I-18 しぬおぼ、【即興詩】をやつてゐました。
まづは締めを。
ベア・ジョンソン著ゼロ・ウェイスト・ホームも讀むと、所々にある氣怠さは解つてもらへると思ひます。レポートの補足でもあります。
一言で言へば有難いといふか、本當に良い經驗になつたと思ふ。この場を借り、文学フリマといふ場、そこにゐた總ての人たち、活動を應援してくれた人々に感謝します。ありがたう。
これと言つた後ろ盾も無く、傭はれたわけでも、誘はれたわけでもなく、自主的にかうやつて何かをする、といふのは、人生で初めての經驗だつたかもしれない。これが初めて自分の力で稼いだ金、そして人のための藝かもしれなかつた。さう、一人で引籠もつて書きまくるのとは明らかに違つてくるのだ——
——今までは一人で默々と書いてきたわけだけれども、卽興詩は違ふ、人を相手にして書いたのだ、と。そこが普段の詩との最大の違ひだ。書かれた詩は直後に讀まれ、讀んだ人間から何らかの反應を引出す——自分一人で何もかも終らせてしまふのとは違つて、卽興の藝は人と關はらなければ、何も生み出せない。人と關はるのは苦手と言つてゐた私がよくもこんな事をやつてのけたものだ。
——でも實際のところ、私は人と關はるのが好きなのだ。きつと。面白いし、何よりあたたかい。物書きは自分の言葉で人を感動させたり、變へたりするのが堪らなく好きで、そこに快感と使命感を見出すんだけれども——何だらう、傳はつたといふのが傳はつてきて、だから心地良いといふか。卽興詩を書いてゐて堪らなく嬉しかつたのは、相手の欲求を滿たしてあげられたといふか、彼女の望んでゐる事と、私のしたい(してあげたい、できる)事が合致した時——傳へたいものが傳へられた、傳はつた時だつたんだな、と。的確な言葉を彈き出した時とは又別の感覺。人をあたためられたらこちらも嬉しいが、もうそれは嬉しいといふ陳腐な表現では收まりきらないものだ。
思ひの外
前日からの睡眠時間は3時間足らず(行きの電車で居眠り)、インスピレーション的にも冴えまくつてゐるわけではなかつたが、隨所で的確な言葉を突けたので滿足な出來だつた。
殘念だとすれば、暇ノート(寄書)を埋められなかつた事か。落書しながらお待ちしてますよ。
の通りにする豫定であつたが、客そつちのけで落書きしてるのも不眞面目に映るかなと思つて、全然できないでゐた。ずつとにこにこしながら(のはず)坐つてゐた。寄つてくれた人に、もうちよつと積極的に書込んでいつて下さい~と言へば良かつたか。といふか、寄書は開く(見て分る狀態にする)べきであつたかもしれない。
いや、それにしても、書込んで下さつた方はありがたうございました! 絲は一人で樂しんでます!笑(できればウェブ公開してみんなに樂しんでもらひたい氣持はあるが……。注意事項としてウェブ公開しますと記載しておけば良かつたなあ)
出店者も來てくれた。不思議なのは、お互ひに名乘らない事だ。お禮が言ひたかつたり、どんな作品を出店してゐるか氣になつても、追掛けられない……。意外なんだが、ブースの境目がはつきりしてゐなかつたり、ブース番號が表記されてゐなかつたり、出店名が表記されてゐなかつたりする事はざらにある。(特に目的も無くぶらついてゐると、)本を開いてから著者やサークルについて知る事の方が多い。
カタログにもメンバー、Twitter、URLを記載してをらず、わざわざ檢索しなければならないのは本當に面倒だ。なぜ記載しないのだらう? こつそり出店したいといふ人もゐるかもしれないが、發行・賣買の責任がある以上、積極的に所在を明確にすべきではないのか? ただでさへ、我々は實態を明かしてゐるわけではないのに。
首尾良くサイトやTwitterが見附けられても、出店者が複數人ゐたり、委託販賣だつたり、出店について觸れてゐないと、出店者(自分が實際に會つた人)本人かどうか、確信が持てない。顏寫眞を載せてゐる人は少ないので、特にさう思ふ。
私も、せめて隣のブースの挨拶くらゐは、おはやうございますだけぢやなくて、しぬおぼの絲です、宜しくお願ひしますと言ふべきであつた。考へてみれば、名乘らないといふのは社會通念的に言へば非常識だ。それがさも當然に通つてしまふのは、內氣が多數といふか、謂はば配慮なのかもしれないが、見逃される(彼らは配慮してくれるだらう)といふ受動的な態度にも思へる。
人見知り程カタログを見ると思ふのだが、カタログがカタログの役割を果してゐないと思ふ事は存分にある。
はつきり提供する商品とサービスを記載する事は、來場者の助けになる。會場を廻つたり情報を搔き集めたりする時間の短縮ができるといふ事、そして欲しいものが見附け易くなる、といふ事だ。
謎めいた事を書いて人の氣を引かうとしてゐる者もゐるが、下らない事はやめろと言ひたい。何百といふブース、所狹しと置かれた本や裝飾、設備、人、それらがごつた返した中で、どれだけの人間が落著いて探したり見たりする事ができると?
