入つてどのくらゐになるの?
六年くらゐ、かな
初めて彼女と會つたのは、現在
彼女は眼を見開いて、非禮を詫びた。その時はどこにでもゐる、中途採用の社員、今時の華やかな女だ、といふのを、櫻色に塗つたネイルを見て、思ふだけだつた——
彼女が同じ部署に配屬されたのは三年前。プロジェクトのリサーチで、殆ど息が掛るやうな位置で大體の時間を過ごし、打上げでは酌
後藤が入つて來たのは二年前で、その時には既に、私は部署のサブリーダーだつた。彼は若くて、男前で、それ以外には取立てて目立つところも無かつたけれど、周りの氣を惹くには、充分だつた。彼は簡潔だつた。
春崎さんつて、恰好良いですね
良い居酒屋があるんですよ
例の件で、相談したい事があるんですけど色々と答へてゐるうち、彼も私の要領が判つて來たやうだつた。さう時を置かずに、彼は私の右腕になつた。行つて來いと言へば炎天下を驅けづり廻つたし、一晩でやつてみろと言へば、驛前のネットカフェに泊まり込んでその通りにした。私は點をくれてやつたし、上司にも名前を出した。……そのやうに難題を出してゐるうち、私も收拾がつかなくなつた。自分にも呵
——燃盡き症候群ですよ。音も無く不眞面目になつた彼を、私はさう評した。上司はさうでなかつた事が不思議みたいに、大して氣にもしてゐないみたいだつた。
——さうして、私は彼女を好きになつた。霧が晴れた、いや、突如として、眼に入つた。眼に入つたといふ事でさへ語弊がある、だつて、彼女は數年も前から、私の眼の前にゐたのだから。何が氣に入つたのか——息を嚙み殺す笑ひ方、キーに引つ掛る爪の音、口紅を引く時の間拔けな顏、お辭儀をして頭を上げた時の、ゆらりとした後
氣附けば、歸りにコンビニに寄る事が無くなつてゐた。喫煙所に行くとあの男がゐるので、自然と禁煙ができてしまつたやうだ。彼女は——彼女に、煙草の臭ひは、似合はない。良かつたと思ふ。彼女の、匂ひは、何だらう、爽やかといふよりも、甘やかだつた。私は香水を遣はない。あの男は遣つてゐる。吸込むと、眠くなるやうな香りだ……あれを嗅ぐと、なぜか父を思ひ出してしまふ。多分、煙草の臭ひと混じり合つてゐるのだらう。薄らとした、鼻先で、誰かを嗅ぎ取つてしまふ。そんな事態が、厭らしく感じた。
——後藤さんと、附合つてる
さう耳にした時、振返り、あの男の煙草さへ嗅いでゐた。けれど、幻覺だ。私の眼には何も映らず、何も漂ひはしてゐなかつた。それは音のある空氣、ただ浮上した事實が、顳
はつとしてみれば、彼女の名前を前にしてゐた。來週までに、評價を書入れなければならない。どうしよう。いや。普段の彼女は知つてゐる、眞面目で、當り障り無くて……でも今度のプロジェクトの失態は、きちんと加味しなければならない、遲刻だか何だか知らないが——朝——それに後藤が關はつてゐる? ——A、と打込んだ。削除して、C。でも情け無くなつて、Bにした。特記事項には、面談の必要あり、と書いた。最近遲刻とかスケジュールの漏れとか多いよね、何で? かう聞くだけである。何ら違和は無い、ロジカル、當然の職務。
呼吸をして、次のページをクリックする。後藤だつた。BBB、A、CCC。そんなリズムを刻んだ。半年前には手柄を特記したり、Aに+も附與した。でも今は。考へてはいけない。しかし、必要以上に冷淡になつてもいけない——彼は、業務に支障を來すへまはしてゐない。ただ、喫煙所の絨毯で煙草を揉み消したり、他人
パソコンの電源を落すと、仄かな暗闇が、私を癒やした。まるで何も見えてゐなかつた——感じてゐなかつた、何も特別でない、あの頃に戾りたかつた。
