微妙な氣持の事

その人は眼鏡を掛けた色白の美人さんで、マネージャーの娘さんだつた。名を君津さんといふ。下は、はる。變つた名前だ。お母さんが名前を呼ぶまで、讀み方に自信が無かつた。お母さんとは、義理なのか實なのか知らない。そんな事聞けないし、聞いて良いのかも判らない。今日も私はぼつとして、深夜に好きでもないがただあるといふだけのインスタントコーヒーを溶かして、ノートパソコンの狹い畫面で、百合の同人誌を見てゐた。漫畫でも小說でも――そこにゐるのは美人で、エロティックで、幸福がちりばめられてゐた。セックスをするためにそこにゐる存在、男とのセックスとは違ふけど、結局、それのしてゐる事がセックスかどうか、私には判らない。え、だつて、實在するレズビアンはゐるんでしよ、だつたらここに描かれてゐるのは、何、百合と區別するのは、何? ……天蓋のあるベッドでねつとりとキスを交はす女たち、に、欲情する私、これは何? ……同じ體を持つてして欲情しないもの、あるいはするもの、その境界は、何? 私は少女たち(さう、腕の毛も無く髮も黑々とした、歲を取らない女)が好きだつた、けれどどうだらう、肉と熱とを持つ本物の女は。とは何か、その區別は陰莖があるかどうかにある、あるいは、男に較べて毛深くもなくかはいくて、美しいところ。あの人は良い匂ひがする。君津さんは。お母さんと違つて、彼女は煙草を吸はない。私によく話し掛けてくれる。私がつまらない返ししかできなくても、まるで意に介さないでくれる。彼女はやさしい。彼女は、好みである。何の好みかは判らないけれど――さう、たとへばその豐滿な胸とか、濃ゆくはつきりとした眉だとか、瑞々しい肌だとか。年齡としは、五つくらゐ上だらうか。前、誕生日に言及する機會があつたのに、おめでたうも言へなかつた。彼女はこんな醜い私でも、かはいいと言つてくれる。たまらないと。でも――本當の私を知つてしまつたら――性慾過多だとか不潔だとか――嫌はれるのでないか、さういふ、恐怖がある。

今日は初めてレズバーに行つた。レズバー、といふか、女性專用のバー。新宿にあるから、まあ、レズビアンを意識した店だらう。著いたのは九時で、バーといふ響きには似つかはしくない、重厚な扉が、地下にあつた。からんからんと頭上で鳴るベルに、年甲斐も無く怯えた。ホームページの寫眞にあつた照明が天井と壁に、おしやれなグラスが奧の棚にずらつと竝んでゐる。がらんとした店內を眺め、迷つたが、カウンターの奧に坐つた。大きな花甁が置いてあり、そこが一番安心できたのだ。店員は一人で、勿論女性だつた。四十くらゐか。オレンジがかつた髮に、一昔風の、くるくるとした强いパーマが掛つてゐる。

いらつしやい

話したのは當り障りの無い事だつた――どこから來たとか、外は寒いとか、直前まで何やつてたとか。バーは初めてだと言ふと、彼女はヴァージンのお禮だと言つてお酒をくれた。そのお酒も、あまり得意ではないのだけれど――私はオムライスを賴んだ。メニューは既に、ホームページで見てゐた――店員がサービスしてくれたお酒は、ピンクの、じゆくじゆくと泡の立つソーダ割だつた。何ていふ名前だらう? ……

からんからん。

一人來た。背を向けてゐたにも拘らず、突刺さるやうな視線めつきを感じた――そしてあらう事か、その女は私の隣に坐つた。

一人? だよね?

