小說『りやうしん』 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 最終更新: 2020年4月8日 公開: 2019年6月10日 第1版 附錄: 『りやうしん』後書 http://kimitin.sinumade.net/2019/9-atogaki 『りやうしん』HTML版 http://kimitin.sinumade.net/2019/9 適用: Creative Commons — CC0 1.0 全世界 http://creativecommons.org/publicdomain/zero/1.0/deed.ja 著・發行者: 絲 letter@sinumade.net http://kimitin.sinumade.net/ ---------------------------------------------------------------------------------------------------- ルビ:|《》 傍點:【】 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- ■■■■ 注意事項 ■■■■ ・成人對象[成人対象] — 二十歲以上の讀者を對象とする[二十歳以上の読者を対象とする] ・小說[小説](フィクション) — 實在の事柄とは關はり無し、描寫中の行爲を獎めるもので無し[実在の事柄とは関わり無し、描写中の行為を奨めるもので無し] ・性描寫[性描写] — 性に關はる話題[性に関わる話題]を含む ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 『りやうしん』  決定的な事實の前に、純潔の花散る。 ・2666字/400字詰原稿用紙・7枚 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- りやうしん  卒業式が終つた。私の仕事も。最後の最後に明かすのはどうかなと思つたけれど、踏ん切りをつけるためにも、その公表は必要であると判斷した。いづれにしても、學校の關係者には知れてしまふだらうから。  問題は無い。“めでたい”事が重なり、事實は事實として、ただ華やかに迎へられる。 「先生、おめでたう!」  小林くんだつた。比較的手の掛らない、穩やかな氣質の子だつた。 「ありがたう、小林くん。あなたも小さい兄弟を抱へて大變だらうけど、がんばるのよ」 「はい!」 「相手はどういふ方なんですか?」  桃地は美人だが、いつも暗い顏をしてゐた。表情が讀めない。氣持が讀めない。厭はれる一方で、一匹狼的な氣質は、誰からも羨まれるところだつた。「西校の|日土《ひど》先生。バレー部の顧問だつた人よ、桃地さん」  桃地は初めて笑つた。  大方の生徒は保護者に肩を抱かれ、學校を去つていつた。もう一生踏み入れる必要の無い、この地を。私はもう少し足を運ぶけれど、いづれさうなる。さうであつてほしい。さうでなければ困る。  敎室には、彼と私だけだつた。校庭にはまだ|微《かす》かに、式の餘韻——元生徒たちのじやれつく聲が聞こえた。  彼の右手には、學校の象徵でもある白薔薇が一輪、下を向いてゐる。 「先生……」  彼の聲には力が無かつた。今にもわなないてしまひさうな。  自分がさうさせたなんて、今更か。彼だつて解つてゐる、さう、解つてゐる。今にも泣きさうな彼に、何をしてやれると? 「卒業おめでたう」  私は右手を差出した。彼は應へなかつた。私は自分の席に戾つた。約一年坐り續けてきた席に。ここで君を見てゐた、あるいは他の生徒を。馬鹿げた事を考へ、そして實行した。かうして、彼に向き直つてみると、初めて個人として聲を掛けた日の事を思ひ出す。彼は迷惑さうな顏で私を見、差出した右手を、|訝《いぶか》しげに握り返した。その時は——かう——かうなる事は分つてもゐなかつたけれど、あつさりと落ちてしまつた。さう、あつさり——あつさり? 「先生に、最後に言ひたい事はある? のぞみくん……」 「どうして……」  今にも過呼吸が起き、|嗚咽《をえつ》を洩らし、醜く崩れ落ちてしまひさうだつた。