文フリはカタログが役に立つてゐるかどうか、アンケートでも取つてみたらどうだ? 本當の意味でカタログを求めてゐる人間には、出店者の個性的な書き方は不便極まりない。
確か會場では過去のカタログを配布してゐた氣がするんだが、こんな糞みたいな情報なんて刷つて何になるのかと。半數は何を賣つてゐたかも分らないんぢやないか? 何の參考にもならない。
頒布したい人間、賣りたい人間は眞面目にやれ。カタログは出店者の共同出版だと心得ろ。何より、來場者に樂をさせろ。
書物に意味を持たせなくて何が作家だ。
詩について、ネットにアップしてもいいですか?
といふ人がちらほらゐたので、もしかしたらどこかで出廻つてゐるかもしれない。書いた詩の取扱ひについて、カタログやサイトで表記すべきだと思つてゐたが、すつかり忘れてゐた。改めて——お渡しした卽興詩については、御自由にお取扱ひ下さい。ウェブ公開・轉載・改變等。出自の表記は無くても大丈夫です。
さう、作者名の記入を求められたので、それが意外だつた。……といふか、責任としても記入すべきだつたよなあ、と。一應カタログで即興詩
と打てばヒットするのだが、皆が皆さうするわけではないしな。もし次に卽興詩をするとしたら、by絲くらゐは書いておかうかな。紙に名前とURLを刷つておくのでもいいが。
見に行きたいブースの洗ひ出しを怠つてゐたので、買物は見本誌を見てと、後はぶらつくしかなかつた。これはもう酷いと言ふ他無い。氣になつてゐたブースはあつたのに!
今囘は詩を中心に買つてゐた。……といふか、私はもう字が讀めなくなつてゐて、詩のやうな短文に切つたものでさへ厭はしい。
小說はたつた一册だけ、藍崎万里子さんのアマプレベス——! これは文藝同人無刀会[B-21]のサイトで見てゐて氣になつてゐたやつだ。ベートーヴェン(男)×モーツァルト(女)。サイトの紹介では二人は恋をするのか、しないのか。うまくいくのか、いかないのか。
と書かれてゐたが、實際の帶ではルイ、ボクとキスしようか?
