ジュンの順應

あー、最惡、最惡、もう、ムカつく相手

私は一昨日の相手の事を、搔い摘んで話した。

だつたら切ればいいぢやないですか

彼は私と似てゐる、解答こたへがはつきりしてゐる事に對して、容赦が無い。

その部屋に二つある机の、狹い方で愚癡を零す。突つ伏したら行儀が惡いとピシャリと言はれ、二人分の茶が運ばれた。

もう一つの、彼の勉强机は、不揃ひのコピー用紙で埋まつてゐる。ベッドの周りには本が積まれ、脫ぎ散らかした上著が何著か、くたつとなつて端の方に掛つてゐた。彼の文面は整然としてゐるが、部屋は世の獨身男竝に、雜然としてゐた。

掃除機、買つたの?

まだですよ

そもそも掃除機を掛ける場所スペースが無いといふか……。

お茶を飮む橫顏はまだ幼さが殘つてゐて、太い、黑緣の眼鏡が、私はあまり好きでなかつた。多分、初戀――それが戀であればだが――人生で唯一の戀人だつた男に似てゐるからだ。何の因果か年齡としも同じだつた、二十四歲。あの時は同い年で、でも今は四五歲も年上で、しかし自分がさういふ歲だといふ自覺も無い。相手が見た目の割に堅いからかもしれない。大學院生といふ話だつたが、大學に行つた事も無い私には、それがどういふ身分かといふのは全く分らなかつた。ただ難しい――なにがしかを書いたり考へたりしてゐる、といふ事だけ。

ジュンちやんも意外とケチだよね。安くなつた時にしか買はないつて、それ、いつまで經つても買へないパターンだよ

私はそれで五年も電子レンジを買へてゐない男を知つてゐる。

それが一番合理的なんです

それで五年も買へなかつたらさ、多分、それは要らないものなんだよ

彼はジュンロと名乘つたが、實際に會ふ段になると、本名で呼ばれたがつた。私はジュンと呼んでゐたが、本名もジュンがついてゐて、だからこのままでいいぢやない、と私は言つた。一方で私には本名の開示を求めないどころか、半年經つた今でも、律儀にミルキーさん、と口走る事もあるくらゐだつた。

今日は冷房、入れてるんだ

昨日より二度も高いですし、體溫の管理は、大切ですから

その視線は、何となく、私の胸元にいつてゐる氣がする。彼が女體のどの部位が好きかなんて、聞いた事は無い。思へば、この男とはあまり浮れた話をしてゐない――できないといふか。

私と彼との關係は、性質としてはメル友に近く、通話よりも長文メッセージのやり取りが主體だつた。彼の本分がまづ、長文になつてしまふらしい。かといつて卽時リアルタイムでそれをやるのはきついので、メールのやうに、少し間を置いて往復してゐた。私は文字での會話が煩はしくて通話をしてゐる口だが、彼のは面白かつたし、私自身長文を書くのは――たまに書く分には――樂しいと感じるので、その思考の應酬に附合つてゐた。彼の內容としては日常諸々に對する考察・問題提起であり、そのへんのブロガーが好んでするやうな題材、書き方をしてゐた。そこからいくと私の散文は奔放で、それこそ會話をするやうにぶちまけてゐるので脫線する事が多く、彼の整理された論文とは正反對をいく。それでも彼はその自由さを氣に入つてくれたやうで、もう半年もそんな、ぐだくだとした、謂はば思想觀念ぶつた愚癡大會が續いてゐる。

彼が會はうと言出したのも話し合つてみたかつたからだ。眞面目くんなもんだから、私の快樂主義的な人間關係つきあひなど知れたら眉をひそめさうだ、と思つてゐたが、精神安定劑みたいなもの、ココアとかポテチとか、砂糖、その他抗鬱劑なんかと同じ、と言つたら、それですんなり納得した。納得した? ……許容した、といふ方がいいかもしれない、彼にとつては理由道理、行動原理が大事なのだ。その上、自分の思想體系と合ふかどうかが――つまりは、普通の人が普通にやつてゐる、判斷基準いい人なのかどうかなのだけれど。

おつぱい、好き?