今の今まで——式の終りまで——あの時まで——上り詰めてゐた幸せな氣持はなんだつたのだ? 自分は馬鹿か? 大馬鹿か? おお、神よ——神なるものがあるならば、どうして、どうしてこの僕が、——これ程、までに、不幸なのでせうか——あんまりだ!  けろつとした表情で椅子に踏ん反り返り、脚を組むその|女《ひと》に、僕はケチをつけられなかつた。——これが大人。これが、大人。 “どうしてオトナつて、ぼくをすてていくの?”  胸の中の小さな僕が、そんな事ばかりまくし立ててゐる。知るか。僕だつて知りたい、僕だつて……!  耐へられず胸を押さへる。卒業式で受取つた薔薇が落ちてしまつたが、そんな事構つてゐられない。僕は卒業してしまつた、のか——大事な人からも——そんな——  それはあまりに、突然だつた。突然—— 「どう、して……」 「だつてその時はさう思つたんだもの」  ——涌いてくるものが、怒りか悲しみかも判らなかつた。僕はどうするのが賢明なのだらう! 怒り狂つてこの女をぶつ飛ばす? はたまた犯す? 分らない、分らない——どうすればこの——僕を侵食する闇を、あなたに與へられた絶望を傳へられるつていふだらう! 言葉はあまりに無力で——無力だ。さう、できるなら暴力によつて。このあまりの仕打ちのために。あなたを今ここで墮胎させる事が僕の悅び。ああ、しかし、さうしたら。僕は。僕は。それはあまりにも支拂ひ難い……ああ……  僕は|先生《かのぢよ》を見た。 「先生の、……は、ほんとに……」 「うん。調べてきたけど、相手のだつて」 「……」  それは決定打であり、事實だつた。それは僕のなせなかつた事、僕が最後に懸けられたかもしれない“のぞみ”。希望への絲はぶち切れ、僕はまさに赤の他人だつた。この人にとつて——僕はずつと——他人だつたかもしれないけれど——そんな風には思ひたくなかつた。  僕は彼女の中に立入り、しかし、何も殘せなかつたのだ。腹にも胸にも。それが|決定打《きめて》、敗北要因。 「私が女で良かつたわね、逆だつたらトンでもない事になつてたわよ」  僕が女で、この|女《ひと》の種を孕む事ができたなら、それは、永遠の|充足《れんけつ》を意味してゐただらうか。「責任」を取るつてやつで? いや、そんな夢想など無駄——現實として、僕は男なのだから。なすべき仕事をできなかつた男。そのチャンスがあつたに拘はらず——それをものにできたなら、先生は、僕と……本當に……そのつもり……でも……實際は……。 「先生は、せんせえは、それが僕の子だつたら」  先生は、すべすべした白い生地のハンカチで、僕の淚と鼻水と涎を拭つた。ふんはりと彼女の香りが入り混じり、僕は抱きついてしまひたくなつた。それももう、許されない事。してはいけない事。解つてゐたぢやないか。本當は。僕は何でこんな人を愛してしまつたのだらう。慾情してしまつたのだらう。  ——僕は愛してゐるのか。欲してゐるのか。もう彼女を求める事ができないと知つた時、最後の希望がもたげた。  僕は、僕のために立つ彼女の太腿に、手を伸ばした。 「良い學校にいく人が、そんな事しちやダメ」  ベージュ色のスカートに、僕は觸れる事ができなかつた。その上には子供が乘つてゐるのだらう。僕の——だつたかもしれない——これがあれば——彼女は僕と——ゐただらうか——。  結局、女をものにできない男は、用無しなのだ。かうやつて愛されず、棄てられて、消えていく。  絶望した。僕は何囘殺されれば濟むのだらう。かうやつて——かうやつて。 「がんばりなさい」  むかついた——酷くむかついた。この|女《ひと》は何も失ふものが無いぢやないか! あんまりだ! あんまり——  ああ——彼女からすれば、僕こそ“失ふものなど無”く見えるのだらう。全く勝手なものだ! 勝手な——勝手な妄想——臆測——皆惠まれてゐると言つて、勝手に僕を肥らせ、傷附く事など無いみたいに。だから。だから嫌ひだ、人なんて。期待なんて。【のぞみ】なんて……  僕は人を愛さない誓ひを立てた。もう——もううんざりなんだ、愛する餘地に附込まれて、失ふなんて。  僕は彼女の白薔薇のコサージュを奪ひ取つて、床に叩き附けた。どうかお幸せに! 人を棄てて幸せになるなんて、まつぴらなんだ。 〈了〉