白い窻

はつとして、カーテンを引いた。一瞬の事だつた。しかし隱し通せはしなかつただらう、相手にも、自分にも。

私は白い肢體を思つた。朝にシャワーを浴びる、私の肌と同じ色だ。でも彼女は普通の人間をんなで、何かしらの手入れをしてゐるのだらう。私のやうな不純な、そして不健康な白さではない。

私は元の溫もりに戾つた。そのどきどきは、治まりさうにない。でも治めなければならない……少し前まで原因不明の下痢に憤つてゐたといふのに、ちよつと窓に眼が行つただけでこれだ……だから、都會はやめられない。好機(好奇)の對象にまみれてゐる。

結局、いつも通り一時間每に目が覺め、その度に彼女の事を考へてゐた。時間になつてネオンの間を步いてゐる時も、同じ光景、同じ思考が、水に繪筆を浸したやうに、私の心と腦に溶けてゐた。勤務中、彼女が店に來ない事を――あるいは來る事を――期待しては笑みを零した。夜が明けて、これもいつも通り十分遲刻して來た店長に別れを吿げて、についた。マンションに入る前に、周圍を取卷くビルの群を見上げる。方向的には、あそこだつたか。四階、五階? ベランダには何も出てゐなかつた、觀葉植物も、洗濯物も。あるのは白いレースのカーテン、それに……。それに。例へば、彼氏の家に泊つた、その翌朝だつたとか。ならまだ、その殘り香があつたとしてをかしくはなかつた。それにしたつて大膽だ、病的だ、恐ろしい事だ、若い――たぶん若い――見るには充分な――女の――價値を――ただで曝すなんて?

廢棄の辨當を食べて、洗面臺に立つと、自分の體を見てしまふ。これはどれだけの價値があるだらう、とか、これを見て嬉しがる人はゐるだらうか、とか。煌々とした螢光燈の下、私にやさしくしてくれる人たち……それはを求めてゐるの? 私のを? 友逹になりたいとか、番號を交換しようとか、それはこの體を手に入れるための口實に過ぎないの?

附合つてみないと判らない、いや、附合つてみたつて判らない、結果が欲しかつたのか、きつかけのその先に結果があつたのか。誰も語らず、誰も突止めず、本質と欲求は癒著する。

――恐らく、今期一番の寒さ。

浴室に入り、換氣のために開けてゐた窓に手を伸ばす。向う側は、別のマンションの廊下である。この時間帶に行き來する人は見た事無いが、恥づかしい事に變り無い。窓枠に手を掛ける。が、動かない。ぐ、と力を入れても動かない。そこが定位置で、ロックが掛つたみたいに――この寒さ。恐ろしい事に、氷りついてゐるのだ。窓には、垂れたままの姿で固まつたが貼附いてゐる。一月だつて、こんな事無かつたのに――仕方無いので、シャワーの栓をひねり、窓を半開きのまま蒸氣が涌くのを待つた。……もしこのところを見られたら。あれだつてそんな偶然かも知れない。浴室ではなくリビングである道理も無いけれど――さう、彼氏から放たれた直後だつたかも知れないぢやない。窓を閉め、あたたかなシャワーを浴びると、尖つた部分から落ちる雫が、厭に眼に入つた。

ベッドにつく。カーテンが氣になるのはいつもの事だ。どんなに高級な遮光だつて、隙間からの光は防げないから。ではどうしてベッドを窓際に置いたのかつて、特に理由は無い。外を見渡せたら氣分轉換になるだらうとか――單純に、部屋が狹くて選擇肢が無かつたとか。遮光率九十九パーセントのカーテンは、くつきりと窓枠の影を映してしまふ。買つてから後悔したものの、これはこれで、と思ひ直した。完全に眞つ暗だつたなら、寢坊してゐただらうから。だから日が落ちた後も、眩しいにも拘らず常夜燈をけてゐる。

