小說『野崎の娘』 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 最終更新: 2020年5月10日 公開: 2020年5月10日 第1版 附錄: 『野崎の娘』後書 http://kimitin.sinumade.net/2020/16-atogaki 『野崎の娘』HTML版 http://kimitin.sinumade.net/2020/16 適用: Creative Commons — CC0 1.0 全世界 http://creativecommons.org/publicdomain/zero/1.0/deed.ja 著・發行者: 絲 letter@sinumade.net http://kimitin.sinumade.net/ ---------------------------------------------------------------------------------------------------- ルビ:|《》 傍點:【】 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- ■■■■ 注意事項 ■■■■ ・成人對象[成人対象] — 二十歲以上の讀者を對象とする[二十歳以上の読者を対象とする] ・小說[小説](フィクション) — 實在の事柄とは關はり無し、描寫中の行爲を獎めるもので無し[実在の事柄とは関わり無し、描写中の行為を奨めるもので無し] ・性描寫[性描写] — 性行爲の描寫[性行為の描写]を含む ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 『野崎の娘』  會社の上司は、嘗ての母の戀人、私の父かも知れなかつた。 ・10526字/400字詰原稿用紙・27枚 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 野崎の娘 「自業自得だと思ふよ」  病院のベッドで寢てゐる母親を脇目に、私は靴を脫いで、パイプ椅子で體育坐りをした。かうしてゐると、よく祖父さんが足を叩いたものだ。その彼が亡くなつたのも三年前で、先週墓參りをしたばかりだつた。 「あきな……」  母が蒲團から手を伸ばして、私の足首に觸れた。浮出た靑い血管が、何とも痛々しい。點滴のパックはぽたり、ぽたりと彼女に榮養を送り込んでゐるけれども、かうしてまで生きる意味も分らなかつた。だつて、どうせ死ぬなら、普通にご飯食べて、自分のベッドに入つて、好きな事やつて過ごしたいぢやない。でも彼女には寢起きする體力も無いやうで、排泄も看護師が世話してゐるとの事だつた。どうして隱してたの? ——それも、愚問か。彼女は|惚《ぼ》けてしまつたら顏を見せなくて良いと言つてゐたし、とかく他に迷惑を掛ける事を嫌つてゐた。だから文字通り無休で働き、二十年間命を繫いでくれた會社を、裏切りはしなかつた。「もつと良い仕事あつたでしよ」受賞した經歷を持つなら。でも「ちやんと歸れる仕事選んだでしよ」と彼女は言つた——私が總てだつた、家庭では一切疲れを見せない彼女は、淡泊だつた、私はそれが普通だと思つてゐた、だから、今でも、實の母親が宣吿を受けたにも拘らず、それ程のショックが無い。敢へて休暇も取らず、誰にも相談せず、花の一輪も持たずにここまで來た。だつて、花なんか贈つたつて——。 「あきな……」 「なあに、おかあさん」  何か食べたいものある、見たいものは、聽きたいものは、觸れたいものは——? ——全部無駄無駄無駄。今更何を欲したところで無駄なのよ、何にも繫がらないのよ、【彼女には】何も遺せないのよ——そして、彼女は、私にも。 「私ね……考へたの……あなたに何も遺せないつて」 「うん、お金の事なら氣にしないで、私、今ちやんと生活出來てるから」 「でね……死んぢやつたらもう判らないと思ふから……お父さんの事」 「……」  それは——別に——重要な事ぢやなかつた。