思ひ出

――さうだ。中庭の見えるクッションに、どかつと腰を下ろした時、思ひ出した。あの時私たちは二十四歲で、夜は確か暮……の字の入つた地區の、ビジネスホテルに泊つた。經營者の出した本に問題があつたとか何とかで、外國人にボイコットされてゐたホテルだ――今ニュースになつてるんだよ、と彼は言つたが、その一切を見ない私には、さつぱりだつた。ベッドが一つ置いてあるだけの部屋で、交代でシャワーを浴び……そこで、處女を捧げた氣がした。あの夜だつけ。私はそんなところで一生に一度の貞操を捧げたのだ。今考へると、口惜しく、悔しかつた。場所が問題であるわけでもなければ――相手が問題でも、なかつた。それは自分との鬪ひであり、その日、私は自分を燒いたのだ。事の顚末を、文通友逹には世紀の大發見のやうに書いた。ま、今ではその友もゐないわけだが――。朝になつて、階下で食事バイキングを濟ませると、チェックアウトを延長する電話を掛けた。扉の向うで、從業員が掃除機を掛ける音を聞きながら、彼の自慰を見たのだつた。とんだ破廉恥だ、と思ふけれど――今では良い思ひ出、だらうか。だつて、附合はなかつたら、こんな囘想も出來なかつた。いつまでも男を知らず、平凡な人生を送る女のままだつた。と言つて、セックスで特別な女になつたわけでもないけれど――。

多分、同じ椅子だと思つた。彼と私は美術館を一周りして、この端に坐つた。彼は靴を脫いで、足の裏を見た。扁平足だと言つた。朝から散々步いた擧句だつた。ぢや、勞らなきやねと言つたのを憶えてゐる――あ、違つた、處女を捧げたのはあそこぢやない、池袋のラヴホテルだつた。サヴァンナがテーマの、タオルや敷物が綠の縞々模樣をしてゐた。私は新しく買つた、ナイロンの薄いパンティを履いてゐた。そこに彼が押附けてきたのだ。憶えてゐる。なんだ。まだまともな場所だつたぢやない?

そんな浮ついた事を考へてゐる私の傍に、小さな男の子が坐つた。後二人分くらゐ空いたところにゐるお父さんが、その子を呼んでゐた。奧では特別展示室への扉が開いてゐて、巨大なオブジェの、滑らかな輝きが見えた。

――その時は、畫家の展示だつた。家の周りの果樹園や、奧さん、濱邊で働く男たちやボート、などが描かれてゐた。解說には夫婦でお互ひの繪を描いてゐたとあり、とても素敵だと思つた。繪の中の奧さんは美人で、いかにも家庭的で女性的に見えた。私もパートナーと創作活動がしてみたかつた。

男の子から貰つたキャンディを舐めてみる。すつぱい。舌で轉がす度、だらだらと唾液が出てくる。このじやみじやみの包み紙に繪を描いたら、藝術になるかしら。お父さんは男の子を抱き抱へ、特別展示室へ入つていく。小さくなつたキャンディを嚙み碎くと、私もそれに續く。

オブジェは薄い紅色の陶器で、くにやりと丸みを帶びてゐた。まるで女性器みたいだ。隣にゐたをぢさんは、便器みたいだね、と言つてゐたけれど。

私はどちらかと言へば、立體物より繪畫に興味があつた。それも現代でなく、近代か、ずつと昔――油繪の巧妙さを覗き込みながら、私は彼に言つた。昔の人つて、こんなに繪が上手かつたんだね。本音だつた。ダ・ヴィンチみたいな天才もさうだし、音樂の世界を見てもさうだつた。ベートーヴェンやショパンやリストのやうな天才なんて、もうゐないぢやない? その頃は神樣が何かしてくれたんだらうな、と思つた。

歸りに、モネと、ピカソの(上手い方の)スケッチが載つたポストカードを買つた。手荷物臺の上で二枚書き、郵便局の窓口で切手を買つて、送つた。

大きな木の傍で人と擦れ違ふと、いつだつたか、デートした事を思ひ出す。水族館だつたかな。河豚ふぐ……でなくて、飜車魚まんばうの說明をした。壁にぶつかつただけで死んでしまふから、かういふ風に、變つたシートで圍まれてゐるんだよ。といふ、小學生の時聞いた事を、そのまま。ぢや、私の名前で呼ぶ事にしよう、と彼は言つた。笑へたかは判らない。字に起せばロマンチックな氣もするが、私の心はまだ强張つてゐた。アニメのキャラクターに扮した少年少女たちを見て、すごいね、と視線を向け合つた。それから、同人誌のメッカがあるとか何とか……話してゐた。その時も、今日のやうに肌寒かつた氣がする――さうだ、彼と附合つてゐたのは、年明けからの數箇月だつたから。これから暖かくなるといふ時、私たちは別れた。眞夏の暑い日に、靴屋の靑年が看板を持つて呼込みをしてゐた記憶もあるが――それは、家族で來た時だつた。