さう言つて微笑にやついた、今日はちよつとかがめば谷間が見える、そんな服を著てゐた。

別に、どこも好きぢやありません

ぢや、全部好きつて事なんだ

好きぢやないつて

彼は私が誘つた時從順だつた、本當に意外と。いつも自分からは誘はないのだけれど、彼の性格からいつて、絶對誘つてはくれなささうだつたから。でも眞正面から言ふのは、やつぱり應へた、相手は年下だし。

糞眞面目な彼が誘ひに應じる意義、そんなものは知らないけれど、同じでせう、性欲處理。


かはり番こにシャワーに入り、私たちは、キスをした。

なんて事のないキス、私はいつも眼を瞑つてゐて、たまにうつすらと開けると、彼はこちらを見てキスしてゐる。……ちよつとこはい。眼鏡のフレームが顏に當る度、鬱陶しい、と思つてしまふ。

セックスする時くらゐ、眼鏡外したら

僕の視力は〇・〇二なんです、間近でも顏が見えないんです

あたしのブサイクな顏なんて、見なくていいでしよ

眼鏡に手をやると、手に手をやられ、私は仕方無く引つ込めた。このプラスチックの感觸が嫌ひ、硬くてつるつるして冷たくて……、思ひ出してしまふ。

彼は私の首筋に口附け、二人してベッドに倒れ込む。

どうして――。何だつけ、初めてした時、言はれた言葉。中々美味うれしい言葉だつたはずなのに、思ひ出せない。確か文面の事を高く買つておいて……、何だらう、豫想に反して私が馬鹿つぽかつたとか、そんな言葉だつた氣がする。それに對して私は言つたのだ、だつて私は、馬鹿だから。それだけは憶えてゐる。

彼は私の文面を思ひ浮べてゐたのだと思ふ、でも違ふの、これが私、今あなたが觸れてゐる私が、生身ほんたうの私。

……

私はあまり聲が出る方ではない。演技もできない。だから率直に言葉で傳へようとするのだけれど、どこか官能に缺ける氣がする。氣持いいよ、もつとして、さう傳へたいだけなのに、何囘セックスしてみても、これだけは上逹しないでゐる。

叮嚀に女を扱ふのが彼の流儀らしいが、私が要望を出すと、二囘目つぎのセックスからはそのやうにした――しかしその從順さも一時だけで、彼は終りが近附くと私を無視する――それが私を幸せに導く確實な方法、といふわけだ。押附けがましいにも程があるが、私ははつきりとその不滿を洩らした事は無かつた。

彼が押したり、私が引いたり、ぶつかつて、まるでもちきみたいな問答も、昂奮こそすれど、行著く先が決つてゐるなら冷えてゐる。餠は固まつてゐる。

……

彼が容態きげんを問うた。

私はいいよ、と言つた。

あなたは、どうなんです、……

あなたの力量ぢや無理よ、お馬鹿さん。私は別に、どうでもいいから――

氣持よくなりたくて、切望して、やうやくセックスしてるのに、それが實際に始まると、當の目的は失せてしまふ――私はセックスすら面倒臭がつてゐるのだ! 氣持よくなりたいくせに、人一倍性慾が强いくせに、男が好きなくせに、怠惰の方が勝つてゐて、くそ。慾求不滿ふまんが募る。でもそれが私の選擇し、受容れもする、私の性分。

いいの……

私もなんて、そんな噓、とつても吐けない。下手なセックス已上に、噓のセックスは最低きらひだ。いいのつて言ふのも、曖昧だけど。


一通りが終つて、ベッドに橫になり、彼も私の隣に橫たはつた。

彼は腕枕をしたり、抱寄せたり、背中を撫でたり、なんて甘い事はしなかつた。意義が無ければしない、女には酷く刺さる態度を貫いた。不器用、いや、硏がれ過ぎた刄物ナイフ。相手をさしころすためだけのナイフ、性慾を吐いて捨てるためだけのセックス。私がしてゐるのもそんなセックス、でも、もつと、愛情つぽいものが欲しいぢやない。

……

……え?

やつつけないと、氣が濟まなかつた。


あんな事しないで下さいよ

息が整ふと、彼は言つた。

なにが?

加減してくれれば、ちやんとできたのに……

またしたかつたの?

あなたが氣持よくないぢやないですか

ふゥ、と笑ふ。

あたし、今のでも充分昂奮してるわよ。悶えてるあなた、かはいかつたし

それぢや僕にもあなたにも公平フェアぢやない

ふん、フェアとかなんとか……さういふのは、もつと上手くなつてから言ひなさいよ

ああ、言過ぎちやつたかな。怒られる前に、ベッドからすり拔ける。尤も、彼は暴力に賴つたり、怒號を飛ばしてくるタイプではなかつたが。――とはいへ、本氣で怒らせた事は無い。

あなたが、協力的でないから

まあね、それは、認めるわよ。でもあたしはこれで滿足してるし、あんただつて最後までしてるんだから、いいぢやない。上手くなりたいなら、もつと積極的な先生を見附けなさいよ

