……つまり、人間關係つてのは愛人でしかないのよ……愛したり愛されたり……抱いたり抱かれたり……それだけ
私が虛ろな眼を投掛けると、彼女はグラスを揭げた。
あるいは、客と店員
さうして、あの妖しい笑みを浮べて、すくつと立ち、向ひの親父の席に行つた——支へを失つた私はがくんとソファーにつんのめり、その親父と彼女を睨み附けた。親父の手がどこにあるか。彼女の手は何をしてゐるか——
(アザミ……)
彼女は男の耳に囁いた。
(アザミい……)
一氣にウィスキーを飮干すと、彼女に負けない早さですくつと立上がり、勘定をカウンターに叩き附けた。給仕
その脚で店の裏側に廻り込み、立つた。ただ立つた。雫が頭を打ち、鎖骨を傳つて胸を濡らしても、夕方にカットしたばかりの髮が顏に貼附いても、パンティーがぐしよぐしよになつても、足がずぶずぶになつて、踵
——ダッチワイフ。笑へた。どつちがダッチだらう、といふ疑問と、いつからさうだつたらう、といふ疑問が浮んだ。嘗て誰のものだつたか。そんな事どうでも良い。大事なのは
(アザミ!)
ドアが開き、私は反射的に覆ひ被さらうとしたが、直前で止つた。ヒールがぐきりと折れさうだつた。相手は頭の先つぽが紫がかつた中年親父と、服は違ふが、確かに生意氣さうな、あの給仕だつた。彼は赤い傘を開かうとしたところで、私を見て固まつてゐた。中年が奪ひ取つて開く。
アザミはッ!?
アザミさん——すか? や、とつくに表から出ましたけど……
給仕の爪先を蹴つ飛ばして、私は走つてゐた。眼に附いたコンビニに飛込むと、奧にゐたをばさんスタッフが口を開いた。
大丈夫ですか? どうなさいました?
アザミ……
え?
ここに……來たでしよ……女……紫のメッシュの入つた……
ああ、その人なら
と、男
そのままアパートに歸宅して玄關で服を脫いでゐる時、隣の女子大生
お化けが通つた後!
風俗通ひを吹
飮み仲間の佐
男女混合
寢轉がつてげらげら笑ふといふのが、この女の性分だつた。
どうせ女としか寢ないのに
彼女がゐるからミックスの店に行つたのだ——そこは嚴密に言へば接待酒場
あれはさながら魔女であり、缺點といふべきものを見出させなかつた。ああした美そのものの女が、裝ひを變へたとしても、この街のどこにゐるとは、想像がつかなかつた。だから、逃すわけにはいかない——幻の花
お水の女つて、そんなに良いのお?
知らない
默れ。お前らみたいな金魚に、何が判るのだ。ベージュのストッキングを履く女たち。肥つてもゐなければ瘦せてもゐない、どこかで嗅いだ香水の香り、淡い靑
かなこおー、お水ごつこしてみよつかー
と言ひ、山崎は著たばかりの川之原のシャツを捲
私を揶揄してゐるのか、アザミを揶揄してゐるのか——兩方だ。私は憤つた。けれども木下が入つて來て、山崎と川之原は遊びを濟ませ、出て行つた。木下がロッカーを開けた。彼は見た目にも爽やかといつた感じなのに、むわつとした、生々しい雄臭さが漂つた。
制服
羽田さんと仲間さんは合コンですつて……先輩は行かないんですか?
君は戀人の一人や二人ゐないのかな?
セクハラですよ、それ
彼は笑つた。裏では何を呟いてゐるか知つてゐる、どれ程汚くて頭の惡い言葉が遣へるか、この……心配する振りをして、その心配の種を摘取つて育ててゐるやうな……そんな男。
さう言ふ君は行かないんだね?
必要ありませんから
私だつて必要無い
うん、そんな風に見えます
ジャケットとスラックスで振返つた彼は、一見サラリーマンだ。强ひて言へば斜め掛けしたショルダーバッグ(それも小さめ)がださく見えるが、それでさへ愛嬌として通りさうだ。
ぢや、お先に失禮します——氣を附けて歸つて下さいね
どこに向ふか知つてゐるくせに!
街に出ると、水著でお出迎へといふ看板があり、夏も惡くないなと思つた。が、それは隣の店の事であり、アザミは脫がないやうであつた。さうだとも。アザミがそんな、媚びた眞似を取らせる筈も無い——尤も、彼女ならば、ハイレグが似合ふと思つた。首から提げるタイプ。すらりとした脚線美が……炎天下の陽射しよりも、眩しくなりさう。
朱色のスカーフを解
あなた、表から歸つたでせう
あなたみたいな人、堪
ふふ、つと微笑んで、彼女は酒を呷つた。
でもアザミ、上等な客には著いていくんでせう? どこにでも
どこにでも、つてわけぢやないけど
私に眼を流したけれども、言葉は續かなかつた。
……私、あなたがどこに住んでゐて、どんなところで寢てゐるか、まるで想像できないもの。例へば高級ホテルの……スイートルームみたいなところしか、あなたは許さないんでせう?
