りやうしん

卒業式が終つた。私の仕事も。最後の最後に明かすのはどうかなと思つたけれど、踏ん切りをつけるためにも、その公表は必要であると判斷した。いづれにしても、學校の關係者には知れてしまふだらうから。

問題は無い。めでたい事が重なり、事實は事實として、ただ華やかに迎へられる。

先生、おめでたう!

小林くんだつた。比較的手の掛らない、穩やかな氣質の子だつた。

ありがたう、小林くん。あなたも小さい兄弟を抱へて大變だらうけど、がんばるのよ

はい!

相手はどういふ方なんですか?

桃地は美人だが、いつも暗い顏をしてゐた。表情が讀めない。氣持が讀めない。厭はれる一方で、一匹狼的な氣質は、誰からも羨まれるところだつた。西校の先生。バレー部の顧問だつた人よ、桃地さん

桃地は初めて笑つた。


大方の生徒は保護者に肩を抱かれ、學校を去つていつた。もう一生踏み入れる必要の無い、この地を。私はもう少し足を運ぶけれど、いづれさうなる。さうであつてほしい。さうでなければ困る。

敎室には、彼と私だけだつた。校庭にはまだかすかに、式の餘韻――元生徒たちのじやれつく聲が聞こえた。

彼の右手には、學校の象徵でもある白薔薇が一輪、下を向いてゐる。

先生……

彼の聲には力が無かつた。今にもわなないてしまひさうな。

自分がさうさせたなんて、今更か。彼だつて解つてゐる、さう、解つてゐる。今にも泣きさうな彼に、何をしてやれると?

卒業おめでたう

私は右手を差出した。彼は應へなかつた。私は自分の席に戾つた。約一年坐り續けてきた席に。ここで君を見てゐた、あるいは他の生徒を。馬鹿げた事を考へ、そして實行した。かうして、彼に向き直つてみると、初めて個人として聲を掛けた日の事を思ひ出す。彼は迷惑さうな顏で私を見、差出した右手を、いぶかしげに握り返した。その時は――かう――かうなる事は分つてもゐなかつたけれど、あつさりと落ちてしまつた。さう、あつさり――あつさり?

先生に、最後に言ひたい事はある? のぞみくん……


どうして……

今にも過呼吸が起き、えつを洩らし、醜く崩れ落ちてしまひさうだつた。今の今まで――式の終りまで――あの時まで――上り詰めてゐた幸せな氣持はなんだつたのだ? 自分は馬鹿か? 大馬鹿か? おお、神よ――神なるものがあるならば、どうして、どうしてこの僕が、――これ程、までに、不幸なのでせうか――あんまりだ!

けろつとした表情で椅子に踏ん反り返り、脚を組むそのひとに、僕はケチをつけられなかつた。――これが大人。これが、大人。

どうしてオトナつて、ぼくをすてていくの?

胸の中の小さな僕が、そんな事ばかりまくし立ててゐる。知るか。僕だつて知りたい、僕だつて……!

耐へられず胸を押さへる。卒業式で受取つた薔薇が落ちてしまつたが、そんな事構つてゐられない。僕は卒業してしまつた、のか――大事な人からも――そんな――

それはあまりに、突然だつた。突然――

どう、して……

だつてその時はさう思つたんだもの

――涌いてくるものが、怒りか悲しみかも判らなかつた。僕はどうするのが賢明なのだらう! 怒り狂つてこの女をぶつ飛ばす? はたまた犯す? 分らない、分らない――どうすればこの――僕を侵食する闇を、あなたに與へられた絶望を傳へられるつていふだらう! 言葉はあまりに無力で――無力だ。さう、できるなら暴力によつて。このあまりの仕打ちのために。あなたを今ここで墮胎させる事が僕の悅び。ああ、しかし、さうしたら。僕は。僕は。それはあまりにも支拂ひ難い……ああ……

僕は先生かのぢよを見た。

先生の、……は、ほんとに……

うん。調べてきたけど、相手のだつて

……

それは決定打であり、事實だつた。それは僕のなせなかつた事、僕が最後に懸けられたかもしれないのぞみ。希望への絲はぶち切れ、僕はまさに赤の他人だつた。この人にとつて――僕はずつと――他人だつたかもしれないけれど――そんな風には思ひたくなかつた。

僕は彼女の中に立入り、しかし、何も殘せなかつたのだ。腹にも胸にも。それが決定打きめて、敗北要因。

私が女で良かつたわね、逆だつたらトンでもない事になつてたわよ

僕が女で、このひとの種を孕む事ができたなら、それは、永遠の充足れんけつを意味してゐただらうか。責任を取るつてやつで? いや、そんな夢想など無駄――現實として、僕は男なのだから。なすべき仕事をできなかつた男。そのチャンスがあつたに拘はらず――それをものにできたなら、先生は、僕と……本當に……そのつもり……でも……實際は……。

先生は、せんせえは、それが僕の子だつたら

先生は、すべすべした白い生地のハンカチで、僕の淚と鼻水と涎を拭つた。ふんはりと彼女の香りが入り混じり、僕は抱きついてしまひたくなつた。それももう、許されない事。してはいけない事。解つてゐたぢやないか。本當は。僕は何でこんな人を愛してしまつたのだらう。慾情してしまつたのだらう。

――僕は愛してゐるのか。欲してゐるのか。もう彼女を求める事ができないと知つた時、最後の希望がもたげた。

僕は、僕のために立つ彼女の太腿に、手を伸ばした。

良い學校にいく人が、そんな事しちやダメ

ベージュ色のスカートに、僕は觸れる事ができなかつた。その上には子供が乘つてゐるのだらう。僕の――だつたかもしれない――これがあれば――彼女は僕と――ゐただらうか――。

結局、女をものにできない男は、用無しなのだ。かうやつて愛されず、棄てられて、消えていく。

絶望した。僕は何囘殺されれば濟むのだらう。かうやつて――かうやつて。

がんばりなさい

むかついた――酷くむかついた。このひとは何も失ふものが無いぢやないか! あんまりだ! あんまり――

ああ――彼女からすれば、僕こそ失ふものなど無く見えるのだらう。全く勝手なものだ! 勝手な――勝手な妄想――臆測――皆惠まれてゐると言つて、勝手に僕を肥らせ、傷附く事など無いみたいに。だから。だから嫌ひだ、人なんて。期待なんて。のぞみなんて……


僕は人を愛さない誓ひを立てた。もう――もううんざりなんだ、愛する餘地に附込まれて、失ふなんて。

僕は彼女の白薔薇のコサージュを奪ひ取つて、床に叩き附けた。どうかお幸せに! 人を棄てて幸せになるなんて、まつぴらなんだ。