機的狀況、分つてゐないのかもしれない。私が|暗闇《ここ》で一撫ですれば、あなたはすつかり傷附いて終るのに。危うさに氣附くには傷附かねばならず……、皮肉だ。  彼は「利用されても構はない」と言つた、彼自身が許した痛み、でも、私はさうして欲しくない、エゴ。別に友逹でも何でもないのにね、私つてば、ほんとお節介なんだ、自分の正義を振り|翳《かざ》したいだけなんだ、だから、エゴ。  私が眼を醒ますと、カーテンが引かれ、顏に太陽光が當つてゐた。 「ねえ! 太陽が當ると、肌が劣化しちやふでしよ!」  私が起きるなりさう言ふので、キッチンで何かしてゐたサラは、びくりとした。 「ご、ごめん……でも、每日さうしてるから……」 「おはやう」 「おはやう……」  洗面所で顏を洗つて戾つてくると、テーブルには朝食が竝んでゐた。  トーストに、ベーコンエッグ。それにスクランブルエッグ。スクランブルエッグはケチャップがまぶしてあつた。  いただきまーす、と彼のペースも構はずに、私はベーコンエッグを搔き込んだ。ああ、こんなにしよつぱいのならご飯が良かつたな……とは思つたが、贅澤は言へない。せつかく作つてくれたのだから。  トーストにたつぷりバターをつけて齧る。バターが滲みてふやけると、柔らかくて美味しいし、パン屑もそれ程こぼれない。 「おれも不思議に思つてた」  彼は言つた。 「へ? なにを?」 「おれがいつつも誰かと寢る時つて、セックスする時だつたから。……ミキが言ひたかつたのつて、さういふ事でしよ?」 「さあね」  忘れた。ちよつと投げやりになつてしまつたのは、まだ寢惚けてゐたからだといふのもあるし、ちよつと違ふやうな氣もしたからだ。昨日の夜何を考へてゐたかなんて、覺えの惡い私には、分りやしない。 「何時に出てくの?」 「んー、もう、少ししたらかな……」  時計を見ると、九時過ぎだつた。驛まで十分。支度して。十時には、行けるかな? 「急ぎでないなら、お晝も食べてきなよ。晝過ぎの方が、|空《す》いてるだらうしさ」 「でもお……いいの?」 「いいの」  むぎゆつと、ハグしたくなつた。  正眞正銘のゲイ、サハラと何も無い一夜を過ごしてから、三日が過ぎた。LGBTに興味を示す事はあつても、本物のゲイと話し、逢つたのは彼が初めてだつた。私に興味を示してくれない男に、私は興味が無い——さう思つてゐたけれど、私は性欲に屈したのだ。望みの無い男に惚れる、馬鹿々々しい。まあ何であれ、あれはあれで樂しかつたのだから、それで良し。私には他に男がゐるのだし、ゲイの男に執著するなんて、そんな事。男を落せなかつたといふ私の|高慢《プライド》が、ぎやーぎやー騷いでるだけ。  深夜、二時過ぎにぼんやりとゲームのプレイ動畫を觀てゐると、アプリから通知がきた。サラからだ。あの後お禮やら何やら二言三言送りはしたが、通話するのは丸々三日ぶりだつた。 「こんばんは」 「こんばんは」 「元氣?」 「うん、元氣。ミキは、どう?」 「あたしはもーだめ。限界。次、男に會へないと」 「また苦悶なんだね」 「さうさうクモンクモン」  そつちは? 新しい男見附かつた? 「ちよつとは前に進まうつていふ氣になつた?」 「うん……まあ……」  聞くには早かつたか。 「實はさ、おれ——會社でゲイ疑惑掛けられててさ。でも、あの日ミキと步いてるの、同僚が見てて。何か、いい感じに誤解とけてたみたいで」 「ふーん……ま、誤解ぢやなくて、それが眞實なんだけどね」  わはは、つと同時に|噴出《ふきだ》す。 「にんげんつて、單純だよな」  彼は言つた。 「女と一緖に步いてたらヘテロとか、ゲイバーから出てきたらゲイとか、ホストクラブに行つてたら、男好きとか……」 「みんな勝手なもんよ」 「何か、馬鹿らしくなつちやつた」 「みんなさう思つてるよ。馬鹿らしいつて」 「それでよく考へてみたんだよ。『役立たず』つて何だらうつて。おれはナホキに何を求めてゐたんだらうつて」 「うん」 「よく分らなかつた」  ずこー。 「でも思つたのは、そのよく分らない氣持のまま、附合つてたんだなつて……少なくとも……多分、おれは捨てられるのがこはかつた、おれはおれが求められてゐる事に歡喜したんぢやないか、で、失ふのがこはかつたんぢやないかつて」 「うん」 「ノンケから……モテた、つていふのも、嬉しかつたんだと思ふ」 「うん」 「でもそれが全部……いまパーになつてゐて、ま、少しは、晴れた氣がする、氣持が」 「うん」 「おれには重荷だつたんだ、この幸せを、この貴重な出會ひを逃してたまるかつていふ、氣持が……いつも焦つてた」 「あたしにもあつたし、あるな、さういふ事」 「……さういふ時つて、どうするの?」 「どうもしない。あたしは、|强請《ねだ》つて、搾り取るだけ搾つて、それだけよ。そんなろくでなしなの」 「でもなんていふか、さういふ正直さ……ちよつとかつこいいなつて思ふ」 「貪欲さの間違ひぢやないの。子供ぢやないんだから、こんな無茶苦茶なのに、|縋《すが》つちやだめよ」 「わかつてる。ミキも良い意味で、ダメ人間なんだね。安心した」 「良い意味でつて、どういふ意味よ」 「どういふ意味も」  私たちは、うつすらと笑つた。良かつた。少しは自省し、前に進めたやうだ。 「今夜はお赤飯炊かないと、だわね」 「ははは」  そして輕く話をして、四時になる前に終つた。  馬鹿だなあ、と思ふ。何が、ともいへない。ただ、何となく、話し相手としての私の役目といふか、遣り甲斐が一つ無くなつてしまつた氣がする——ま、最初から彼の需要とはそんなものだつたし、これから會話の囘數が減つて、自然消滅する事は眼に見えてゐる。誘はれれば嬉しいが、さうでないなら、それまでだ。彼も私も、新たな需要を創造していく。  こんなものだよ、「關係」なんて。  今日も悶々としたまま、サラにがつつく妄想をして、落ちた。 〈了〉