私にはこれくらゐしか當て附けやうが無い。

あー、おなかすいた

食事をするなら、シャワーに入つてからにしてください

言はれなくてもよ

ぬるいシャワーをかぶりながら、やつぱりこの男とはぎくしやくしてゐる、と思つた。別に感情が無いわけぢやないのだ、變にいちといふか、目的に徹してゐる。でも時間を掛けて良くなつていくなんて、そんな事。根が惡い奴でないだけに。きつと理想をおひもとめてゐるだけなんだ、頭で理解して、でも體も感情きもち理解できないもので、だからこんがらがる。總てが理屈通りにはいかない。……何だか昔の私みたいだ。だから餘計むかつくのかもしれない。眞面目過ぎるんだよ、あんた。セックスくらゐ、もつとふざけなよ。あるいはふざけないのが、あんたのおふざけ。

浴室を出ると、机にはコンビニ辨當と、卽席の味噌汁カップが二つあつた。

なんだ、あんたあ、人にはシャワー入つてこいつて言つておいて、セックスした體でコンビニなんか行つてたの?

……

でもありがと、すぐ食べたかつたんだ、ありがとね

氣遣はせてごめんね、と言ふと、いいえ、と短い返事。

シャワー、浴びてきなよ。あたし待つてるから

いいですよ。先に食べててください

……眼を瞑つて、彼が出てくるのを待つ。うつかりしてゐると、そのまま寢てしまひさうだ。ああ。もう一囘ベッドで橫になりたい。でもお腹も空いてるし、何か輕く口にできるものでもあればいんだけど、勝手に冷藏庫を開けるわけにはいかない。後がうるささうで。代りに味噌汁のカップの封を切つて、いつでも入れられるやうにしておいた。辨當は、あたためておいた方がいいだらうか? 分らなかつたので、シャワーが止まると同時に、自分のだけ溫めておいた。彼が溫めると言つたら、こつちから出せば良い。

先に食べてて良かつたのに風呂から上がつてくると、彼は言つた。

お辨當、あつためる?

いいです。それよりあなたは、服を著てください

……はいはい

私がシャツとズボンを身に附けてゐる間に、彼は味噌汁をいた。別に下著だつていーぢやん? 改まる場面でもないくせに。

食卓は靜かだつた。味噌汁を吸ふ音、しやくする音、頭も疲れ切つてゐたから、特に話す事も無い。

お腹は何とか滿たされ、それから、それから……する事も無くなつた。ジュンと逢ふ時は、本當にセックスする時だけだ――どこかに行かうとか、あれしたい、これしたい、冗談めかした事一つも無かつた。かうしてみると、彼と私とはえらく希薄だと感じる。

その裏に積重ねた言葉があるとしても。觸合へる總てが眞實ではないにしても。寂しく、冷たい。

あたし、歸るわ

さうですか

雨がベランダを打つてゐた。あかりが無いために部屋は暗く、靑かつた。さうだ――燈の無いままで、飯を食つてゐたんだ。

私は押戾した椅子をもう一度引いて、坐り直した。

彼の睫毛が、私にまたたく。

もう逢ふの、やめませうか

……え。
どうして、なんで、理由はなんです

あつさり承諾すると思つてゐただけに、その樣子が意外をかしいといふか、嬉しいといふか――。

見込みが無いから

なんの? セックスの?

寧ろ、セックスしかないんぢやない?

それは、あなたが――さつき言つてゐたぢやないですか、自分は今のままで滿足だつて、だのに、

んー、私のセックスつていふのは、體だけぢやなくて、やつぱり人同士の樂しさつていふか……あたしとあんたつて、會話繫がらないぢやない、正直

そんな事……

勝つのはいつだつてこうとうの言葉だ、分つてるでしよ、私たち、今會つてるの。口を使つて話してゐるの。

やつてても樂しくない

……僕は

氣持いいのと、樂しいのつて違ふの、多分、あなたも分つてると思ふけど。虛しいでせう? いつも

滿足感が無い、安心感が無い、目が覺めたら何しよう、つていふわくわくが、想像が無い、それでセックスなんて、できるか? 關係を、維持したいと思ふか?

あたしは思はない、もう、續けたくない

彼は默つてゐた、耳たぶまで赤くなつてゐた、恥ぢてゐるのだらうか、はづかしめだと思つてゐるのだらうか? 分らない、どうでもいい、さつさとこの場を立去りたい。

とにかく、あたしはあなたと逢はないよ

床にぐづぐづになつてゐた上著を取る。ぢや、今まで、ありがと、それは本當に、思つてる

待つてくださいよ!