私はさうですよ、と笑顏を向けた。

あんまり見ない顏だね

よく來るんですか、お酒强いんですか、へえ、澁谷に住んでるんですか――さうして、無難に會話はなしが進んでいく。でも、私が遠方から來た事が判ると、觀光なんだねと、露骨に聲のトーンが落ちた。さう――この人も、かういふバーに來る以上、期待してゐるんだらう。デート、戀愛、セックス――。その時からんからんと又ベルが鳴つて、女が三人團子になつて入つてきた。隣の女が手を振つて合流する。……かういふの、ほんと苦手だ。四人とも三十代に見えるが、きやぴきやぴしてゐるところを見ると、まだ二十代かもしれない。一人はベージュ色のスーツで、頰に眞つ赤なチークがつてゐる。それとも、もう飮んできたのだらうか。

店員は頰笑み、私をちらりと見る。

……やつぱ、場違ひだつたかな。私はピンク色の酒を飮干した。鼻につんとくる甘酸つぱい匂ひは、苺だらうか梅だらうか、炭酸が彈け、ひんやりと舌に染み、豫想を裏切つて苦かつた。それでもお店の厚意だからと、オムライスで味をごまかしながら、ちよびちよびとグラスを空にした。

わ、と背後で談笑はな飛散る。呆然とグラスの冷たい汗を指で拭ふと、ベルが搖れ、店員が手を叩いた。

皆にサービスよ


………………喉、に、氣配を感じてゐた。眼を開ける前から、私の心臟はとんでもない速さで鼓動を打つてをり、直前まで記憶にも似た、朧げな夢を見てゐた。それが落著かぬ間から、誰かが首に息を吹掛けた。私は裸だつた。糊の效いたシーツと上掛に、挾まれてゐる。眼を開けた時、どう反應すれば良いか、分らなかつた。想定され得る最惡の狀況と……そして、恐怖があつた。

それは女だつた。睫毛が長くて濃くてざらりとしてゐて(マスカラを附けたままなのだらう)――眼は靑灰色で細くて、外國人みたいだつた。ハーフといふか――ほら、藝能人の――あんな感じ。名前が出て來ない。彼女は私を上目遣ひで見ながら、私の胸に觸れた。硬くなつてゐた。でも、少し痛い。普段から弄り過ぎだ。視線を周りに向けようとすると、ぐらりと眩暈がした。私は枕に頰を押附けた。向ひの女も、同じやうにした。私たちはどこにゐるのか。今がいつなのか――アルコールにひたりきつた體は、不思議な感覺を私に與へる。ぐらぐらと、船に搖られてゐるやうな。ぐいぐいと、引力くうきに押されてゐるやうな。そして、私は誰でも良いし、どうなつてゐても良い、といふ自棄やけつぱちの解放がやつてくる。

……服は、荷物は、お金はどうしたの? ホテルに戾らないと――さう、部屋を取つてあるのよッ。

でももうつらくて、寢た。次に眼が覺めた時は、陽が差してゐて、女は窓邊に坐つてゐた。口を開けて、薄靑い空を見てゐる。

――おはやう

自分で言つたのか、相手が言つたのかすら判らなかつた。

――さう、憶えてないの?

憶えてないの

改めて見ると、女の見てれは派手どころではなかつた。薄い紫色の髮の毛に、絨毯に落ちてゐるのは、サテンのオレンジ色の、面積の少ない衣裳だつた。……この人は踊り子なのか? バーに辿り著くまでに、外から窺ひ見た店には、さういふのもあつた――殆どが、ゲイバーだつたけど。

私はうつぶせになつて、枕を抱き抱へた。彼女は、トップレスのままだ。私より小振りな胸が、上向きにつんと勃つてゐる。

あなたは誰なのか、どうやつてここまで來たのか、私は聞いた。

サプライズでちよつとお店に遊びに來たの。あなたすつごく氣に入つてくれて、おつぱい見たいとか、言つてたぢやない

……さうだつたかしら。自分に下心がある事は自覺してゐたが、言つてしまつたか。そこまでたがが外れてしまつたとは、思はなかつた、だつて、私……

セックス……したの?

したよお。見れば判るぢやない

彼女は、自分の衣服を拾ひ集めた。――信じられなかつたし、できたとも思はない。股間に違和感は無かつたし、ベッドには彼女の甘やかな匂ひが殘つてゐるだけだ。

彼女がシャワーを浴びてゐる間に、逃げる事も考へた。しかしあまりにもだるかつたし、それは女としてかはいさうに思へた。もし私がそんな事をされたら――應へる。たとへ遊びだつたとしても。

