性別期待する事

性別欄

メールフォーム、アンケート。名前・アドレス・本文の他、

といふ項目があり、ぴたりと止まつた。

そこで思つたのは、答へたくない(未囘答)でさへ、性別に對する反應として集計されてしまふ、といふ事だつた。私は答へられなかつた。私は不快だつた。

本當の意味で答へたくない人の事を考へるなら、性別の項をオプション(任意)にするか、もつと言ふならば、性別の項そのものを排除すべきではないか。

Googleにも性別の項にその他つてあるけど、これは性別があるといふ前提に基づいて出された、强制的な質問なのだ(その他にも無いは含まれるだらうけど、囘答を强制してゐる事は確か。その他つていふのはセクシュアリティの(認知の)擴大などではなくて、性別選定ゲームの枠を擴げたに過ぎない)。

性別選ばされてゐる、といふ事に關しては性別欄を廃止しようが詳しい。

多くの人が性別として指してゐるものは肉體の機能生理的機能なんだらうが、それは本當に必要な場面で用ゐられてゐるのか。あまりに性別といふものを擴大解釋してゐないか。


性別に關するアンケート(質問)が出る度に、これは法/商賣だから、仕方無いか……と思つてゐるけれど、やつぱり腑に落ちないのだ。

せめて個人サイトくらゐは、性別を具體的に利用する理由が無いならば、この性別を問ふ項目を消してはどうだらうか。

多くの創作者がwebの登場に沸いたのは、見た目や肉體の機能で判斷する/される事が無いからだ。性を質す事は、この利點を潰す事になる。さうしてまで知るべき理由があるのか?(嚴密には、性を迫ると言つた方がいいかもしれない)


答へぬどころか、觸れる事すらも無い安心感が、私はしいのだ。

對象

例の、男性/女性に向けて書いてゐますといふのは、その性別期待してゐる役割に向けて書く、といふ事でしかない[○○向け]。

もし傾向を示す用語として使つてゐるなら、きつぱり中身を書いた方がいい。男×男とか、美少女凌辱ものとかね(その中で描かれるとかとかいふのは、フィクションなのだ)。

交流の場

さうすると、交流揭示板などで性別を曝す必要は全く無いのだな。精々そこから見るのは肉體の機能なのだから。セックス目的か、あるいは口など利きたくない程に生理的嫌惡感がある(特定の肉體を持つてゐないと交流する氣になれない)といつた場合には、有效なのだらうが。

性別といふイメージ

私は(性別)ですといふ時、それは何を意味してゐるのか。肉體/精神の機能か。社會が課す役割か。それとも、自分の中の(性別)イメージか。

(性別)として扱つて欲しいといふ人に訊きたい事ではある。(性別)としての扱ひとは何なのだ(性別)としての扱ひこそは、自分や他人が與へてきた/與へられてきたイメージそのものではないのか。自分自身の感覺や思考ではなく、イメージを演じてしまふ事の恐れがある。


參考:性別にこだわっているのは誰か?

2018年10月14日:後書――人間といふ確信

人々の言ひ方を見てゐると、皆を知りたいのだし、を見たいのだな、と思つた。

體、形――さう、具體的な人間の。視覺的な――情報――が無いと、あんまり交流する氣になれないのかなつて。どうだらう。人間といふ確信

例へば小說は――を想像しながら讀み進む――その方が感情移入できるから。當事者的な事柄に入つていつて、始めて思考が成立する。だから――抽象的な――意味が成立しがたい、場面を想像しがたい詩や散文といふのは、漠然とした不安を搔き立てる。心當りが無く、理解ができないから。ええ、さう、日記でも小說でも、性別は缺かす事ができない。特に戀愛やセックスシーンでは。(性別の記載を一切省いた小說も書けるだらうが、の槪念がある人にとつては、酷く不自然・浮ついた印象を受けるのではないだらうか。)

人相を訊かれた時に、つい性別を添へてしまふのは、單純にそれが分り易いだからである。男の人、女の人、男つぽい人、女つぽい人。(無論不明瞭の人もゐるのだが、あくまでここでは相對的な方法で個體を指定・特定・識別するための記號として見てゐる。)


性別つてのは、多分顏型と同じやうなもんなんだらう。面長、丸、逆三角、そんな感じで。深い意味は無いんぢやないの。

已上のものを期待する時、齟齬と不快が噴出する。


世の中には性別といふものが分らない認識できないといふ人がゐて、私は酷く驚いた覺えがある。その人たちは人を見てもといふ、凸凹といふか、違ひが全く分らないのだといふ――多分、の上で構はない人といふのは、かういふタイプの人のみでないかな。大抵は人を見た瞬間に男の人だ女の人だといふ情報がインプットされる。(餘談ではあるが、性慾の無い人がこのにどれ程關心があるのか興味がある。といふのも大半の人間は性慾があつて、性的關心の有無をで判定してゐるところがあるからだ。)