となつてをり、噴きさうになつた、笑。甘過ぎる。しかも分厚い! 400ページ以上ある! ……今の私でこの量を讀切れるか判らなかつたが、とにかく買つた。手の屆くところにゐる人がどんな文章を書くのか氣になつたし、何よりベートーヴェン×モーツァルトつて面白さうぢやないか(と、ショパンやベートーヴェンを聽きながら)。面白さうつていふのが一番大事だよ。
購入書籍で特にお氣に入りなのは、豊泉朝子[H-49]さんの、臓の鼻だ。豊泉さんの畫はいい。美しい。構成が好み。右ページに圖畫、左ページに、短く槪要。詩畫集、あるいはただの畫集? でも詩の中に竚んでゐて、まるで違和感は感じない。靜謐さを感じる。ふしぎ系の作畫なのだが、そこまでグロテスクさは感じない。一册買つただけだつたが、特典
他、購入書籍の所感
辨當はブースで食べてゐた。なんといふか、恥づかしい。休憩所に行つても良かつたが、それだと來場者の場所を取つてしまふんでね。出店者は坐る場所
顏の高さまで積上つた物々——どこのブースでも見掛ける陳列方法だが、私は以前から、このごてごての陳列が好きではない。人間に屆かないといふか。出店者が見えない(本當に)。確かに——商品の見榮えはいい——よく見えるのだが。しかし肝腎の人間が見えない事で、私は不氣味さをも感じてゐる。
ただ、あるブースで買物をした時に、出店者が裏側から釣錢を取出したのを見た時は、上手いなあと思つた。隱す收納。私の場合は、振返つて床のリュックから小錢の入つた壜から取出してゐたので、かういふスムーズでみつともなくない對應ができるのはいいと思つた。
#物々
僕の顏の前には臺がある
お客の顏の前にも臺がある
誰も見えない
釣錢はきつちり用意し、足りないかなあと思つたくらゐだつたが、全くの杞憂だつた。實際には、2囘しか釣錢を使はなかつた。やはり皆、10圓玉くらゐは持つてゐるのだ。なあんだ、つて感じ。小錢は重いし、移動するとじやりじやりうるさいので、次囘があるとしたら、もつと減らせるだらう(値段を變へなければ)。實を言ふと、札の用意は全くしてゐなかつた。だから一萬圓札や五千圓札を出す人がゐたなら對應できなかつたが、さすがに10圓にそれを出すやうな人は現れなかつた。でも1囘分くらゐは持つてゐた方が良いだらうな。
紙束は100枚用意してゐたが、餘裕で間に合つた。といふか、實際100人が來たとして、私は書けなかつたし、書くつもりも無かつただらう。知合ひがたくさんオーダーしたので10枚は悠に超えてしまつたが、まあ多く見積つても、50枚は要らないだらう。精々30枚か……際限無く書く、といふのも良い商賣ではないだらう。ある程度見切りをつけなければ。息が切れる。紙束の枚數が在庫でありノルマ、限界數となる。クロッキー帖も携帶するだらうが、制限は設けるよ、笑。
今囘は、25篇程書いた。
入場証入れのラベルが貼られた箱を持つてゐる人がゐて、それに入れるだけだつた。
▼▲が境界だらうなといふ事で、その場で端を裁斷。持つてて良かつたハサミ。
アイテムと表記)を登錄する。
次囘の出店については未定だが、既に寄書の形態について、良い案を思ひ附いてゐる。物も少し賣らうかと思つたが、どうだらう。私は物販に關して消極的だ。置く分ブースが狹くなるし、特に發注して作るやうなものは懸念がある(環境消費)。少し前までは詩の選集を組んで何部か刷り、頒布しようかと思つてゐたが、それは取り止めた。わざわざ紙に刷るやうなものではないといふ氣があるからだ。決して卑屈といふわけではなく、純粹にその必要性を感じない。私の詩が無かつたら無かつたで人々は別のところに詩を求めていくだらうし、何だつたら自分で詩を創つてみてもいいのだ。寄書に詩を書いても良い。もつと氣輕に詩を書いてもいい——といふか、私が25日にやつてのけたのだつて、凡そ詩と呼べるものではなからう。私もこれつて詩なんだらうかと、頭をよぎらせつつ書いたものだ。——だからもつと皆さん、書きませう。何だつていいのです。獨り善がりだつていいのです。私は狂はないために書いてゐます。あるいはただ詩人
ナタリー・ゴールドバーグの本魂の文章術に、彼女が卽興詩をやつてゐた經驗が書かれてゐて、面白さうだなと思つたのがきつかけ。
後、皆と違ふ事がしたかつた。私も小說や詩を販賣するヴィジョンはあつたが、字を刷つて頒布するつて、皆と同じだよなあといふ意識があつた。何が面白がつてもらへさうか、又その時にしかできない事は何かといふのを考へた結果、卽興詩や寄書になつた。他に卽興詩を書いた葉書を頒布しようかとも考へたが、書いてゐる事があまりにもしやうもないので没になつた。私自身、寫眞や繪の載つたポストカードは全く使はないので、需要を感じなかつたといふのもある(他人が書いた詩を送るくらゐだつたら、自分で書いた詩を送つた方が良くないか?)。
手元に殘らないつて事も魅力か。書留めるから形としては殘り、受取つた人間が公開する事はあるかもしれないが、基本的に書いた人間の手元に殘る事は無い。卽興詩は捧げ捨てる事の訓練である、とナタリーも言つてゐた氣がする。
安過ぎない?
