匂ひ鳥

入つてどのくらゐになるの?

六年くらゐ、かな

初めて彼女と會つたのは、現在いまの部署から一つ下の階で、會議室を出た廊下だつた。彼女は丸めたポスターと數枚の書類を脇に挾み、揭示物を貼り始めるところだつた。合併して新しくなつた會社のロゴが見えて、私は脚を止めたのだ。

彼女は眼を見開いて、非禮を詫びた。その時はどこにでもゐる、中途採用の社員、今時の華やかな女だ、といふのを、櫻色に塗つたネイルを見て、思ふだけだつた――

彼女が同じ部署に配屬されたのは三年前。プロジェクトのリサーチで、殆ど息が掛るやうな位置で大體の時間を過ごし、打上げではしやくをして貰つたのも、憶えてゐる。その時でさへ、彼女は私の特別ではなかつた。

後藤が入つて來たのは二年前で、その時には既に、私は部署のサブリーダーだつた。彼は若くて、男前で、それ以外には取立てて目立つところも無かつたけれど、周りの氣を惹くには、充分だつた。彼は簡潔だつた。

春崎さんつて、恰好良いですね

良い居酒屋があるんですよ

例の件で、相談したい事があるんですけど色々と答へてゐるうち、彼も私の要領が判つて來たやうだつた。さう時を置かずに、彼は私の右腕になつた。行つて來いと言へば炎天下を驅けづり廻つたし、一晩でやつてみろと言へば、驛前のネットカフェに泊まり込んでその通りにした。私は點をくれてやつたし、上司にも名前を出した。……そのやうに難題を出してゐるうち、私も收拾がつかなくなつた。自分にもしやくのやうなものがある事を知つた。焦燥、といふのか。しかし興味が無いわけでもなかつた、彼はきちんと應へてはゐるわけだし、何も……無かつた。人一倍仕事をくれてやるのが私情あてつけではないとは、言切れなかつた。

――燃盡き症候群ですよ。音も無く不眞面目になつた彼を、私はさう評した。上司はさうでなかつた事が不思議みたいに、大して氣にもしてゐないみたいだつた。

――さうして、私は彼女を好きになつた。霧が晴れた、いや、突如として、眼に入つた。眼に入つたといふ事でさへ語弊がある、だつて、彼女は數年も前から、私の眼の前にゐたのだから。何が氣に入つたのか――息を嚙み殺す笑ひ方、キーに引つ掛る爪の音、口紅を引く時の間拔けな顏、お辭儀をして頭を上げた時の、ゆらりとしたおくれ毛……私は、彼女の表層しか知らない。それを好きと言へば、不敬だらうか。それは飽いた穴を埋める爲のものでしかないのか。否。彼女を愛してゐる、氣紛れで好きになつたにしては、大事にしてやりたいと思つてゐる。私は公私混同できる程、情の濃厚な人間ではない。どちらかだ。どちらかでしか……だから、疵附いた、穴が空いたのだらうか?

氣附けば、歸りにコンビニに寄る事が無くなつてゐた。喫煙所に行くとあの男がゐるので、自然と禁煙ができてしまつたやうだ。彼女は――彼女に、煙草の臭ひは、似合はない。良かつたと思ふ。彼女の、匂ひは、何だらう、爽やかといふよりも、甘やかだつた。私は香水を遣はない。あの男は遣つてゐる。吸込むと、眠くなるやうな香りだ……あれを嗅ぐと、なぜか父を思ひ出してしまふ。多分、煙草の臭ひと混じり合つてゐるのだらう。薄らとした、鼻先で、誰かを嗅ぎ取つてしまふ。そんな事態が、厭らしく感じた。

――後藤さんと、附合つてる

さう耳にした時、振返り、あの男の煙草さへ嗅いでゐた。けれど、幻覺だ。私の眼には何も映らず、何も漂ひはしてゐなかつた。それは音のある空氣、ただ浮上した事實が、こめかみの邊りを刺戟し、私の思考を散漫にさせた。呼ばれても氣附かなかつたり、何も無いところでつまづいたり、落したペンを拾つて、頭をぶつけもした。誰かが笑つてゐる氣がした。

はつとしてみれば、彼女の名前を前にしてゐた。來週までに、評價を書入れなければならない。どうしよう。いや。普段の彼女は知つてゐる、眞面目で、當り障り無くて……でも今度のプロジェクトの失態は、きちんと加味しなければならない、遲刻だか何だか知らないが――朝――それに後藤が關はつてゐる? ――A、と打込んだ。削除して、C。でも情け無くなつて、Bにした。特記事項には、面談の必要あり、と書いた。最近遲刻とかスケジュールの漏れとか多いよね、何で? かう聞くだけである。何ら違和は無い、ロジカル、當然の職務。

呼吸をして、次のページをクリックする。後藤だつた。BBB、A、CCC。そんなリズムを刻んだ。半年前には手柄を特記したり、Aに+も附與した。でも今は。考へてはいけない。しかし、必要以上に冷淡になつてもいけない――彼は、業務に支障を來すへまはしてゐない。ただ、喫煙所の絨毯で煙草を揉み消したり、他人ひとのペンを勝手に使つて駄目にしたり(三萬圓の萬年筆ださうだ)、會社のキーボードに飮物を零して駄目にしたり(三囘目だつた)、素行の面でちよつとした問題があつた。これも要面談――笑ひ合ふ、彼らが見えた。