彼はまた珍しく――。思考のに附込んだのは私だ、承知わかつてゐる、でもさ、かうでもしないと、逃げられないよ。

どうして――あなたつていつつもさうだ、一方的に、終らせて

うん?

僕が、がんばる……解決する、その努力も、改善も、何も聞かずに、去つていく!

あのねえ、ジュンくん、ここは學校でもないし、會社でもないのよ、一方が逢ひたくないつて言つたら、人間關係はそれで終り! あんた、これ已上執著するなら、ストーカーよ

そんな勝手な!

勝手なのが人間關係にんげんよ。現にあなた、どうする? あたしがこの場から去つて、あんたのID消して、これ已上あなたになにができる? なにもできないでせう?

だから……、僕には提供なんとかできるつて

それ、附合つてるうちに示せないと、意味無いの

あなたが不平を洩らさなかつたから

ああ、でも、私は解決なんて望まなかつた、それすら望まなかつた、もう最初つから、手の込む解決とやらをするなら、あなたとわかれた方がましだつて、ずつと思つてた。酷い? ごめんね

酷い! あなたは酷い!

ふ、ごめんね、ほんと、私つて酷い女だ

あなたはさうやつて氣取つて、人を傷附けて、自己像を滿足させる

かもね、でも、同じくらゐ、私は人との關係に貪慾なの、求めてしまふものなのよ

ジュンくん

私が兩の手で燃えるやうな頰を包込むと、彼はいかつた、パシッと、音がする程銳く、私の手首を摑んだ。赤い目には淚が浮んで、情慾が涌いたみたいだつた。今までで一番情熱的だつた。

ゆるさない

ゆるさない? だつたらどうする? あなたはあたしと何がしたいの?

彼は手首を摑んだまま私を押した、とびきりこはかつた――本當にバチンと、勢ひよく頰を張られさうで。私は恨みを買ふよりも、暴力を振るはれる事の方が、ずつとこはかつた。

出て行つて、出て行つてください……!

無理矢理押しやられ、足元がぐちやぐちやになつたまま、私は外に追はれた。ああ――そのはげしさがこはくて、私は淚を一つ二つ零した。

これだから人の激情には耐へられない。應へる。……


私つて惡い女かしら、なんて未だに考へてしまふ。うーん、惡い女だつた、惡い女だつた……だつて、合はなかつたんだもの。それつて、自然で合理的な選擇ぢやない? これつぽつちも自分が惡いだなんて、思つてやしない。それどころか、淸々してゐる。

あれ已來、ジュンからメッセージが來た事は無い。そりやさうだ、削除したんだから。あの日、――一昨日のさいてーな男と一緖に。同列だとは思はない。でも、二人して合はなかつたといふのは同じで、最早解決の見込みが無い事は、彼らにも私にも分つた事だらう――私はやると言つたらやる女だ!

なにしてんの

ぼーつと、スマホの畫面を見てゐたら、聲が掛つたので、私は畫面をロックして、椅子にはふつた。墓に葬つた男どもの事

こわ

私が附合ふ男といふのは、つくづくどうしやうもなくて、でもとんでもなくかはいらしい部分があつて、たまらなかつた。だからついつい、手が出てしまふ。――だめだな、それ、典型的な浮氣人間をとこの性根といふか、でも私には浮氣なんて無いし――いや浮ついた氣、氣の多い人間なのは確かなのだけれど、それが惡いとか惡癖だとかは思つてゐない、全然。今だつて、過去の戰利品を數へてゐた、たつたそれだけ、ないがしろにしてゐるつもりは無い、寧ろ、彼らを大切にしたいから訣れた、たつたそれだけ。ずつと續く關係なんて無いよ、變らない關係なんて無いよ、何もかもすぎつていくよ、あるのは今の娛樂らく慾望よくだけ。

ダルちやんも、すぐお墓に入れてあげる

んー、おれはてうさうがいいな

そこはあたしに食べられたいつて、言つてよ

やだよきもちわるい

あたしはきもちわるくて、鳥さんにはいいんだね

いやなものは、いやだからね

……うん、だう

ぎゆ、つと、足元にもたれ掛つた、大きな大人こどもを抱締める。

このこどうは、いまここにいきてゐるぞ。

それをこれから、とんかちか何かで叩いてぽんこつにしてしまふ、かはいい、三十二年生きてる男の子。

君といふかはいさに觸れられれば、今は、それで。