と言はれる事に驚く。どうだらう。勞働の對價に見合ふかといふと、分らない。確か元々はタダでやらうと思つて(タダなら釣錢を用意しなくて良いのだ)、でも卽興で詩を書くつて、結構頭を使ふよな、と思つて有料にした。10圓なのは、私が全くの素人で質の保證ができないといふ事と、下手な事を書いても10圓ならまあいいかとお客さんに思つてもらへさうだつたからである。つまり保險である。ナタリー・ゴールドバーグも途中で値上げをしたし、25日はそこそこ上手く書けたので、私も値上げしてもいいかなあ、とは思つてゐるが。どうだらうな。かなり勇氣の要る事ではある。値上げつて。
——値段の話で思ひ出したが、良い物を書いてもらつた
と言つて多くくれた人がゐた。ありがたうございます。
新しいものを買はず、家にあるもので準備する事。これは逹成できたので滿足である。
當日セロハンテープ(消耗品)を使つてしまつたのは悔しかつたが、固定する手段が思ひ附かなかつた。物を置くにしても、ずれてしまはないかといふ懸念があつた。
あなたといふ人
、つまりお客さん自身の事を書くのが一番難しかつた(2人もゐた。人名お題を込みすると3人)。
知合ひから18禁
に關はるテーマ、つまり性的お題を出された事もあつた。生理的機能についてのお題も。私はかういつたお題に制限は設けてゐないが、詩の內容が18禁であつたり性的であつたりするとは限らない(保證できない)、といふ事は言つておく。
あとお題ではないが、代金を倍出すから長く書いてほしい
、といふ人がゐた。內容に關する事はすつからかんで駄目で、私は本當にただ書く事しかできないんだなあと思つた。
人と關はる事、手製のもの、人のために書く事、獨り善がりではなく
……人が見たり賴んだりする度に緊張する。書く度に緊張する。しかし、それを凌駕する程のスリルと狂氣
常に待たせてゐるといふプレッシャーがあり、言葉が出て來ないかもしれないといふ恐怖は附き纏つて離れないが、その時はその時だよ、と。終つてみるとね。實際のところ滅茶苦茶な事を書いて恥づかしくなつた場面もあつたんだが、それでも出すのが卽興といふ商賣だし、かう言つちやなんだが、失敗でさへ商品なんだと。恥を搔いたり舞上つたり、それを發露したり感じたりするのが卽興といふ契約には含まれてゐる。だから私は卽興でやりますと言つた途端に、惡魔と握手を交はしたのだ、と。卽興といふ惡魔。でも人々が想像する程恐ろしくはなく、有難い事に(恐怖は)書いてゐるうちに過去つてしまふ。もたらしてくれるのは甘美。
正直なところ、歸つた後はもうあんな緊張なんて御免だ、二度と卽興なんてやつてたまるかなんて思つてゐたが、(企劃について)良い案を思ひ附くとどうしてもやつてみたくなる。別に卽興が伴はなくてもいいんだけど。でも本を配らない私にできる事つて、それくらゐだし。
よく書けるね
とも言はれるが、要するにお題から連想する言葉を追掛けてゐるだけなので、何とも。自動筆記に例へた人もゐるが、實際さうだらうなと思ふ。といふか、物を書いてゐる人は大抵自動筆記の狀態に置かれるんぢやないか?
