その人は眼鏡を掛けた色白の美人さんで、マネージャーの娘さんだつた。名を君津さんといふ。下は、春
今日は初めてレズバーに行つた。レズバー、といふか、女性專用のバー。新宿にあるから、まあ、レズビアンを意識した店だらう。著いたのは九時で、バーといふ響きには似つかはしくない、重厚な扉が、地下にあつた。からんからんと頭上で鳴るベルに、年甲斐も無く怯えた。ホームページの寫眞にあつた照明が天井と壁に、おしやれなグラスが奧の棚にずらつと竝んでゐる。がらんとした店內を眺め、迷つたが、カウンターの奧に坐つた。大きな花甁が置いてあり、そこが一番安心できたのだ。店員は一人で、勿論女性だつた。四十くらゐか。オレンジがかつた髮に、一昔風の、くるくるとした强いパーマが掛つてゐる。
いらつしやい
話したのは當り障りの無い事だつた——どこから來たとか、外は寒いとか、直前まで何やつてたとか。バーは初めてだと言ふと、彼女はヴァージンのお禮だと言つてお酒をくれた。そのお酒も、あまり得意ではないのだけれど——私はオムライスを賴んだ。メニューは既に、ホームページで見てゐた——店員がサービスしてくれたお酒は、ピンクの、じゆくじゆくと泡の立つソーダ割だつた。何ていふ名前だらう? ……
からんからん。
一人來た。背を向けてゐたにも拘らず、突刺さるやうな視線
一人? だよね?
私はさうですよ、と笑顏を向けた。
あんまり見ない顏だね
よく來るんですか、お酒强いんですか、へえ、澁谷に住んでるんですか——さうして、無難に會話
店員は頰笑み、私をちらりと見る。
……やつぱ、場違ひだつたかな。私はピンク色の酒を飮干した。鼻につんとくる甘酸つぱい匂ひは、苺だらうか梅だらうか、炭酸が彈け、ひんやりと舌に染み、豫想を裏切つて苦かつた。それでもお店の厚意だからと、オムライスで味をごまかしながら、ちよびちよびとグラスを空にした。
わ、と背後で談笑
皆にサービスよ
………………喉、に、氣配を感じてゐた。眼を開ける前から、私の心臟はとんでもない速さで鼓動を打つてをり、直前まで記憶にも似た、朧げな夢を見てゐた。それが落著かぬ間から、誰かが首に息を吹掛けた。私は裸だつた。糊の效いたシーツと上掛に、挾まれてゐる。眼を開けた時、どう反應すれば良いか、分らなかつた。想定され得る最惡の狀況と……そして、恐怖があつた。
それは女だつた。睫毛が長くて濃くてざらりとしてゐて(マスカラを附けたままなのだらう)——眼は靑灰色で細くて、外國人みたいだつた。ハーフといふか——ほら、藝能人の——あんな感じ。名前が出て來ない。彼女は私を上目遣ひで見ながら、私の胸に觸れた。硬くなつてゐた。でも、少し痛い。普段から弄り過ぎだ。視線を周りに向けようとすると、ぐらりと眩暈がした。私は枕に頰を押附けた。向ひの女も、同じやうにした。私たちはどこにゐるのか。今がいつなのか——アルコールに浸
……服は、荷物は、お金はどうしたの? ホテルに戾らないと——さう、部屋を取つてあるのよッ。
でももう辛
——おはやう
自分で言つたのか、相手が言つたのかすら判らなかつた。
——さう、憶えてないの?
憶えてないの
改めて見ると、女の見て吳
私は俯
あなたは誰なのか、どうやつてここまで來たのか、私は聞いた。
サプライズでちよつとお店に遊びに來たの。あなたすつごく氣に入つてくれて、おつぱい見たいとか、言つてたぢやない
……さうだつたかしら。自分に下心がある事は自覺してゐたが、言つてしまつたか。そこまで箍
セックス……したの?
したよお。見れば判るぢやない
彼女は、自分の衣服を拾ひ集めた。——信じられなかつたし、できたとも思はない。股間に違和感は無かつたし、ベッドには彼女の甘やかな匂ひが殘つてゐるだけだ。
彼女がシャワーを浴びてゐる間に、逃げる事も考へた。しかしあまりにも怠
交代して、私がシャワーから上がると、彼女は例の派手な衣裳を身に著けて、ベッドの頭に背を預け、スマホを見てゐた。私の荷物は、ソファの足下に投出されてゐた。
そろそろ退出する時間ぢやないか、私が聲を掛けると、彼女は腹が減つたと言つた。連休で朝から飯が食へるところなどあるか心配だつたが、適當に目に入つたファストフード店で、ハンバーガーのセットを註文した。まだ新宿區內ではあつたけれど、ネオンが消えてさつぱりした街竝みは、はつと正氣
彼女はセットに附いてゐたコーヒーとハッシュドポテトを食べつつ、靑灰色の瞳には、スマホの畫面を映してゐた。……今時の子つて感じ。十代ではないと思ふけれど。
あ、交換してなかつたよね
彼女がアプリのIDを申出てきたので、私は斷つた。行き摺りの、何でもない女と交流を持たうとする事に、驚き、戶惑つた。でも私が人嫌ひなだけで、今は皆さうするのだらう。私は遠方から來てゐるし、自分がレズビアンかも疑はしい、と言つた。
あんまり氣にしない方が良いよ
どうして
……だつて、やりたいからやつてるだけで、性別
世間はそれを全性愛といふ。私は自分が、本當にこの子に欲情したのかも判らなかつた。確かに肌は白くて艷
私は彼女の、脇の下の、胸と繫がつてゐる部分をずつと見てゐた。見てはいけないんだらうけれど、あまりにも彼女がセクシャル過ぎて。破廉恥だつた。私に對する挑戰だつた。
彼女はにい、と微笑んだ。
いらつしやいませえー。甲高く、鼻に掛つた聲が、仕切りの向うから聞えた。連休に朝から出勤してゐる女子高生——やめていつた西園寺ちやん、三越さんを思ひ出す。みんなみんな、かはいい子からやめていく。西園寺ちやんはヴァレンタインに手作りチョコレートをくれたし(丸眼鏡のかはいい、くりくりした子だつた)、三越さんは制服の下に肩出しニットを著てゐた(ストレートの栗色の髮、森ガールといふ言葉がぴつたりの、ふはふはとした女の子だつた)。
かはいいとは、思つてゐた、が私は昔から女性との附合ひが苦手で——男をからかふ方が、ずつと簡單で氣さくでゐられたのだ。それに、自分の女としての至らなさを思ふと、彼女たちに總てを曝け出せるとは、思へないのだ。
——
口を開いてみたけれども、私のはどうだつた、なんて聞けやしない。男はすぐ滿足させられるけど、女つて判らない——さうなの、だから私、萌えられないの。
女つて、物足りなくない?
——ぢや、もう一度してみよつか
あなたに去ると聞かされた時、オチを與へられた氣がした。又しても、私は氣の利いた事が言へなかつた。せめて、さう言譯すべきだつた。視線を合せてさよならも言へず、さういふ意味ぢやないけどといふ言葉にがつくりとする。つまんねえな。戀しない私が感じる事、それだけである、戀でない私が表現
寂しくなりますね——交代のたつた數分、何があなたを、私に向けさせたらうか。忌々しくも、單純に、私はあなたに乘せられ、あなたの事が好きでした。
さう書いて、日記帖を閉ぢておく。
——結局、誰にしても、私は返せずにゐる。