純情

數字に弱いので、暫く投稿からは離れる(戾るかも知れず)。Wayback Machineが何もかも記錄してくれるから、外部サイトで公開しなくても良いかなあ、と思つたりしてゐる。いや、元々は人の眼に觸れたくてなろうで公開してゐたのだけれど。餘りにアクセス解析の事が頭に殘つてしまふのだ——書いてゐる時が忘れられる——つまりは、ただの言譯なのだけれど。

でんでんコンバーターで簡單にepubファイルを作れるが、HTMLベースなら、HTMLで良くないか、と。そしてHTMLならWayback Machineで良い。つまり、私には何もする事が無いし、何もしなくて良い。お手輕だ。HTMLならタブレットだらうがスマホだらうがPCだらうが、大抵の環境で表示できる。なぜわざわざepubに變換してしておくのだらう。

テキストは——私が利用しないなら、殘しておく事も無いだらう。CSSファイルが殘るならば、一應のところ見た目は確認できるのであるし。私が公開してゐるのはテキストでありながらHTMLだ。最惡、めるなら何の問題も無い。そしてem要素は私の與へた注意であり、strong要素は何らかの重要性を示してゐると判るのだから、氣を揉む理由も無いだらう。——そもそもテキストに戾すといふ作業は、媒體の變更を示唆してゐる。そしてウェブで公開する限りにおいて、戾す作業は必要に無いのだ。私は何を恐れてゐたのだらう?


恐れはただ一つ、檢索されない事。人に見附けられない事。我々は自分への辿り道を用意しておく事はできるけれど、何億と——死者をも生きる事を考へると無限大に——埋もれた中に、を見附ける事ができるのは——? 殆ど無理で、しかも私は私よりも獎めねばならない賢者がゐる事を考へると、自分の重要性を說く事はできない

自分の讀者は唯一人、自分である。そして、自分の重要性を說く事ができる相手は、自分である。作品を最も必要とするのは、自分なのである。


愛は感情敎育だ、といふやうな事をメイ・サートンが言つてゐた[独り居の日記]。精神の成熟といふか、互ひに何かを學んでいく過程そのものが戀愛なので、自分は若い人間に學ぶ事は少ない(若い人に戀愛する傾向が無い)、とも。なるほど、感情的に成長していく(變化を與へ合つていく)のが戀愛とするならば、今の私の環境も、情緖も、總てが愛で戀、と言へさうではあつた。さうしたら、總ての人間關係が、ほんのりと戀の味を帶びてゐるだらう、といふ。精神の掛合ひみたいな、厚い壁のぶつかり合ひ、といふのは熱いものを感じる——我々は、戀愛といふものに色々與へ過ぎてゐるやうに見えた。複雜でドラマチック、演じたがる何かだ——これ程眞摯で靜謐な情緖を、なぜけばけばしく脚色できるだらう? ——華やかではあるが厚い。そして育てていきたい何かだ。私はあなたと私を敎育していく。少しづつの言葉の積重ね、少しづつの時間の積重ね。どうあつてもあなたに屆いてゐる。私にも又、屆いてゐる。何か。


敎育課程を描寫するのが私の役目だつた。ずつと昔から。

補足

独り居の日記メイ・サートン著、武田尚子譯 [ISBN: 4-622-04545-1] より:

(中略)私は今にして、もっとも充実した愛を経験し始めている。しかしアメリカ人はどういうわけか、中年過ぎての情熱的な恋という考えそのものをおぞましく思う。彼らは、生きていることを恐れているのだろうか? 彼らは死んでいたいのか、つまり安全でありたいのか? なぜって、いうまでもなく、恋をしていれば、人は安全でなぞありえないのだから。成長は要求するものであり、危険にも見えよう。成長には、得るものの代わりに、喪うものもあるから。だが、成長することをやめるなら、なぜ生き続けようとするのだろう? そして成長にとって、愛という、もっとも深く秘められた内奥の自己を呼び出し、それを求める関係以上に、要求の大きい雰囲気があるだろうか?

三九歳にとどまりたいという隣人の欲求は、心配から出ている——人が彼女の年齢を知ったら、もはや魅力を失うだろうという。だが、円熟した関係を求めるなら、人はそれを自分の年齢仲間のなかに求めるだろう。私は自分よりうんと若い人と恋におちることなぞ考えられないのだけれど、それも私が愛を感情教育と考えてきたからなのだ。そして若い人から、私が愛について学ぶことは少ないのだ。