もし何かが役に立つてゐるとしたら、モーニング・ページとか、日記、小說の執筆だらうと思ふ。とにかく詰込んで私は書く。このスタイルはジュリア・キャメロン[あなたも作家になろう]から學んだ。
矢繼ぎ早に書くのは散文を書いてゐる時の感覺と似てゐる。それが詩に見えるとしたら、詩を名乘つてゐるからぢやないだらうか。
大抵の人は卽興で物を書いてゐるのだが、殊商賣になると大變こはいと言ふやうだ。時間を掛けられない事、(お題があるなら)人の要望に合せて書かなければならない事、その場で人の反應を見屆けなければならない事、などが主な懸念だらうか。しかし差當り、何も危惧する事は無い。人力で書かうが、靈感で書かうが、所詮我々は出來には干涉できないのだから。
時間を掛けて醱酵させるやうな創り方をしてゐる人であつたら、かういふ卽席の創り方は避けたいかもしれない。私は詩も小說もあまり時間は掛けない。といふか、根つからの面倒嫌ひで推敲が嫌ひ(苦手)であり、書き終へたものには興味が無い。——ああ、さういつた意味では卽興的な要素はあるのかもしれないなあ。書いてゐる間が總て。
文学フリマで卽興詩をやつたのは私が初めてではないし、特にウェブでは詩の好きな人がこぞつて卽興で詩を書いてゐる[例:ハッシュタグ #即興詩 - Twitter]。拍子拔けすると共に、人々が氣兼ね無く書いてゐる事に嬉しさも感じる。決して私の行爲は特別では、無い。
しかし金を取つて人前で書く、といふ體驗は、讀んだり聞いたりするだけでは絶對に感じる事ができない。ましてや人との關はりは——尊い。實際にやつてみる事は、尊い。
私はもう讀んだり感じたりする事に時間が掛けられない、2、3行以上を讀むのはきつくなつてゐる、といふ事は豫め言つておく。そして好き嫌ひが烈しい。
買つた本の半數も讀まない。讀めない。金と資源の無駄だつた、と後から悔いる。さう、買はれたからと言つて讀まれるわけではない、あなたの本は。
君に似てるだれかじゃダメなように
あの子に似ているわたしじゃいやなの
星とか
月とか。ファンシー。イメージはピンクのドレス(表紙がピンクなだけに。作者のイメージもある)。
穴と柔らかな襞に潜りたい一心で献身するのです。
今日は、置いてきた。
息をした。
埋もれた。
窓硝子から。見る。世界を。
愛していた。
少しだけ。
オキシトシンスイミングといふ題でも詩を書いた。
オキシトシンを
快樂に插げ替へて書いたが、結局のところ、私の書くものつて敎訓めいてゐるといふか、說敎臭くなつてしまふんだなあと、書いた後思つた。でもきれいに纏められたので、出來としては滿足してゐる。
やさしく像にふまれたいといふ題で書くとかうなる(あいにくと卽興ではない):
像に踏まれたい男がゐた
會社員になつても詩を書續け
像を忘れなかつた男
ある日男はアフリカに行き
像に抱きつき
像に踏まれて
死んだ
イタいニュースが
彼の名を刺し
彼はホンモノの
死人
一方で
彼を踏んだ
像は死んだ
その皮と、肉と、
牙は、
無駄なく、無駄なく、
使はれましたとさ
第二部 植物図鑑
目次が奇怪。冷たい遊び。
お前も俺も魂の底に猫を持っている。
毒にも藥にもならない。
特定されるだけにアンタの本讀んでないヨとかアンタの本意味解んないヨとか言ふのを躊躇つてゐる人はゐると思ふんだが(苦笑)、私は敢へて書く事にした。もう默つてゐようと思つてゐたのだけれど(感想の書き方すら知らない)。凡人の讀み方で全然構はないと思ふし、だつて凡人に向けて賣つてるんでしよ、澤山の人に讀まれたい
つていふのは。臆する事は無い。
と言はれかねないが、私はかういふ人間なんだよ。
意味不明な言葉を意味不明な言葉で濁す、さういふ不誠實さが私は大嫌ひなんだ、堪らないんだ。巨匠の作品だらうが、友逹の作品だらうが、意味不明と言つてやれ。作者と讀者のどつちに讀解力が無いのかなんて、どうせ誰にも解りやしねえんだ。自分を搖さ振るものが藝術なんだ。