私にとつて父とは——生れた瞬間からゐなかつたし、要は存在しないも同然で、それが普通で、それが日常、だから今更父親の事なんて出されても、寧ろ迷惑、といふか。まあでも聞いてやらうぢやないかと思つた、實際、彼女が失はれれば、私は絶對に知る機會が無い。さう考へれば貴重に思へた。いはば、ルーツでもあるし。  ——が、意に反して、彼女は私の勤め先に觸れた。それが何だと言ふのか—— 「私——會社の名前を聞いて——まさかと思つた、ねえ、石原さんて人ゐるでしよ、ねえ」 「ゐるけど——」 「その人——その人なのよ」  彼女は片手で、顏を覆つた。 「石原——なんだつたかな、ほんとにその人?」 「間違ひ無いわ」 「噓でしよ」  私はにやにやとしてゐた、心はハラハラとしてゐた、だつて。そんな事有り得る? ——信じられない! 私は|顚末《ストーリー》をせがんだ。彼女の輝かしい時代、石原は營業課の人間で、母は下請けの會社で企劃を擔當してゐた。で、商談ついでに食事なり何なりするうちに、附合ふやうになつたと—— 「結婚の話をする筈だつた」と、彼女は言つた。「でもその日に——彼は重役との懇談會に出て、そこで令孃との結婚が決つたの」 「つまり、捨てられたんでしよ」  彼女はティッシュを取つた。鼻血が出てゐた。酷い話、でもよくある話ぢやないの、ほんと、心が腐り落ちさうな話だけどさ。——だが、私は母を馬鹿な女だと思つてゐた、遊ばれて、捨てられて。氣附かなかつたの、彼がそんな男だつて——? だからのめり込む戀愛は馬鹿々々しい、心が|爛《ただ》れるまで惚れるのは愚かしい。  私がティッシュを捨てて、時計を覗き込むと、彼女は歸らないでと言つた、まだ聞いて欲しい事がある、と。しかし、時間は空のまま過ぎていく。 「なあに、おかあさん、どうせ死ぬんだから言つちやひなよ——私、おかあさんがおかあさんぢやなかつた、つて言つても、驚かないからさ」  本當だつた。二十幾ばくか、過ごして來て、今更おかあさんぢやないのよ、と言はれても、私のお母さんはおかあさんだけだつた。さう思はないなんて事、出來やしないでせう。——でも、彼女が本當に恐れてゐるのは、さういふ事ではなかつた。彼女は懺悔したかつたのだ。 「あのね——私——私、あなたに見損なはれるのがこはい——」 「大丈夫よ、最低な人間なんて、幾らでも知つてるから」  それに、これから死ぬのに評價なんて氣にしたつて、仕方無いでせう——死の直前だから吿白出來るのではないか、後ろめたい事つて。でも多くの人間が、祕密を|地下《はか》まで持つていく——不特定多數の人間には、べらべら喋るのに。あなたが公共の電波にひけらかさないだけ立派なものよ、と言ひたかつた。大切な人間に吿白する恐怖を克服する事、それこそが勇氣、それこそが潔白。——母は、私を大切な人間とみなしてくれた。 「私……石原さんの他にも……附合つてゐる人がゐたの」 「ふうん」  少なからずショックはあつたものの——母は眞面目が取柄の人だつたから——これも又よくある話だ、と思つた。祖父さんなんて、祖母さんの他にも候補が二人ゐたなんて話をしてゐた、で、無難な方を取つた、と。石原も、無難な方を取つたのだ。 「——ぢや、待つて、それぢや父親が石原さんとは言へなくない? 同じ時期に附合つてたんでしよ?」 「でも……彼よ」  彼女は天井を見詰めたまま言つた。顏は蒼白で、眼は大きく見開かれてゐた。こはかつた。 「似てるもの……眉とか……他人に距離を置くところ、とか……」 「……」  逆だらうな、と思つた。人生は非情なもので、Aだと思つたらBだし、Bだと思つたらAなのだ。彼女は確信してゐると言つたが、それは彼女の願望そのもので、單純に相手が「無難な方」だから、だ。 「ごめんなさい……」  目尻から薄く淚が零れた。それは私になのか、それとも弄んだ男たちに對してなのか、判らなかつた。  ——そして結局のところ、私は死に目には逢へなかつた。あらう事か、男と遊んでゐる時に死んだのだ——顏に掛けられた布を見た時、どんなに恐ろしかつたらう。もう二度と動かない體、逢へない人——さう思ふと色んな感情が涌き上り、淚が|躙《にじ》り出て來た。祖父さんの時もさうだが——死ぬなんて當り前——でも永遠に失ふつていふ事實と感覺は——。死ぬ事自體は大した事ぢやないんだよ、問題は感じ入る私、感じる私が生殘つてゐる事、私が感じ續ける事、死ぬその日まで——。  でもやはり仕事は休まなかつた、おかあさんとは相談しなかつたけれど、葬式はしなかつた。火葬にして、御經を擧げて、墓に入れるだけ。佛壇も無い。實家の實家、祖父さんの家の|小火《ぼや》で、燒け落ちたつきりだつた。實家の整理も、業者に賴んでしまつた。私には負へないものばかり——不要なものばかりだつたから。祖母さんのノートを祖父さんから貰つた時もさうだつた。夫である彼が持て餘してゐるのに、緣の無い私が受取つて、何が出來るといふのか。だから、結局捨ててしまつた。——何の痕跡も無い、私を愛し、私を育ててくれた人たちの痕跡は、何も。私の心といふ、死ぬまでの搖り|籃《かご》に入つてゐるだけだ。  休みの日に、|彼氏《をとこ》が戶を叩いた。 「——おかあちやん、亡くなつたんだつて?」  會はない理由として、眞實を述べたまでだ。 「元氣出せよ」  他人行儀な手が、肩に置かれた。  私はゆつくりと彼を押返し、戶を閉めた。抗議は無かつた。  ——出社すると、つい隣の部署を盜み見るやうになつた。部長の椅子にしつとりと坐つてゐる男、そいつが、今では唯一の肉親かと思ふと、惡い氣はしなかつた。部署の|間《さかひ》にあるコーヒーサーバー、それが男を觀察する機會になつた。その爲のカップを買ひ、一時間每に立つ——それが日課になつた。  柔和な笑顏とか、下らない冗談とか、すぐに驅附ける態度だとか、父親としても、人としても、社會人としても、非の打所は無かつた。「眉」と「他人に距離を置くところ」については、よく判らなかつた。眉なんて幾らも變らないだらうし、性格なんて幾らも變るだらうから——それに、私の氣の置くのは、母親の遺傳だと思ふ。本人は氣附いてゐないみたいだつたけど。  當然——私たちは同じ空間にゐる事もあつた。彼は滅多にコーヒーは飮まないし、飮む時は廊下の自販機か、出先で買つて來た罐コーヒーを飮んでゐる事が多かつた。初めて一緖にサーバーの前に竝んだ時、彼は備へ附けの紙コップを取つてゐた。 「……マイカップはお持ちにならないんですか?」  彼は私のカップをちらつと見て、「さうだねえ、ほんとはさうした方が良いよねえ、たまにでも」 「お茶とか……ビールとかも飮めますよ」 「さうだね」彼は笑つた。「ぢや、野崎さんに|倣《なら》つて、今度から持つて來ようかな」 「あれ……」阿呆みたいに口を開けてゐた。「私の事……」首から社員證を掛けてゐるのだから、知つてゐて當り前なのに。 「バイトから入つてるんでしよ、知つてるよ、一應人事も擔當してるからね。それに、最近めつちやコーヒー飮みに來る子がゐるつて、皆言つてるよ」  私は頭を下げた。——あれ、面接の時、この人ゐたつけな? 早く終れとばかり考へてゐたから、憶えちやゐない。 「や……飮んでると頭冴えるから……」 「さう? 僕は苦いの苦手だから——あ、洒落ぢやないからね」  笑つた。私も、今カップにあるものを、ただの苦水と思つてゐる。  段々仕事のペースも判つて來た。水曜と木曜は絶對オフィスにゐるし、金曜と月曜は營業と出掛けてゐる。趣味は“無し”。そして獨身だと聞いた——あれ、令孃と結婚したんぢやないの? ……  そのうちに、好機が訪れた。彼に渡す書類が、私に廻つて來たのだ。——ま、何をするでもないけど——しかし、|机《デスク》に彼はゐなかつた。上に載つてゐるものを觀察する。