一時間と三十分掛けてやつて來る夕方の驛、ここは都心なのに、いつも人がまばらだから好きだつた。ギターケースを背負つた長身の靑年、小豆色の手袋で電話を掛けてゐる中年の女性、談笑してゐる頭の薄いサラリーマン二人と、今、公衆電話の脇に突つ立つてゐる私の前を、色の濃い外國人が去つていつた。私自身を第三者の視點で形容するならば……若くもなく、さして年老いてもゐない、眠さうな眼を太い黑緣でごまかした、野暮つたいフリーター……だらうか。抽象的過ぎるとしても、さう心掛けてゐるのだから仕方が無い。事實として私は地味であり、無力であり、人畜無害である事だけが取柄な人間なのだ——さう、無害といふ域に至るまでの困難を思ふならば——これも立派な長所なのだ——普通であるといふ事は誰の氣にも留
待ち人までが私を忘れてしまつたのではないかと思ふ頃、待つた、と聲を掛けられ、眼を開けた。私は氣の長い人らしく、それ程、と答へた。さすがに今來たところ、と言ふには遲く、外は暗くなつてゐた。
さつさと階段を上
風は無いが、耳は引つ張られるやうに痛かつた。あんまり冷た過ぎて、觸れた指の溫かさも感じない程。さ、と手を上著のポケットに戾す。新しく買つたガーゼのTシャツは、ふはふはですべすべで、とても氣持が良かつた。でもこの生成りの色は、まるでパジャマみたいだ……靑白い外燈の下では、氣にもならないけれど。手の甲を覆つてしまふ袖丈は、萌え袖だと馬鹿にされたが、冬ならこのくらゐの方がちやうど良かつた。實用に適ふなら、見え方なんてどうでも良い。
ただいま
彼のポケットに入つてゐた鍵は、きんきんに冷えてゐた。他人
私がぽけつと靴の紐を解いてゐる間に、彼はコンロのつまみをカチッと廻し、エアコンをつけ、ポットの湯をタンブラーに注いでゐた。
風呂入るか?
うん……
その頃にはできあがつとる
ユニットバスに入ると、細かい毛が壁のあちこちに飛散つてゐた。髮、切つたんだ……全然氣附かなかつた。相變らず、鏡の錆び附いた緣には使ひ捨ての剃刀が差込まれ、洗面臺の隅には消毒用のジェルが備へ附けられてゐる。赤と靑、兩の蛇口を少しづつ廻して、熱いシャワーを頭から一氣に浴びる……これからする事を思ふと、何もかもが冗長に感じてしまふ。シャワーも、夕飯も、その間の微かな雜談も、ささいな……ささやかな、私のための親切だといふのに……。
風呂から上がると、やはりいつもの通りに、足下にはバスタオルが敷かれてゐて、彼はイヤホンを片耳に突つ込んで、大畫面
いてッ
へたれたカーペットに踏出した途端、何かが踵
コロコロ……買つたら?
ええつて
私が怪我あすんの
彼が鍋の蓋を開ける。もくもくと湯氣がたちのぼつて、拭いたばかりの眼鏡が、また曇つた。……生姜の匂ひがする。
氣持いいか?
う、うん……もつとして
きつと私は變な顏をしてゐると思ふ。身體がすべてを受容れる、そんな形をして、ぎゆつと收縮してゐる。彼の呼吸
ぎゆ、つと……何だらう、貝? ピンク色の、ぬるぬるした、やはらかく、引締つた、貝、の身……浮立つてゐるせゐか、そんな生々しい事を考へてしまふ。かぱつと蓋を開けられて……搔き出されて、吸ひ盡されて、眞つ白にされてしまふ。で、放出し盡した私は、抛
……
最後は、マッサージ。肩凝りの方が、實は膨れ上つた本能的欲求よりも、深刻であつたりする。今のコートは實用的である代りに重くて、リュックが肩に食込んだ後などは、とてつもない疲勞感に襲はれるのだ。それを話したら、胸のせゐぢやないかつて。さうかもねつて。笑つて許した。CMで觀た、輕いダウンジャケットにしようかな、一緖に買ひに行かない? そしたら、俺はいい、と。彼はいつも獨り。接點は……さう、單純に、會ふ時だけ。買物とか外食とか、一緖にした例
よいしよ
麥茶を取りに、彼がベッドを降りる。毛布がめくれてひゆうと冷氣が入つてくる。急速に冷めるのは身體だけでない、それに怒りさへ感じる。もどかしさ。戾つてきた彼は變らない風である、でも私は元の溫
較べ、隣にゐる彼は氣に障るが强い人だつた。一人で何でもできるし、一人で何でもする人で、私の領域を侵さうとはしない——同時に、彼を侵す事もできない——强い人と附合ふのは賴りになるし安心もできる、けれどこの內に祕める弱さを、判つてはもらへない……——共有する事も、また觸れる事も——これ以上に無く私を孤獨にさせてくれる彼に對して、孤獨以外をも求めるのは、强欲といふものだらうか? ……
弱味の無い彼に、せめてもの抵抗にと啜
でも、當面は眼の前の幸福でいつぱいで、逃げていく餌を追つ掛けるみたいに、ひたすら屆く事を祈りながら走り續ける、そんな每日……。
彼に、そつと觸れた。
背中を向けた、脇腹に。何もしてくれないやうで、彼は手の甲に觸れ、すべすべだと言つてくれた。
怠け者の手だよ
前の彼にも言つたし、そのずつと前の彼にも言つた。言つてくれたのは父親で、その頃私は引籠もりだつた。
ぐ、と身體を押附けると、ン、とまた變な聲が、背中を通つて、私に響いた。
實用的なお樂しみについて、私は手を動かす事しか知らない。
きつと彼は變な顏をしてゐると思ふ。身體がすべてを受容れる、そんな形をして、ぎゆつと硬直してゐる。私の呼吸
靜かだけれど逞