餘白を取りたがる。白紙込みで藝のうち、詩は畫面そのものが作品になつてゐる、と言はんばかり。實際さういふ側面がある事は認めるし、美しく感じるのも事實だが、どうしてももつたいないと感じてしまふ(先に述べた左右のやうに、意味のある配置はハッとするし、何より見てゐて面白いと思ふのだが)。
要するに、かういふ事かもしれない。
私はもう小說や詩を讀むのがこはい。買ふ前は、どうしてあんなにわくわくしてゐるだらう、と思ふ。いざページを開くと、ぢつとしてゐられない。集中できない。
人の日記や手紙を讀んで笑ふのがやつとである。卽興詩でほつこりする一方で、私はコミュニケートされたくないと思つてゐるのかもしれない。文は訴へ掛ける。私に考へさせようとする。
本は、讀んだら用無しなんだ。こんなにきれいなのに——本當にもつたいない。一應同人誌の買取もあるやうではあるが。かう、同人誌專門の圖書館とかないのかなあ、と思つた。
もし私が小說を書いたら違ふのかなあ、と思つた。あの大好きな文章を、素敵なカバーを附けて、紙に刷る——ああ、いい、いい。——でも、その同じ文章を何十枚何百枚といふ紙に刷つて、何十册といふ本を机に置いて、賣る——ああ、考へただけで頭がをかしくなりさうだ。何でそんな狂氣の沙汰ができるつてんだ。
お金を拂つてもいいから、その場で讀ませてくれ(本は賣場に戾す)、といふのはどうだらう。作家は在庫を抱へる事になつてしまふが……例へ倍の値段を出したとしても、私は使ひ捨てなんてしたくないよ。刷つてゐる作家たちはどういふつもりで刷つてゐるんだらう。讀み終つた本はどうなると思つてゐるんだらう。實用書はともかく、小說や詩、娛樂文書の壽命は短いよ。
汚いかもしれない
と言つて、新品同然の本をじろじろ眺め廻してゐた作家もゐた。その汚い
本はどうなるんだらう。捨てられるのか、リサイクルされるのか、安値で賣るのか(ワケあり品)。皆きれいなものを賣りたがる。そして買ひ手は買ひたがる。
さう、私が買つてゐたのは新品だつたんだな、と。
あるいはもう、見本誌コーナーで讀んでしまつて、ブースで支拂ひだけする、といふ方がいいのかもしれない——(手の垢の著いたものを賣りたくないといふのであれば)。
チラシの山にも、本の海にもうんざりだね、もう。
……かういふ面倒を考へてゐると、益々もつて市場に顏を出すのが億劫になる。何とか手持・再利用・共有資源で創造していけないものかなあ。
客は斷る權利を持つてゐるが、頒布者も又配る/配らない權利を持つてゐる。できるだけ客が斷り易い環境を作る事も大事だ。それがたつた一枚のフリーペーパーにしろ、ポケットに突つ込み易い名刺にしろ、コストはゼロではない。そして斷られたとしても、個人的には受取らない事。客は要らなかつたのである。作品以外のものを、持歸らせる必要があるのか、處分まで負はせる價値があるのかどうか、再考して欲しい。
附錄について——客を驚かせるのはいいが、同時に客にとつては本來無用であつたはずのものである、といふ視點を缺いてはいけない。選ばせるのだ。自覺させるのだ。
ブースの品目を書いた紙を頒布してゐる作家もゐたが、見て分るやうな情報をわざわざ紙に刷る必要はあるのか、と。新刋を目立つ位置に、値札を大きく附ければ充分ぢやないのか。頒布した資料が、實際に役に立つてゐるかといふ事も著目して欲しい(當り前ではあるんだが、大した反應も無いのに慣習で刷つてゐる者が餘りにも多過ぎる!)。もし品目を書かなければならない程あなたのブースが込入つてゐるとするならば、そのレイアウトは糞なのですぐ見直す事。お客は立見といふ事を忘れてはならない。後ろにも橫にも人がゐて、氣を遣はざるを得ない狀態で見てゐるのだ。これ以上の勞を掛けさせるな。
要するに、足りないのはフィードバック(感想)かもしれない。要らない役に立たないといつた事でさへ、誰も傳へようとしない。創り手(出店者)は、資源を消費してでもしたい事を嚴選すべきだし、自らが(大量)生產者である事、又商賣の在り方を體現してゐる者である事を、自覺すべきだ。商賣に足を突つ込んだなら立派な商人だし、何かを創り續けるなら生產者なのだ。創作は——生きる事は——生產であり消費である。避けられない事項であればこそ、敢へての消費が、生產が必要なのだ。