バインダー、電卓、筆記用具——直前に使つてゐたのか、ホッチキスと補充の針が出てゐた。そして、“マイカップ”がある。向ひのビルの、コーヒーショップのロゴが入つた、飮口が廻轉するタイプのカップだ。地味な茶色をしてゐるけれども、よく見れば唇の跡が附いてゐる——汚いな。私は眉を|顰《ひそ》ませた——洗つてやりたい。そこでもたもたするのもをかしいので、書類を置かうとした。年季の入つた革張りの椅子には、きつちりと彼の坐り癖が附いてゐる——振返ると、入口から彼が入つて來たところだつた。私は離し掛けた手をそのまま胸の前に持つて行つた。私に氣附いた彼が、早足で詰めて來る——。 「これ……」 「ああ、ありがたう。晝休みでなくても良かつたのに」 「いつも下で食べてるんですか?」 「下だつたり、上だつたり、色々だよ」 「……」  何か氣の利いた事を言ひたかつたが、思ひ浮ばなかつた。食事に誘ふのは、まだ早—— 「ああ! ——」  彼と擦れ違つた瞬間、胸がぶつかり、書類が落ちてしまつた。  彼は|卽刻《すぐ》私の足下に跪き、資料を拾ひ集めた。ここでさつと近附いて、囁いてやりたい——“私、あなたの娘なんですよ”——すると、彼はどう反應するだらう。まづ、はつとして私の顏を見る。でも、何を言つてゐるのだらうくらゐで、いつもの|笑顏《ゑみ》を燈すだらう。|母《をんな》の名を吿げたところで——二十年前に附合つてゐた人間の事など、憶えてゐるだらうか? いや、その筈もない——私など、一年前に附合つてゐた|彼《やつ》の名前すら思ひ出せないのに! 「すみません……」  |萎《しを》らしい聲を出してみせた。彼はとんとん、と机の端で書類を揃へてゐる。 「いいんだよ。僕も氣が|漫《そぞ》ろだつたから」 「お詫びさせて下さい……」  ちよつと驚いたみたいに、彼は私の顏を見た。さうだな、早まつたかも、この程度の事で。 「書類の端折れちやつてるし、取り直して來ます……」 「いいつていいつて。讀めりやいんだから」 「でも……」 「野崎さんは眞面目なんだなあ。杉山くんなんて、コーヒーの|染《あと》が著いた書類出しても、知らん顏だ」  と、自分のカップを、書類の上に置く。 「ほら、これで汚れたのは、君のせゐぢやないだらう?」 「……」  ——益々、この男が好きになつてしまつた。  わくわくした、どきどきした。こんな氣持、久し振りだつた——ああ——母が惚れた氣持も、解つた氣がした。  さう、腐つてもこいつは母を捨てた男なのだ、大事な日に彼女を裏切つて。でも憎しみは無かつた——悔しさだけがあつた、母と同じ男を好きになつてしまふなんて——さう、私、父親かも知れない男に惚れてゐる。背德的だつたが、そこまで背德とも思はなかつた。だつて——どうせ——どうせ判りつこない、そして認めようともしないだらう、彼は。絶望に叩き落すのが樂しみだつた、寧ろ、落ちるのは私かも知れないけれど……  どうやつて親しくなるか、考へに考へた。同じ會社、同じフロア、隣の部署——これだけの|機會《ちかしさ》があつて、尙私には壁に感じた。これがただの男ならば簡單だ、飯に誘ひ、酒を引つ掛け、ホテルに連込む。それで終り。しかしお互ひに立場といふものがあり、晝間から堂々と誘ふわけにはいかなかつた。|態々《わざわざ》會ひに行くのもをかしいし——だから、退社後しかなかつた。ちよつと觀察した限り、彼はさつさと駐車場に降り、車に乘つて行つてしまふ——他にも人はゐるし、やつぱり彼だけに聲を掛けるのは、をかしい。生憎と部署間で飮みに行く習慣は無いし——蒸返す他無かつた。  待ちに待つて、彼がエレベーターに一人で入る瞬間を捕まへた。「あの」  彼が咄嗟にボタンを押して、滑り込んだ私は、誰も入らないうちに、ボタンを押し直す。 「石原さん……そのお……前のお詫びをしたいんですけど……」 「お詫びつて?」 「ほら、書類落しちやつて……」 「——ああ、あれね。まだ氣にしてたの」  思ひ出すのに苦勞したやうだつた、だらう、私だつて忘れ掛けてゐた。 