電車に搖られて三十分、やつと新宿區に著いた。ICカードの殘高が少なかつたので、劵賣機の前で財布を開いた。さういへば、隱しポケットに、あの時貰つた千圓札が、入つたままだつた。何となく後ろめたい氣持で、私は公衆電話のボタンを押した。感觸は冷たく硬いが、押込みは緩い。ぷ、ぷ、ぷう……いくらか鳴らしたら、切る。十分後、彼はブルゾンを引つ掛けてやつて來た。前に會つたのが半年前だから、ちやうど季節が反轉した事になる。挨拶もそこそこに、アパートに入つた。――二十四歲の彼は一階で、この人は四階だつた。前者は階段を上らなくて良いから、と言つてゐて、後者は……忘れた。尋ねたかも定かでない。五階以上になるとエレベーターが附くんだけど、ここは四階だから附かない、と言つたのは聞いた氣がする。

半年ぶりの室內は何一つ變つてゐなくて、錆び附いた金網に調味料がぎつしりと、ひび割れた粗大ごみステッカーの附いた透明の抽斗も、そのままあつた。拾つてきたのか、捨てるつもりだつたのか――。前の彼は、炊飯器に蟲を涌かせてゐた。今の人は、そんな暇を與へない。こんからは、じゆーじゆー、と雨にも似た音がして、良い匂ひが立込めてゐる。

最後に――初めて――元彼の家に行つた時は、出張土產の揚物に醬油を附けて、ガラスのテーブルで味見した。そして坐つてゐたソファに手を附いて、尻を向けたのだ。今はたつが一つ。手を附ける場所も、振返る餘裕すきまさへ無い。昇降式のベッドは頭の上にある。

彼はフライパンを下ろすと、トングでわさつと肉を皿へ盛附けて、炬燵に足を入れた。

ぢや、食べようか

うん

美味しかつた。宇都宮では大通りに出て、ラーメンを食べてゐた。何もかもが正反對だつた。

シャワー――はどうだつたか、もう憶えてゐない。今の人は、足場にしてゐたタオルをぱんぱんと叩いて、ベランダに干してゐた。私も竝んで夜景を見た。靜かで、綺麗だつた。前に見た時は、確か、花火が上がつてゐたんだつけ。手前のビルで見えなかつたが、ぱーつと斜めに差込む光が、ドラゴンが雲の向うに現れたやうだつた。彼にはどう見えたのか知れないが、こはいなとだけ言つてゐた。

氷るぞ、と聲を掛けられ、はつとして、中に戾つた。――干したタオル、明日にはぱりぱりになつてゐるんぢやなからうか。

ベッドを下ろして、梯子を上つて、蒲團に入る。二人がちやうど寢轉べるくらゐ。宇都宮では、クリーニングに出した蒲團を二人で受取つて、カバーを附けて、すつぽんぽんで寢た。子供みたいだと思つた。幼い頃、よく昂奮して弟と體をくつつけたのを、思ひ出した。

今の人は服を脫がず、私の方から觸れるのを待つてゐた。

觀光ついでに親睦を深めようよ、つてかういふ事だもんな

うん……

下手にも程があるぞ

烈しさも無ければ當惑も無い、穩やかな床だつた。夢見てゐるやうで、この人の奧深い欲求を知りたい氣持もあつた。いつも自制され、悔しさを募らせてゐる。私を大切にしたいから。判らない。でも、かうして叮嚀に扱つてくれるのなら、私を考へないでゐる、といふ事は無いのだらう。寧ろ、私の方が薄情と感じる。だから少し、こはい。それで前は上手くいかなかつた、のかも。いいや、いいや――何もかもが合致してしまつたから。言葉とか、行爲とか、顏とか。話してゐて樂しいから。今はここにかうしてゐる。でも、その樂しさが取上げられてしまつたら、私たちは又、他人でせうか。

興味が無いかも知れない、と氣附いた時、私はさうでない振りをした。けれども元彼は、素直にそれを暴露したのだ。彼は私を泣かせたが、それでも彼は勇敢だつた。誇りに思へるとしたらその點で、彼は――私を、自由にしてくれた、代辯してくれたと言つて良い。恩人なのだ。なぜそのやうな人を怨めるだらう? ……

正直になれてゐないのは、いつも私だつた。だから不安も不滿も、總て總て曝け出す事にした。私はこれが嫌ひ、これが好き、あなたのどんなところが、好きでせう。それも笑つて許せるならば、それが眞の戀人でせうか。

そんな、どうにもならない事を考へて、むわりとつ精を、いつぱいに嗅いだ。

彼は、私の名を呼んだ。本名ではなかつたが、それを變に呼ばれるよりか、ずつと良かつた。