あははと、彼女は笑つた。普通の、年相應の(といつて私より若く見えたが)女の笑ひだつた。ここが銀座のクラブか何かだとでも思つてるの、桃井さん? あなたみたいな人が簡單に來られるところなのよ、高級娼婦の敎養にも及ばない、私みたいな女がゐるところなのよ
あなたみたいな、といふ言葉には疵附いたが、事實さうだ。汚い親父と、婆一步手前の女が、なけなしの金を叩
で、あなたは、なぜ高級クラブに行かないの? あなたならどんなところにゐたつて——いや——さういふ、綺麗なところに行くべきよ、似合ふわよ
彼女は首を振つた。行つてもね、駄目なのよ。私がしてゐるのは凄く——日常的
學ですつて!——その學の無い連中を手玉に取れるんだから、あなたは食物連鎖の……上の方にゐるんぢやない? まあ良かつた事としては、私が手の屆く範圍で……あなたに會へるといふ事かな
嬉しいわ
——そんな事、思つてもないくせに。
金を拂はないと彼女に會へない、口も利いて貰へないといふのが、辛かつた。これは戀? それとも遊び? 性慾でも愛でもないとしたら、何なのだらう。友情といふわけでもなく、美しい女との交流
アザミはどつちに興味があるのだらう、と思つた。その實、誰にも興味は無いのかも知れない。その方がこの仕事は長くやつていける、といつか誰かに聞いた。だから誰とでも寢られる、誰とでも別れられる。
アザミ、行かないで
腕から擦拔けて行かうとする彼女を、私は引留めた。今日だけは私のものでゐてよ
彼女は口裂け女みたいににんまりすると(赤い口紅なのだ)、あなたが、この店を空にするくらゐ飮んだとしても、私厭よ。皆にいぢめられちやふもの
さう言つて、口髭を蓄へた、力士みたいな男の腹に收まつた。この男はアザミにパパと呼ばせてゐた。馬鹿々々しい! ……
タクシーのシートに仰け反つてゐる間、浮んでは消える考へがあつた。私とアザミが姉妹
アザミは、他の女の隣で笑つてゐた。——いつもあんな顏で笑つてゐただらうか? 私にだけ? あの女にだけ?
ぼうつとグラスを空にしてゐると、布張りのソファーが軋んだ。
男には興味無いの
岡村くん、お代り
要らない
僕の分ね
黑紫色のスーツに、茶髮の、若い男だつた。聲が高く、話すと子供みたいだつた。
參つちやふなあ。僕はどこに行つても除け者かあ
……
興味無いつて、友逹も要らない感じ?
君みたいなのはね
酒を呷る彼の藥指には金色の指輪があつた——さういへば、アザミは裝飾品
アザミさん?
彼が言つた。視線を注いでゐるのは、私だけでなかつた。
高
暫く振りにそんな古めかしい表現を聞いた。私が本を讀んでゐなかつたら、意味も判らなかつたかも知れない。時給千五百圓のホストに、その程度の敎養がある事も。
彼女は……
言葉が續かなかつた。この同僚に問掛けて、何を引出さうといふのだらう? 住んでゐる場所? 氣に入つてゐる客? 報酬だらうか、獨身かどうか、休日は、從業員
彼女は胡蝶。知つてはいけない氣がする——正體が、平凡な戶籍上の人間と知れたら、私は愛想を盡かすだらうか? 正體不明こそが彼女の魅力なのだらうか? 化粧を落したらごみ出しをして、四六時中ディスプレイを連打
寢たいつて思ふ?
私は首を振つた。
純情で狙ふなら、新しい子を選ばなきや
うんうん、と頷く。
僕とかね
その後の事は朧
店の休業日に打
突然雨が降つて來て、已
ブラッディマリー
喉の渴きを覺えた吸血鬼みたいに、私は出されたグラスに飛附いた。吸血鬼の良いのは、口にしただけで充足
臟器は熱を帶び、流し込まれたアルコールが血肉になつていく。男にも、女にも話し掛けられた。けれど相手も焦點が定まつてをらず、手段の爲の一言が引延ばされただけだつた。
困りますよ、お客さん
バーテンダーが、カウンターに突つ伏した客を搖さぶつてゐた。私は最後の一杯をテーブルに叩き附けると、よろよろとした足取りで、客の背中に步み寄つた。
君、早く起きなさい
思つたよりも舌が廻らなかつた。
バーテンを追拂つて(彼は苦笑してゐたが)、男の肩に手を掛けた。ぐらり、と彼の首が傾いて、あ、と私は聲を上げた。
あれえ、桃井さん……桃井さんぢやないですか……
木下くん……
彼はがらがら聲で笑ひ、震へる手で私を指差した。
商賣女にしかモテない女……商賣男にもモテない僕……
空になつたグラスを呷り、彼はカウンターを掌で押した。グラスの碎ける音、椅子がひつくり返る音……そして、腦味噌がごつんと打たれる音。
消えた……店からも消えた……
呻
カーテンを引き、窓を少し開ける。ガラスの三角マークは、工場
ウォーターサーバーの水は、頭にきんきんした。
木下くん。何か食べる?