「石原さんはユーモアで許して下さいましたけど、かういふのはちやんと、お返ししなきやいけないと思ふんですよねえ……」 「それで?」 「ご飯とか……」  勿論、彼の方が金を持つてゐるし、普段から良いものを食べてゐるだらうが、他に差出せるものが無い——や、求めてくれるなら、望むところだけれど。  彼ははてな、といふ風に腕を廣げた。 「まあ良いけど……困らない?」 「え?」 「その……男の人とご飯食べに行くつていふのは……」  ぱーん、と彼の背を叩いてしまつた。 「困るわけないぢやないですかあ!」  彼はその大きな眼を|瞬《しばた》いて、私を見てゐる。 「寧ろ配慮するのは私の方ですよね、石原さん、お附合ひしてゐる方とか……」 「ゐるわけないぢやないか」 「……なぜ?」 「だつて、ただのをぢさんだよ? モテるわけないぢやん」  笑つてしまつたが、附込むには良い機會だと思つた。 「でも……ゐるんぢやないですか? 好きな人とか」 「いーや」 「結婚を、考へた方とか」 「……全然」 「ふうん……でも、どつかで聞いたんですよね、石原さん、どこぞのご令孃と結婚する豫定だつたとか——」 「はあ——まだそんな事言ふ人ゐるんだねえ」  半信半疑ながら駐車場まで附いていくと、彼が助手席のドアを開けてくれた。「どうぞ、お孃さん」奧で“コーヒーの染を著けても知らん顏”の杉田くんがこちらを見詰めてゐたが、構はず乘込んだ。カー用品店でよく嗅ぐ、石鹼だかシトラスだかの人工的な匂ひが、鼻を突いた。席にはコンビニのビニール袋も、飮み掛けのペットボトルも無かつた。後部坐席はがらんとしてゐて、毛の長くて平べつたい、茶色のクッションが左右に置かれてゐた。營業で使つてゐるならこれくらゐ、か。彼がエンジンを掛け、ききき、とタイヤの甲高い音が、駐車場に響いた。 「さーて、どこに行きたいのかな?」 「さうですね、海の家とか」 「海かあ……海は車が錆びるからなあ……」 「ぢや、イタリアンにしませう。ちよつと時間掛りますけどね」  私はスマートフォンのカーナビアプリを起動した。  出口の警備員がにやにやしてゐたが、これも涼しくやり過ごす。——實際のところ、どう思はれてゐるんだらう? 交差點を出ると、ぽーんと間拔けな音が鳴り、アプリが案內を吿げる。彼氏とゐる時にちよつと使つたくらゐだが、まあ、口で說明するよりは正確か。ただ左とか右とか言ふだけでも、私は言ひ淀んでしまふ。  驛のロータリーと交はる道で、澁滯に捕まつた。隣の車は、既にライトを點けてゐる。 「——で、さつきの話ですけど」 「ん?」 「ご令孃との結婚つて話」 「……無くなつたよ」 「つまり、結婚した事は無いんですね?」 「氣になる? ……何で?」 「好きだから」——「多分」 「……」  あつさりと白狀してしまつて良かつたのか——でも、彼も判つてゐる氣がした、時々眼が合ふと微笑んでくれる、サーバーの前で話し掛けてくれる、彼が、好きだつた、それが傳染してゐると良い——業火なパンデミック。 「まあ、氣になるよねえ。よく言はれるよ」 「……なんて?」 「戀人の一人もゐないのかつて」 「ゐないんです?」 「ゐないんです」 「どうして作らないんですか?」 「何でだらうね——良い思ひ出が無いから、かな」 「それはつまり……失戀?」 「さう、失戀、かも知れないし……」  カーヴに差掛り、體が傾く。「知れないし?」 「裏切り、かも知れない」 「……」  私が選んだ店は、大正解だつた。個室ではないが靜かだつたし、ピザも言ふ事無いし、女性は割引で、何より酒が水のやうに飮める——平日はお代り無料だつた。 「おいおい——そんなに飮んぢやつて、大丈夫なのかい?」 「大丈夫、ですよ」  彼に飮ませられないのが本當に殘念だつた——店を出る時に一本買ふ豫定ではあるが、吞まれてくれるかどうか。