夜淚

丘に著いた。眼下には人々の營みが、散り散りに煌めいてゐる。頭上には星々が、更に小さな點々となつて光つてゐる――オリオン座が見えた。この特徵的な形は、興味の無い私でも知つてゐる。

綺麗でしよ?

……東京ぢやないのね

約三時間半の走行ドライヴ、彼女には眠つて貰つてゐた。その機嫌の惡さは、光源が遠くてもよく見えた。今夜は雲も無く、月も無かつた。先日降つた雨のお蔭で、雜草の茂つた足下の感觸は優しかつた。緩やかな風は冷たく、氣持が良い。外で過ごすには持つて來いの夜だつた。

もつとロマンチックな場所は無かつたの?

他には誰もゐない――蟲の聲だけだ。數年前まではデートスポットとして榮えてゐたが、新しい公園が設立された事や、國道までの近道が完成された事により、一氣にひとが無くなつた――それを逆手にとつて、こつそりと訪れる人間もゐるわけだが。

特にこの季節は耳がぶんぶんと煩く、手前の坂道には凹んだペットボトル、擦切れたビニール袋、巨大なブラウン管や錆びた自轉車まであつた。入口の監視カメラは三年前から稼働してをらず、こけの著いたポイ捨て禁止の看板には、色褪せた舊町名が辛うじて讀取れた。今は外燈も無ければ、落下防止の栅も無い。草刈の助成金が出てゐるのも、奇蹟なくらゐ――その中途半端な人の介入が、この丘を肝試しの輕薄から遠ざけてゐる。

初めて仕事したのもここだつた

姥捨て山みたいなこの場所で、私は常に一人だつた。僅か數十キロ先で煌めく人の營みは、味の無い肉のやうな、視覺に訴へるだけの舞臺裝置。

新人の子でね。入つて一年も經つてなかつた。人より機械プログラムの方が好きつて感じの子で……話し掛けるのも私くらゐでね、困つた時はすぐ呼んでくれた

をかしい。町の光の方が大きく見えるのに、頭上に瞬く星々の方が、もつとずつと大きいだなんて。小さいものが大きくて、大きいものが小さい。皮肉に感じるのは、總てに通じるから? 肉眼では絶對に氣附けない眞理。

ここで落合つて……抱締めるとね。とてもきらきらした眼で微笑んでくれたの

……その子も鎌倉の別莊に連れてつた?

私は笑つた。

ううん。マンションに連れてつた。會社から五分と掛らないの

そこがあなたの本據地いへ

當時はね

別莊つてのも噓なんでしよ?

ええ

何もかも見てたのね

かもね

摑み難い人だなとは思つてたけど、ここまでとはね

ごめんなさいね

何でここなの?

……

その子と重ねてゐるの? 私が騙し易かつたから? 何も知らずに、といふ事もできたんでせう? ねえ、どうして?

私は首を振つた――あなたこそらしくない事しないで、默つて、でなきや、本當に知りたい事を聞いて

本當に知りたい事ですつて? ――總てが無駄になると解つた時、私が知りたいのは、あなたの氣持よ――だつてそれしか、救ひは無いぢやない? 引裂かれた私の氣持が!

……

答へてよ!

答へなんて無い――

彼女がちくつとする刺戟に息を飮んだ瞬間、その無駄が決した。

又ここでも、感じない筈の重みを、どさりと感じた。受止めるのは天國のふはふはとした雲でも、コッカースパニエルの滑らかな長毛でも、ましてや愛人の柔肌でもない。

そのまま靜かな風を感じてゐると、車道から砂利を踏む音が聞え、すぐヘッドライトが洩れた。運轉手は降りる直前に携帶電話を切り、ネクタイは曲つてゐた。

ハードドライヴは?

破壞された

破壞させたんだろ? 君が

時計が五分遲れてゐたのだ。

とんだしくじりだな――

私も後を追ふべき?

會長ボスがお呼びだ

辯解をさせてくれるの?

相棒パートナーは、キーをボンネットの上に置いた。

明日も會へる事を祈つてゐるよ

擦れ違ふと、黑檀の机がある書齋の、煙草の臭ひがした。それに微かな麝香ムスクも。車に乘込んでキーを廻すと、ラジオから寸劇が流れて來た。一年に一度逢ふ男と女の話――

變な話

一年も間があつたら、きつと相手の事なんて忘れてゐる。

先輩

かかとを下ろすと、彼女は私の顏を見詰めた。初めて、眼が合つたままだつた。

先輩は、誰かを、眞劍に愛した事があります? ――自分の世界が崩壞してしまふやうな

ええ、あるわ

それがもし……失敗してしまつたら、總てを失つてしまふやうな

あるわ

風で舞上つた髮を、耳に掛けてやつた。月明りで浮び上つた彼女の肌は瑞々しく、色白で、顎にぽつんと赤い面皰にきびがあつた。

自分の、魂を曲げても欲しいつて……それつて愛つて言へるんですか?

彼女は私の腕を摑んだ。

――私判らない! 先輩、敎へて下さい!

そつと兩腕を摑んでゐる指を離させると、今度は私が彼女の二の腕を摑んだ。痛くはないやうに。しかし、しつかりと。敎へてあげる

彼女の鼻からは、細く透明な鼻水が出てゐた。こんな時だつて言ふのに。さう、あなたは氣溫差に弱かつた。握手の代りにハンカチを差出してんであげると、眠さうな眼を見開いて――直後に、くしゆんと私にも鼻水を飛ばしてくれた。よく憶えてゐる。今も尻ポケットには、あげたハンカチが入つてゐる。でも鼻に當てたなら、あなたは自分の匂ひでむずむずするんでせうね。無理しちやつて。

あのね

彼女は口に入つた鼻水を、下唇で舐め取つた。

魂が腐つても、高潔でゐても、すすれる蜜が猛毒なら、何をしたつて變らないの

え? ……

總てが無駄だと解つてゐるなら――、私は、最期まで快樂をむさぼりたい

腕を伸ばした。ふわ、つと感觸が消えたかと思ふと、けれど、生々しい感觸が、音や形を傳はつて、私に屆いた。

それは呆氣なく、昔からの寶物を失くしてしまつたかのやうな、罪惡にも似た喪失感だつた。途端に馬鹿だ、といふ內面こころの聲がした。私は自ら、寶物を手放した。永遠に戾らない寶物を。

合格よ

確かに背後には、私の待望んだ報酬、生きる意味、これから進む道、寶物以上のものがある筈だつたが、既に願望はいご意味いろを失つて、灰色になつてゐた。

その嘗ての寶物ゆめが私に竝び、空を指差した。

星に願ひを


――ああ、誰かが言つてゐたんです、流れ星つて、まるで空の淚みたいだね、つて。