報吿の報吿(小說とは呼掛けである)

なろうに關はつて

なぜ書いてゐるか、どうやつて書いていきたいか、考へるきつかけにもなつた。小說を投稿した一方で、詩は——詩は投稿しなくても良かつた。氣にならなかつた。それは厖大な數といふのもあるし、一サイトの評價に留まらないといふ、根據無き自信と自尊があつたからだ——それは私にとつて、無條件で價値のあるものだつた! 寧ろ、投稿した事を恥ぢた程であつた——この違ひは何だらう、と思ふ、小說と詩の——自信の有無だらうか、それとも書く事に掛けた苦勞の差だらうか? 確かに私は、には一切の苦勞をしてゐない——。その違ひは、他人に關はつていきたいかどうか、人を喜ばせたい(驚かせたい)かどうかに掛つてゐるやうな氣がした。さう、私は人に仕掛けるのが好きだ——昔から。しかし直接的に引つ掛けるといふ意味では、詩の方が(自意識は)强い。詩は總てが强調だから。短く讀み易く、總てが讀み手の心に響く——だから私は强い言葉を遣ふ。そこをいくと小說はだ。過程を踏んづけて樂しむ。輝きを放つ一行はあるかもしれないが、それだけでは價値を持たない——全體にとつての意味があるのだ。


メイ・サートンは、もし人に見られないなら小說は書かないだらう、でも詩は書續けるだらう、と言つてゐた。私は逆かもしれない、と思つたが、確かに詩は——他人にとつては殆ど無益の行爲で、私が私を慰める必要のために書いてゐた——一方で小說は見てもらはなければ何の報いも無いとすら感じる事がある。まあ、今となつてはどうでもいい事なのだけれど……(宣傳すれば一人くらゐは見てくれるのだし)。靈感は詩の方に働く、とも彼女は言つてゐた。私は小說の方に靈感を感じる。確かに素面では書けてゐなささうな、良い出來の詩はあるが、それでも神の助けを感じるのは、大槪小說だ——そつちの方を長く書いてゐる、といふのもあるけれど。いづれにしろ——神の助けがあつてもなくても、靈感の息吹を感じても感じなくても、物は書けるし、書續ける事もできるのだ。今のやうに。焦點は定まつてはゐないが、氣になる事を追掛け、何かしら殘す事はできる。

私はこの活動報告で何が言ひたかつたのだらう? ——自立、規律、自己、飽き——別に書いても書かなくても良い事、何で私は書いてゐるのかといふ事——今までの活動報告18歳未満閲覧禁止を見ても、なろうに對して愛想が無い事は見て取れるだらう。私は全く、宣傳のための宣傳をしてゐたのだ! 下らない! 無用なURLを割いてしまつた事を悔い、しかし最後にこんな文章を殘すのだ——これも又誰かのために。そしてその誰かとは、專ら自分の事なのだ。


(元々は最後の活動報告『山羊座みたいな男』(最終投稿)(18歳未満閲覧禁止に書く豫定であつたが、その懸命さは無かつた。あそこはあそこで、小說に限つたコンテンツに仕上げたいといふ欲求もあつた、詩集のやうに)


……引用をするために該當箇所を再讀したが、なるほど、的確に表現してゐる。私が書いた詩の中にも散文調のものはいくらかあるが、あれは——附錄に置かないのは——感じ方について焦點を當ててゐる——そもそも焦點など無い——から詩集に收めてゐるのだ。意味は無く、訴へてはゐるが、他人に對して話してゐるわけではない。他人の心を抉らうとする節はあるが、それは、私の性癖たのしみなのだ、と。

補足

独り居の日記メイ・サートン著、武田尚子譯 [ISBN: 4-622-04545-1] より:

私にとって、詩が、散文よりもよほど魂の真実の仕事だと思えるのはどういうわけだろう? 私は散文を書いたあと、高揚感を味わったことがない。意志を集中したときには、良いものを書いたし、少なくとも小説では、想像力はフルに働いていたわけなのに。たぶんそれは、散文は働いて得るものなのに、詩は与えられるものだからだろう。どちらも、ほとんど無限に改訂を加えることができる。また、私は詩を努力なしに書くといっているわけでもない。ほんとうに霊感を得たときは、一篇の詩に何度となく下書きを書き、高揚感を保持することができる。けれどこの闘いを続けることができるのは、私が恩寵にあやかっていて、心の中の深いチャンネルが開かれたときであり、そうしたとき、つまり私が深く感動し、しかも均衡を保っているとき、詩は、私の意志を超えるところからやってくる。

私が無期限で独房に入っていたとしたら、そして私が書いたものを読む人は一人もないと知っていたとしたら、詩を書きはするだろうが小説は書かないだろうと、よく私は考えたものだ。なぜだろう? それはおそらく、詩は主として自分との対話であるのに、小説は他者との対話だからではないかと思う。その二つは、まったく異なった存在の形式モードからくる。思うに私が小説を書いたのは、あることについて自分がどう考えたかを知るためであり、詩を書いたのは、自分がどう感じたかを知るためだった。