本よりましとは言へ、私も又紙を頒布してゐた。鉛筆を消費した。
お手持のレシート・メモ書きなど、不要な紙にも書けます。
とカタログには書いてゐたが、殆どの來場者はカタログや(サークルの)サイトなど見て來ない、あるいは酷く受動的であり、こちらが仕掛けなければ仕樣お願ひみたいなものが認識される事は無い。
もつとガンガンアピールすべきだつた、とこれが一番の反省點かもしれない。私は準備だけで滿足してゐた[出店時のこだはり]。次があるなら、企劃そのものについてだけでなく、この部分についても强化していきたい。謂はば、どれだけ資源を消費せずに商賣ができるかが、しぬおぼ(絲)の課題なのだ。
ブースに立つた瞬間に、作家は賣り手になるが、創る事と賣る事は違ふ——。優れた創り手が優れた賣り手とは限らない。創り手の熱意がセールスポイントになるとは限らないし、文章表現の巧みな人が口を使つたお喋りではからつきし、といふ事もある(あるいは商品の說明さへすれば賣れると思つてゐる)。
私に商賣の事は解らない。だから商賣人の土臺では勝負しない事——卽興詩といふのは、創り手側に近い手法だ。眼の前で創る事によつて、お客さんは私が創り手である事を直感的に理解できる。皆がこれの眞似をしろとは言はないが、默つてブースに立盡すだけなんて面白くない。創り手である事を活かすべきだ。
ブースに立つてゐたその日に、あなたは賣り手であつたのか、それとも創り手であつたのか? 來場者はあなたを賣り手だと思つてゐたのだらうか、それとも創り手だと思つてゐたのだらうか?
賣り手に撤する事も(それができるなら素晴しい事だ)、默々と販賣する事も惡かないが、私は創り手である事を突詰めたい。私(逹)にしかできない事をやつてみたい。だつて、言葉少なに本を薦めるだけなら、書店の販賣員にだつてできるぢやないか。
創り手にしかできない事だ、なあ。作者本人が參加する卽賣會が書店の眞似事だけなんて詰らないよ。
私は作家なのだから、(口下手であつても)考慮してもらへるだらうは通じない。お客も又、私は讀者なのだから、(販賣者は)考慮してくれるだらうと思つてゐるからだ。
今時、販賣するだけなら書店でもウェブでもできるのだから、直接顏を出す以上、何か前向きな理由が欲しい。直接コミュニケートできる事——空氣を吸へる事がオフイベントの長所なのだから、前に出よう。もつと恥を搔かう。人を笑はせよう(笑はれよう)。
茶碗を作つてゐる人みたいに、同じものは作らない(作れない)といふのが、私の性には合つてゐるのかなあと思ふ。實際にオーダーが入つてから作り始める。私は賣るものとさうでないものの區別が附けられないから、その方が樂かもしれない。書いたものが、そのまま商品になる。
ある種のオーダーメイド——だからあんなに喜んでくれたのかなあ、と思ふ。自分だけの詩。
(しかしながら、本物のオーダーメイドと違ふのは、注文通りに書下ろさない事だらう。卽興(思ひ通りにならない偶然性)そのものが賣物なのだ。)
これが商賣か。必要とされる書き物とは何か、私の書きたいものは何か。人を笑はせる(泣かせる、怒らせる、考へさせる)ものと、私の書きたいもの/書けるものに相違がある時はどうすればいいのか。——商賣が人を幸せにする契約
約束とは人に掛けるものだから、商賣といふのは人間關係そのものと言へる。
人を見ない賣物に、未來
……實際に市場に出てみて感じたのはそこで、我々はただ書いてるんぢやない、實在し・血の通つた人間に投掛けてゐるんだ、と。私は、私の眼の前で人が笑つてくれたら嬉しい——無論それは表面的な事で、大抵の作家は時間を掛けて讀んでもらつて、その深みを感じてもらふんだけれども——。
私のやつてゐるのはくすぐるのに近い。直に感じてもらふ事。卽座に反應が出るもの。
實際に人間の前に出てみると、藝者の使命は、間違ひ無く人を樂しませる事なのだ、と强く實感できる。