窓枠がガタガタと搖れた。實家にゐた頃は、それがどんなに酷いものか、正面の杉で判つたものだ。ここではさういつたものは無いが、どこかから卷上つてくる砂や、ピンチハンガーがじやらじやらと暴れ狂ふ樣や、勤め先のロゴが入つたビニール袋、靴跡のついたチラシ、色氣の無い洗濯物が飛んできたりと、自然のしるしは事缺かない。で、今日は……今日は……。

大丈夫だ、と言ひ聞かせる。時計は八時半を指してゐた。昨日は確か、八時だつたか、九時だつたか? いづれにしても近しい時空で、同じ人間が、同じ事をしようとしてゐる。

若い女が――そんな幸運が、二度も續くはずはない――しかし心は裏腹に、その期待をしよつて、私はカーテンを開けた。光に、眼を細めてしまふ……

………………


私も彼女も、微動だにしなかつた。彼女が私を見てゐるといふ保證は無かつた。確かに彼女の顏は、を見据ゑてゐるやうに見えるけれど……さう、さうよ、きつとこの眞上か眞下に、がゐるに違ひない……この人の男が。

あまりの强烈さに、カーテンを引いた。彼女そのものが眩しい、瞬きせずにはゐられない白さだつた。彼女こそは變態だ――いや――

私は嫉妬してゐた――だつて彼女が求めてゐるのは私でない、奇蹟的見物人、慰み者、有象無象の眼球カメラに過ぎない、無差別といふ、不特定の!

彼女は被寫體でゐてさうでない、眞の慰み者はこの見てゐる私、通り魔のレイプ――狩獵――捕食predate――發散――だ。私はこんなに特別視しようとしてゐるのに、彼女にとつて私はどうでも良い存在。それが赦せない。彼女にとつての特別になりたい。特別ぢやないと赦せない。だから。だから。


いつそカーテンを剝ぎ取つて……何をしてやれただらう? こつちにおいでとか、もつと見せてとか、さういふ事? ああ、階を數へる事は出來るよ、マンションに行つて、戶口を見張る事もね。だから? それで? 私のしたかつた事つて、さういふ事? 今頃彼女は――さう、アダルトサイトでライヴでもしてゐるかも知れないぢやない? あんな變態なら。でも私はそれを切なげに見詰める男たちとは違ふのだ、出來る、觸れる事が出來る、話し掛ける事も、本物の白さをこの肉眼に捉へ、吐息から齒磨き粉を嗅ぎ附け、名前を讀上げ、どうやつて生計を立て、何時にごみ出しをしてゐるのかも……知る事が出來る。今まさに、私は彼女の現實にアクセスしてゐる。

私に――さう思つてゐるのは私だけ? 彼女には偶然だつた。それを私が想像した。あの肢體から、あのあどけなささうな表情から。連想する。欲情をしたためる女……ああ、ああ、それは、私が輕蔑する猥褻物や男たちとどう違ふだらう? 私の何が神聖で潔白だといふのだらう? ……


私がもし健全で誠實な女だつたなら。救へてやれたらうか。私は我慢すべきだらう。自らの深奧とおさらばして。向ひの女など忘れてしまへば良い――氣附かなければ、無かつたのと同じやうに。


葛根湯を飮み、ネットでアダルト小說を讀んでゐると、少しは氣も紛れてきた。神よ、忘れさせてください、神よ、神よ、神よ……

そこで啓示を得て、私は事の次第を書いてゐる。曝すつもりも無い。ただ、氣持の整理に。まだ會つた事も無い彼女に、さよならの手紙を書くの。いや。妄想した彼女を私に會はせて――でもそれからが手が止つてゐる、私には計劃が無いから。彼女に嫉妬してゐるからといつて、欲望してゐるわけでない。その肢體、その行爲に失意――奪はれた――のだ。戀とか愛とか以前の本能、あんな、奇異な行爲をする女を手に入れたいだけ、變りものを手にした自分になりたいだけ。


ごめんなさい、私はあなたの特別ではなかつた、淺はかで、强欲で、單純な、私にとつても、あなたは慰み者でしかなかつた。あなたは特別な私になるためのあなた、そして私は、特別なあなたになるための私、でせう?


適當に男にでも抱かれて、どうか。