パソコンの電源を落すと、仄かな暗闇が、私を癒やした。まるで何も見えてゐなかつた――感じてゐなかつた、何も特別でない、あの頃に戾りたかつた。

彼女が笑つた。得意先の新商品の小袋を抱へ、隣の子と感想を言合つた。その眞つ赤な配色は私が提案して、手描風のポップなフォントは、彼女のアイディアだつた。だから私たちの子。下らないけれど。そんな風に言へば、後藤との子は幾らゐるのだらうか。

はい、あーん

細い指先でつままれた菓子が、馬鹿正直に開けた同僚の口の中に消えていく。彼女がどれ程愛ほしいとは言つても、溜め息を吐かずにはゐられなかつた。

十一時までに、資料を纏めて下さい

サボりが見附かつた子供みたいに、わつとして正面に直る彼女たち。

後藤は、頰杖を附いて、畫面を覗き込んでゐた。


休憩時間になると、彼は烟を出しに消える。自由になつた彼女の背中に、掛けようと思へば掛けられる言葉。言つてはいけない事も無い言葉。退勤後、明日、明後日、週末、來週。さうして、ずつと引延ばされたままの言葉。言へない筈も無い。だつて、私は大人だから。自立した大人なら、好きか嫌ひかの一言くらゐ、簡單に言へる。さうやつて、立場を表明しなければならない。これは一つの政治。一つには個人の幸福の爲に、一つには共同體コミュニティ形成の爲に。そしていては、社會の爲に……。時間は過ぎていく。社員食堂カフェテリアを出ると、あの男が、壁を背にして立つてゐた。私を見てにやりとしてゐる。反射的に顏を背ければ、廊下の向うに、彼女がゐた。後藤がスマートフォンを操作する。すると、彼女はスマートフォンを出して、畫面を見た。……にやりとした。

――まるで――見えないへその緖、實在する私の身體を通り越して、彼らは繫がつてゐる――。生々しい不氣味さと、孤獨を感じてゐた。會社のメールアドレスしか知らない事、殆ど定型文で終始する返信、早口で捲し立てられた電話……。

どれも、どれも當然の事だつた。なぜなら、私たちは仕事といふ、明確でありながら情の通はない、義務のさいたいで繫がつてゐるから。

後藤に氣取られてゐるとは思はなかつた。これは偶然だ。偶然、後藤が誰かに聯絡し、偶然、彼女が誰かから聯絡を受けたのだ。思はず、笑みを零すやうな誰かから。……

春崎さん、お先に失禮します

週末、誰もゐない夜、チャンスだつた。いいや、最後のチャンスだつた。

私は、立つ事もできずに、彼女を睨んでゐた。

言へ、言ふのだ、自立してゐればこそ、彼女を愛すればこそ。

後藤くんの事だけれど

好きなんですか?

え?

ずつと、見てるから

……

私はかつとなり、眼を伏せてしまつた。止めを刺された氣がした、ああ、知つてゐたんだ、嬉しい、でも、どうしよう、彼は、彼女は、私は。

あの、私、今後藤さんとお附合ひしてて

――私は馬鹿だ。

知つてる

……

その……彼……女の人に對して希薄だつて聞いたから……あなたの事心配で……

さうなんですね

いつもの空氣が、戾つた、ピンク色の、淡い笑顏ゑみが燈つた。しかし、背けずにはゐられない、今の私は、彼女にどう映つてゐるか、判つてゐるんぢやないか、馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ――解つてゐるから、お願ひだから、せめてこの熱は引いてよ、耳まで熱いんだ、冗談ぢやない。

でも、それは自分で確かめますから

さうだよね

――さうした方が良い、私も、思つた、彼女が後悔しても、ぼろぼろになつても――それは彼女の決斷、奴の業、私は警吿したのだ。

或いは、さうなつた彼女をも迎へ入れるのが、愛といふものだらうか――どれ程に穢れてゐようとも。

月曜日。私は、自分がままならない事を知つた。人拂ひをして頭を下げると、上司は、私が退職するとでも思つたやうだ。違ひますよ。私、そこまで器用ぢやありません、ここを出て生きていける程。突然の休暇申請だつたが、快く引受けて貰へた。

一日、どう乘切つたかは定かでない。ただ返事をして、パソコンの前で固まつてゐる、イグアナのやうな生き物であつた事は、確かだ。氣附けばオフィスの燈は半分消えてゐて、その時になつて漸く、身體が空腹を訴へてゐた。誰もゐない――後藤も、彼女でさへも眼に入らなかつたといふのか。馬鹿げてゐる。勝手に笑ひが漏れた。でもこれで良かつた、とも思ふ、もしかしたら、もう、いや又、私は何も感じずにゐられるのかも。

僕が希薄な男だつて、彼女は言つてましたよ

――腕がずきずきと戰慄わなないた。

兩肩から手が現れ、本當に幽靈のやうな心持になる。その指がこの首に絡み附いて、總てが終る豫感さへした。

證明するのは簡單だ、物凄く簡單だ

凍て附くやうないきだつた。

さうして、彼がどう彼女に證明したか、私は知つてゐる。いや、知るといふ程の事でもない、考へるにも價しない。それは結果であり事實、汗、淚。

求めれば求める程、手應へがあるやうだ

求める事でしか……確かめる方法を知らない? 彼女も私も、そして彼でさへ、戀愛に淺いのだらう。さうだ。こんな子供染みた方法で關心を賣つたり買つたりし、相手を手玉に取つた氣でゐる、愚かだ、卑怯者だ、恥知らずの勢揃ひだ。

君も私も馬鹿野郞だよ、本當に欲しいものも言はないで――欲しいものさへ、わかつてないんだから

ぎゆうと、身體が引締つた。恐れてゐた感覺、そして久しい感覺。言葉を封じられて、苦し紛れに息を吸ふと、眠りに落ちる直前の、父の匂ひがした。