彼はいやいやをするやうに、大きく首を振つた。私は册子をテーブルに戾した。
……振られたの? 言つとくけど、酒は私が立替へといたから。レシートはこれね黑い大理石風の灰皿を、文鎭にしておく。そこには私の酒も含まれてゐたが、構ふもんか。運んでやつた恩があるんだ。出る時に全部拂つてね、全部
一時間後には、出て行かなければならなかつた。シャワー浴びといでよ、と彼に言つた。が、雨が語るだけだつた。
クローゼットに掛けてゐたアンサンブルは、まだ濕り氣は帶びてゐるけれども、著ないわけにはいかない。
君、惡いけどそつち向いてゐてくれない?
どうしてとか、聞いてくれないんですね
スマホに聞いて貰へば良いんぢやない?
彼はちよつとした語
良いから向いてゐてくれない?でなければ、私はトイレで脫衣しなければならない。
でも——あ——だから、いつも最後に殘つてるんですね?
彼は寢返りを打つた。疵
腕を通す——思ひの外、じめつとはしてゐない。プライバシーの侵害だよ
あなたは堂々としておいて?
社會が腐つてるからね
私はトイレですら個室にして欲しいと願つてゐる。どうして足音や息遣ひやおしつこをする音、ナプキンを剝がす音まで聞かせなきやならんのだ?
——もう良いよ、と振返つた時、彼は上半身を起してゐて、片腕だけ表に出てゐた。
私は肩を落した。
君が總てを語り終へた時、それがトレンドになつてゐない保證は無いね
でも桃井さんは、さういふのに興味は無いんでせう?
私は時計を見ながら、紛失物が無いか、鞄を檢
——母たちは仲が良くて、共働きだつたけれど休日にはどこか連れて行つてくれた事、授業參觀にも運動會にも缺かさず出席してくれた事、夜遲くまで勉强を敎へてくれた事、高校や大學の費用も出してくれた事……
で、何が不滿なのよ
不滿が無いのが不滿。誰のせゐにもできないのが
贅澤な惱みだわね
さうやつて同情されないのが
辛い? それこそ平凡な惱みでしよ、どれだけの人間がましな人生を送りながら、自己憐憫に溺れてゐるんだか。
自分がわからなくて、好きな人が——自分をよく知る人ができたら敎へて貰へるかもと思つて、斷るつて事はしなかつた
ふうん
附合ひたくない人間つてのは幾らかわかつた氣がした。でも、それが全部ぢやなかつたから、良いと思つた人とは附合ひ續けた
ふーん二十分經過。
あいつと結婚すれば——もう少しで、何かに屆く氣がした。見える氣がしたんだ
雨脚は强くなつてゐた——あ、待つて、傘持つてないぢやない?
七夕……だつたかな。デパートの一階に、笹
レールの擦
お願ひだからシャワー浴びてよ
あと二十分しかなかつた。休むなら良いけどさあ。私の名前出さないでよね?
そこでやつと、私はスマートフォンの電源をオンにした。幸ひ、會社からの通知は無い。友逹のアパレルショップや書店から、新作や割引
十分前、彼は起上り、のろのろと浴室に向つた。
五分前、窓を閉めた。
ジャスト、精算機の前に彼を立たせ、私は軒下
雨、降つてますね……彼が追附いた。
驛まで十二分、コンビニまで七分——タクシー、呼んぢやはうかな
地圖
目印になる、大通りに面した雜貨店の、廣い軒下に驅込む。
木下もついて來た。
かうやつて雨宿りしてると……差が出ちやふんですよね、迎へに來てくれるのと來てくれないのと……
私は口の端を吊り上げながらも、顏を合せる事ができなかつた。
ややあつて車が迫り、手を擧げた。木下はシャッターを背にしたまま、私を見詰めてゐる。天氣さへ良ければ、ちよつとした撮影みたいだ。さういへば、と彼のポケットから飛出した札入れに眼が行つたが——
ぢや、木下くん、お先に
氣に掛けて貰へるつて、良いですよ——
あるいは、客と店員
ドアが閉まり、景色が流れ出す。私は鞄からハンドタオルを出すと、濡れた部分を拭いた。良いよ、と言はれたが、拭いた。
首を廻せば、今は小粒になつた木下が、角から消えるところだつた。
新しい子?
私
え?
そのズボン、ださいね——
大至急つて言はれると、かうなつちやふ
眞つ黑いズボンは毛玉だらけで、根元が地毛に戾り掛つた頭はぼさぼさで——袱