好きな食べ物とか、動物とか(動物園が好きらしい、意外だ)、友人の結婚式で手品を披露したが失敗して笑はれた話、落ちたハンカチを拾つたら癡漢と間違はれた話、掛り附け醫とは十年の附合ひだが去年まで同級生と氣附かなかつた話など、彼のする話は溫かくて日常的だつた。私とはさう遠くない、どこにでもゐる中年親父だと解る——逆に、私の事については、愼重に話した。ろくでもない事ばかりだからだ。ラブホに行つたら私の寢てゐる橫で彼氏がAVを觀出したりとか、ネカフェの個室でしたとか、コンドームが外れた上私一人で病院に行く羽目になつたとか、そんな洒落にもならない話しかない。大體、男との話しかない。だつて、それが私の日常だから。言つてみれば——私の素性こそ、女を捨てた男に近さうではあつた。彼は言葉足らずの|日常《わたし》には詮索もせず、|雰圍氣《きげん》を損なふ事は何一つしなかつた。  店を出ると、私は夜風に當りたいと言つて、彼を走らせた。市街を離れて、ちよつとした高臺に出ると、彼はそこで車を停めた。廣い駐車場だ。終つてゐるのか|廢《すた》れてゐるのか、端の方にある倉庫——店か——のシャッターは降り、燈は無かつた。ぱつと見たところ、他に車は無い—— 「好きです、石原さん」  シートから體を起し、言つた。 「お酒に賴るのは良くないと思ふな……」 「私、飮むと冴えるんです」 「コーヒーにも强いし、お酒にも强い……參つたな」 「藥物に賴る女は、嫌ひですか」 「別に……」  彼は、車を降りた。蟲の聲がした。私も後を追ひ、車を降りた。特に目的は無いやうに見えた——蟲と共に|外燈《ひかり》に群がるんだけれども、彼らの方がぶんふんと存在を主張するので、彼は闇に逃げた。 「君が僕を狙つてゐるつて言ふ、女の子がゐてね」 「……で? その女の子は、あなたの特別なんですか?」 「いいや」  彼は|石塊《いしころ》を蹴り飛ばした。「でも君の目附きが尋常ぢやない事は、大體が知つてる」 「……それで?」 「……意圖が解らないな」 「意圖?」 「だつて、要するに氣があるつて事なんだらう? ……でも君はまだ若いし」 「だから? をかしいですか?」 「親子みたいな歲ぢやないか」  核心を|衝《つ》いた。さう——今の今まで、氣附かない振りさへしてゐたのに。 「年の差なんて……あなたは氣にするんですね」 「別に厭だつてわけぢやないよ。でも……良いところがあるかい、僕に?」 「あなたはやさしいし、ユーモアがあつて——モテないのが、不思議なくらゐです」 「それを言つたら君もだな」  彼は笑つた。「正直な話——好き、だよ。でも踏切れない好きだ、若い人に……」 「若い人なんて、言はないで下さい」  私は大股で近附くと、彼の背中に觸れた。「私の基準で見て、何も考へないで。ただ感じて」 「感じて……」彼は大きな溜息を吐いた。「ただ調子に乘つてるだけかも知れないよ、自惚れてるかも。君だつて、そのうち」 「言はないで」  彼に向ひ合ひ、抱締めた。それ程背の差も無い。この面積を、この厚さを、この鼓動を、同じ人間を——私を產んでくれた女も腕に閉込めてゐたかと思ふと、奇妙だつた。今では私のもの。そして私も——?  騙されても良い、と思つた、だつて私の方がネタを持つてゐる、とびつきりの特ダネを。もし——もし彼が巧妙に——知つてゐて——こんな事をしてゐるのだとしたら、私は憤死してしまふ——でも、私の背負つてゐるものを無に歸すなら、それも良いと思つた、どうぞ、輕くして。私、忘れようと思つても、忘れられないの。 「……」  私たちは車に戾つた。  靜寂だけが續いた。でも、長くは持たない。我慢が出來ない。私が、膝に觸れた。芯は、既に形を帶びてゐた。 「……した方が、良いのかな?」 「別に。私から仕掛けても良いですよ」 「隨分とドライなんだね」 「やる事は同じですもの」  最後まではしなかつたが、それでも一線を越えた、といふ感覺はあつた。でも、まだ——まだ、“衝擊の展開”ではないでしよ。彼を捕へるまでが、私の|樂しみ《罠》。