出店者のレポートを見てゐて鼻につくのは、出店者が來なかつた事——隣
など、公然の事實——eventmesh - 第二十七回文学フリマ東京等、資料を見れば判る事——を指す時に、リンクもしてゐなければ名前も書いてゐない、といふ事だ——來なかつた=出店してゐなかつたといふ事實は、來場者にプラスになる。例へば5囘の出店履歷があるのに、4囘も休んでゐたとすれば、どうだ? 來場者がこのブースを信賴できる發行元かどうか、又チェックすべきか(このブースまで移動するか)どうかの充分な判斷材料になる。
文フリはカタログに來なかつたといふ情報を載せるべきだ。前述の通り來場者の判斷材料になるし、出店してゐなかつたのに出店してゐたかのやうに見せ掛けるのは、虛僞に他ならない。
忘れてはいけないのは、來場者には出店者が來てゐないといふ事實さへ分らない、といふ事だ。目當てのブースが見附けられなかつたとしても、そもそもブースが存在してゐないのでは、話にならない。尙且、來場者は配置圖の机の配置、ブース番號を道標
來場者は總ての出店者が出揃つてゐるものと思つて行動してゐる——文フリはその前提で運營されるし、それが覆へつたとするならば、速やかに來場者へ通知するのが道理なのではないか。カタログにあるものが無い時點で、來場者からすれば虛僞も同じだ。
當日、私の右隣I-17 室号613は空のままであつたが、せめて机の上の椅子は下ろすべきであつた、と今更反省してゐる。景觀は惡くなるし、來場者もどういふ事情があつたものかと近寄り難くなる。又、作業の際にも邪魔であつた。スタッフが片附けなければ、自分がやらねばならない。出店者が現れたならお疲れ樣ですと言つて椅子を廣げればいい話だ。
どうしても當日に行けなくなる(遲くなる)事はある。突然の體調不良、交通遲延、事件・事故などだ。もし身動きが取れ・ネットに繫がる狀態なら、まづWebカタログを編輯もしくはキャンセルを申込み(カタログの編輯とキャンセル手續は開催日まで
可能)、次いで隣接するブースに聯絡を取つて、出店者が闕
なので、緊急聯絡先として隣接ブースの聯絡先を把握しておくのは無駄ではない。ただ、彼らも出店活動に多忙であらうし、闕席してゐないとも限らない。さういつた意味で、最も適當で確實なのは、(會場にゐる)隣接ブースや文フリスタッフが空席に出店者不在の旨とブース番號を机に揭示する事である。
出店者は闕耽溺三猿@文フリ中止
となつてをり、2018年12月5日現在の固定ツイートではこんにちは、猿です。今日は残念なお知らせです。今月25日に行われる文フリ東京にて新刊「耽溺三猿vol.3」を皆様にお届け予定でしたが、編集の遅れ、諸々の事情により発行を中止せざる得ませんでした。楽しみにされていた方(いるかわからないですが)にはご期待に添えず、大変申し訳ありません。
と書かれてゐる。しかし、カタログにキャンセルの文字は無い。……これでは單に新刋を出せなかつたのか、出店を中止したのか、判斷できない。私は彼らを見附けられなかつただけなのか、そもそも彼らはゐなかつたのか? ……存在しないブースを探すのは時間の無駄、心身の負擔だ。出店者は紛らはしい書き方を避け、行かないならキャンセルを申込め。
行くつもりが無いのにキャンセルを申込まないのは、出店者の怠慢だ。來場者が割を食ふのは勿論の事、文フリだつて設營等に手間を掛けてゐるのだ。文フリは無斷闕席の常習者を切つてもいい。たとへ一囘でも、警吿はすべきだ。
來場者に正確且詳細な情報を提供する事は、イベント關係者の義理であり義務である。
アイテム)で檢索できるやうにして下さい。
アイテムと表記)を登錄して下さい。
この二つに加へ、買つたり借りられたりしたら作者に金が入るシステムがあるならば、(賣れなくなる作者の不滿を解消しつつ)多少は要らない本も活かせるのではないか。
情報はサイトに記載し、例へばURLをPOPに載せておくとか、QRコードを利用するとか。
1分足らずでゴミになるものを頒布するのはどうなんだ。