交代して、私がシャワーから上がると、彼女は例の派手な衣裳を身に著けて、ベッドの頭に背を預け、スマホを見てゐた。私の荷物は、ソファの足下に投出されてゐた。

そろそろ退出する時間ぢやないか、私が聲を掛けると、彼女は腹が減つたと言つた。連休で朝から飯が食へるところなどあるか心配だつたが、適當に目に入つたファストフード店で、ハンバーガーのセットを註文した。まだ新宿區內ではあつたけれど、ネオンが消えてさつぱりした街竝みは、はつと正氣しらふに戾つた人間のよそよそしさみたいだつた。どこもかしこも、靑白い。

彼女はセットに附いてゐたコーヒーとハッシュドポテトを食べつつ、靑灰色の瞳には、スマホの畫面を映してゐた。……今時の子つて感じ。十代ではないと思ふけれど。

あ、交換してなかつたよね

彼女がアプリのIDを申出てきたので、私は斷つた。行き摺りの、何でもない女と交流を持たうとする事に、驚き、戶惑つた。でも私が人嫌ひなだけで、今は皆さうするのだらう。私は遠方から來てゐるし、自分がレズビアンかも疑はしい、と言つた。

あんまり氣にしない方が良いよ

どうして

……だつて、やりたいからやつてるだけで、性別レズとか關係無いもん

世間はそれを全性愛といふ。私は自分が、本當にこの子に欲情したのかも判らなかつた。確かに肌は白くてつややかで、眼は切れ長であるけどしつかりしてゐて、奔放な言葉の響きには、大人びた感じがある……さう、十二分にセクシャルなのだ。私は彼女に何か著せたかつた。彼女を隱したかつた。露出した若さは、彼女とセックスしたと公言してゐるやうな氣がして、恥づかしかつた。そして、彼女を危ふいと思つた、そんな肌曝け出して危ないよ、男が見てるよ、レイプされちやふよ。――一番こはかつたのは、それかもしれない。男からの欲望と、豫想できる――

私は彼女の、脇の下の、胸と繫がつてゐる部分をずつと見てゐた。見てはいけないんだらうけれど、あまりにも彼女がセクシャル過ぎて。破廉恥だつた。私に對する挑戰だつた。

彼女はにい、と微笑んだ。

いらつしやいませえー。甲高く、鼻に掛つた聲が、仕切りの向うから聞えた。連休に朝から出勤してゐる女子高生――やめていつた西園寺ちやん、三越さんを思ひ出す。みんなみんな、かはいい子からやめていく。西園寺ちやんはヴァレンタインに手作りチョコレートをくれたし(丸眼鏡のかはいい、くりくりした子だつた)、三越さんは制服の下に肩出しニットを著てゐた(ストレートの栗色の髮、森ガールといふ言葉がぴつたりの、ふはふはとした女の子だつた)。

かはいいとは、思つてゐた、が私は昔から女性との附合ひが苦手で――男をからかふ方が、ずつと簡單で氣さくでゐられたのだ。それに、自分のとしての至らなさを思ふと、彼女たちに總てを曝け出せるとは、思へないのだ。

――

口を開いてみたけれども、私のはどうだつた、なんて聞けやしない。男はすぐ滿足させられるけど、女つて判らない――さうなの、だから私、萌えられないの。

女つて、物足りなくない?

――ぢや、もう一度してみよつか


あなたに去ると聞かされた時、オチを與へられた氣がした。又しても、私は氣の利いた事が言へなかつた。せめて、さう言譯すべきだつた。視線を合せてさよならも言へず、さういふ意味ぢやないけどといふ言葉にがつくりとする。つまんねえな。戀しない私が感じる事、それだけである、戀でない私が表現はなす事、それだけである。あなたを美人だと思つてゐる、土壇場で言つたなら、お世辭に聞えるだらう――實際、それは、私をかはいがつてくれた、あなたに對する世辭れいかもしれないけれど。しかしここで書いたやうに、私はあなたを美しく思ひ、それは以前から降積らせてきた、自然な氣持である。逆に、私に對するあなたの言葉が、世辭であつても構はない、なぜなら、あなたは厭味を感じさせなかつたから。あなたのその親しみ易さが、私を少しでも生き易くさせてくれたから。

寂しくなりますね――交代のたつた數分、何があなたを、私に向けさせたらうか。忌々しくも、單純に、私はあなたに乘せられ、あなたの事が好きでした

さう書いて、日記帖を閉ぢておく。


――結局、誰にしても、私は返せずにゐる。