彼女が笑つた。得意先の新商品の小袋を抱へ、隣の子と感想を言合つた。その眞つ赤な配色は私が提案して、手描風のポップなフォントは、彼女のアイディアだつた。だから私たちの子。下らないけれど。そんな風に言へば、後藤との子は幾らゐるのだらうか。
はい、あーん
細い指先で摘
十一時までに、資料を纏めて下さい
サボりが見附かつた子供みたいに、わつとして正面に直る彼女たち。
後藤は、頰杖を附いて、畫面を覗き込んでゐた。
休憩時間になると、彼は烟を出しに消える。自由になつた彼女の背中に、掛けようと思へば掛けられる言葉。言つてはいけない事も無い言葉。退勤後、明日、明後日、週末、來週。さうして、ずつと引延ばされたままの言葉。言へない筈も無い。だつて、私は大人だから。自立した大人なら、好きか嫌ひかの一言くらゐ、簡單に言へる。さうやつて、立場を表明しなければならない。これは一つの政治。一つには個人の幸福の爲に、一つには共同體
——まるで——見えない臍
どれも、どれも當然の事だつた。なぜなら、私たちは仕事といふ、明確でありながら情の通はない、義務の臍
後藤に氣取られてゐるとは思はなかつた。これは偶然だ。偶然、後藤が誰かに聯絡し、偶然、彼女が誰かから聯絡を受けたのだ。思はず、笑みを零すやうな誰かから。……
春崎さん、お先に失禮します
週末、誰もゐない夜、チャンスだつた。いいや、最後のチャンスだつた。
私は、立つ事もできずに、彼女を睨んでゐた。
言へ、言ふのだ、自立してゐればこそ、彼女を愛すればこそ。
後藤くんの事だけれど
好きなんですか?
え?
ずつと、見てるから
……
私はかつとなり、眼を伏せてしまつた。止めを刺された氣がした、ああ、知つてゐたんだ、嬉しい、でも、どうしよう、彼は、彼女は、私は。
あの、私、今後藤さんとお附合ひしてて
——私は馬鹿だ。
知つてる
……
その……彼……女の人に對して希薄だつて聞いたから……あなたの事心配で……
さうなんですね
いつもの空氣が、戾つた、ピンク色の、淡い笑顏
でも、それは自分で確かめますから
さうだよね
——さうした方が良い、私も、思つた、彼女が後悔しても、ぼろぼろになつても——それは彼女の決斷、奴の業、私は警吿したのだ。
或いは、さうなつた彼女をも迎へ入れるのが、愛といふものだらうか——どれ程に穢れてゐようとも。
月曜日。私は、自分が儘
一日、どう乘切つたかは定かでない。ただ返事をして、パソコンの前で固まつてゐる、イグアナのやうな生き物であつた事は、確かだ。氣附けばオフィスの燈は半分消えてゐて、その時になつて漸く、身體が空腹を訴へてゐた。誰もゐない——後藤も、彼女でさへも眼に入らなかつたといふのか。馬鹿げてゐる。勝手に笑ひが漏れた。でもこれで良かつた、とも思ふ、もしかしたら、もう、いや又、私は何も感じずにゐられるのかも。
僕が希薄な男だつて、彼女は言つてましたよ
——腕がずきずきと戰慄
兩肩から手が現れ、本當に幽靈のやうな心持になる。その指がこの首に絡み附いて、總てが終る豫感さへした。
證明するのは簡單だ、物凄く簡單だ
凍て附くやうな聲
さうして、彼がどう彼女に證明したか、私は知つてゐる。いや、知るといふ程の事でもない、考へるにも價しない。それは結果であり事實、汗、淚。
求めれば求める程、手應へがあるやうだ
求める事でしか……確かめる方法を知らない? 彼女も私も、そして彼でさへ、戀愛に淺いのだらう。さうだ。こんな子供染みた方法で關心を賣つたり買つたりし、相手を手玉に取つた氣でゐる、愚かだ、卑怯者だ、恥知らずの勢揃ひだ。
君も私も馬鹿野郞だよ、本當に欲しいものも言はないで——欲しいものさへ、わかつてないんだから
ぎゆうと、身體が引締つた。恐れてゐた感覺、そして久しい感覺。言葉を封じられて、苦し紛れに息を吸ふと、眠りに落ちる直前の、父の匂ひがした。