べしよべしよの口を拭ふと、車の時計は十一時を指してゐた。お互ひに物足りなかつた、だから彼はアクセルを踏んだ、崖つぷちのラブホテルに。シャワーなんて浴びる間も無く、私たちは絡み附いた。——すごい、本當にしちやふんだ、この人とセックスを。いざとなると、彼が相當餓ゑてゐたのが判つた——痛いくらゐに。もうどれ程の間、女を相手にしなかつたのだらう。私は淚さへ出さうだつた、壞れさうだつた、“がんばつて喘いでやらう”だなんて生意氣だつた——さう、それだけは私の敗北だ——彼は本當に良い男だつた、理想的だ、もう二度と出會へさうにないくらゐには。  シャワーから上がつて來ても、ベッドで伸びてゐる私を見て、彼は滿足げに微笑んだ。男にとつては至福の時間だと思ふ、多分——そして私は、水を差すのだ。 「ねえ、石原さん……」彼はベッドに坐り、上掛越しに私を撫でた。「野崎惠美つて、知つてる?」  彼の手が止つた。笑顏も固まつた。「……いいや」 「——私、その人の娘なんだ」 「……」 「でね、最近死んだんだけど、その前に、あなたが父親だ、つて言つてたの」 「……」  彼は立上がり、すつぽんぽんのまま部屋を步き廻つた。そして、銳い笑ひを上げた。「君は——どういふつもりなんだ?」 「あなた、私のおとうさんなの? ——」  すると勢ひよく上掛を剝ぎ取られ、私は本能的に體を庇つた。 「君のかあさんだか何だか知らないが、僕に子供は無い」 「——でも、動搖してるぢやない」 「彼女は——他の男と寢たんだらう」 「ほら——知つてるぢやない」 「それは!」と、彼はベッドに手を附いた。が、先に恰好を整へるのが先だと思つたのか、きちんとバスローブを引つ掛けて、ソファに著いた。 「それは——彼女が初めての人だからだよ、何だ? どうしてこんな……君は誰なんだ?」 「だから、野崎の娘」 「それは——さうだらうな!」彼は冷藏庫を亂暴に開けて、イタ飯屋で買つたワインを開けた。こんなにも怒り、粗雜な彼を見たのは初めてだつた。同時に、面白いと思つた—— 「彼女は他の男と附合つてた、君には惡いがね、誠實な女ぢやなかつたんだよ」 「知つてます——自分で言つてました」 「その擧句が——これか——君は何なんだ? 僕に——何をさせようつてんだ?」 「別に——强ひて言へば、抱かれたかつた。それだけ」  彼はまだ重いだらう甁を振り被り、しかしテーブルに置いた。 「親が親なら、娘も娘だな……かういふ事は言はれたくないだらうが——本當に、僕が父親ならどうするつもりだつたんだ?」 「どうするつて?」 「君は——自分のした事が解つてゐるのか?」 「別に——だつて、父親と寢たからつて、命を絶たなければならないわけぢやないでせう?」 「……」彼は溜息を吐いた。「どうしてどいつもこいつも……僕を傷附けるんだ?」 「それが理由? 女と附合つて來なかつた?」 「さうだよ……惠美のせゐで——ああ——あいつのせゐでかうなつたと言つても過言でないのに! さうか——死んだか——で君は養つてくれとでも言ふのか、認知して欲しいと」 「望みませんよ——何も——これ以上はね」それから少し考へて、「ぢや、あなたこそ……私が本當に娘だつたらどうするんです?」 「有り得ない——有り得ないよ」 「男の人つて、そればつかり」  彼から酒を引つ手繰る事は出來無ささうだつたので、大人しく寢返りを打つた。ものすごく疲れてゐた。 「ぢや——彼女は結局捨てられたのか、それとも死んだのか。君の父親は?」 「私に父親なんてゐませんよ——生れた時からゐなかつた、今となつちや、どうでも良い、あなたが、認めなくて良かつた——私が、野崎の箱船になつて、かあさんと祖父さんを乘せてくから」 「……」  歸りの車內は氣まづかつたが、彼はちやんと送つてくれた。當然、それ以降は冷たくされたが、私は未だにコーヒーサーバーの前に立ち、彼に對する淡い戀心を注ぎ續けてゐる。  いつか死ぬその日まで——私は、野崎の娘だつた。 〈了〉