思想無きコミュニティに未來は無い

ビジネスと批評、SNS化する投稿サイトへの輕蔑より續く。

投稿サイトは交流サイト

ノベルアッププラスの応援コメント、スタンプ、ポイントについて・その2

 確かに俺は「社交辞令で応援スタンプを押している」と解釈されても仕方のないことをブログに書きました。これについては、べつに訂正もしないし言い訳もしません。実際に、そういうことをやってますから。ここまでは全部肯定します。

 ただ、「それって、そんなにやっちゃいけないことだったのかな。悪いことだったのかな」と思ってしまったわけです。

 あたりまえの話だと思いますけど、小説でもブログでもコラムでも、何かしら書いて、web小説サイトに掲載して、応援されたら、そりゃ、嬉しいわけですよ。

 で、嬉しい思いをしたら、こっちからもエールを送ろうと考えるのは普通なんじゃないかって気がするわけです。俺は前にべつのところで「お歳暮をもらったらお歳暮を贈るのが礼儀だ」なんて言ったりもしたんですけど。それに、「これは、俺を応援してくれた人が書いた話なんだよな」なんて思いながら読んだら、そりゃ、どうしたって特別なものに見えてくるでしょうし。

こんなユーザーばつかりだと思ふ。

要するに、小說投稿サイトは書き手・讀み手の交流サイトであつて、作品の評價をするサイトではない

そして、かういつた馴合ひを肯定してゐるユーザーが存在してゐる以上、批評サイトになり得る筈は無い。

批評する場所

批評をする爲に批評をする場所が欲しい。さう望んでしまふ。

人間の距離が近い程、それは難しいのだと思ふ。或いは、作品と人間の距離が。

批評される事を望んでゐない人間が、そして交流したい人間がこれ程多い事に驚く。その違ひに氣附けない人間が。

その他、私の絶望みたいなものは、ビジネスと批評、SNS化する投稿サイトへの輕蔑に書いた。


彼らが惡いといふのでもないし、小說(作品)が交流のきつかけになつていけないわけではない。

私が怯えるのは、作品が讀まれてゐないのではないかといふ事、薄つぺらい交流に卷込まれてゐるのではないか、といふ事だ。


普段からそんなピリピリした気分でインターネットやってたって楽しくありません。

私から言はせれば、インターネットでも社交辭令の附合ひなんてしてゐたくない。顏を突合せない(=時間を置いて考へられる)からこそ本音のやり取りが出來ると思つてコミュニティに來てゐるのに、蓋を開けてみれば、きつぱりと批判の一行だつて書けない人間の集まりぢやないか、と。結局オフでもオンでも他人の顏色ばかり伺つてゐる。

動機のギャップ

基準と、ポイントの重みといふのがある。

見知らぬ高校球児に聲を掛ける氣安さでポイントを利用して欲しくない、私の作品をしつかりと讀んで、作品そのものの評價としてポイントを檢討して欲しいんだといふ人もゐるだらう。さういふ人にしてみれば、この渡邊裕多郎さんの態度は、失禮どころの話ではない。

逆に眼が行つたのも何かのご緣だからと、さういつた感じでぽんぽんポイントを附與する人もゐるだらう。作品が埋まつてしまつたら、そもそも評價なんて出來ないからと。

さうした批評勢と應援勢との狙ひの違ひが、一聯の利用のギャップに直結してゐる。


現狀、投稿サイトで批評――少なくとも、批評に特化した利用をする事は不可能だ。上記のやうなユーザーのギャップもあるし、そもそも、コメントスタンプなど、運營が手輕な反應を引出す事に徹してゐる。

批評、といふのはそんな手輕さからは程遠いもので、深くて、それ故に親密なものだ。挨拶程度の氣持で書けるものでもないし、それこそ作品と同樣の手間と愼重さを要する。だから、ここでもスピードを落さねばならない、と思ふ。荒ぶる心を鎭めて(或いは解放つて)、書くのだ。それは今の投稿サイト、そしてWeb全體の流れに逆らふ事を意味してゐる。――だとしても、私はゆつくりと、吟味して書いて欲しいのだ。その意識の流れを、樂しんで欲しい。さうして、私は、ゆつくりと物を書いたり讀んだり、生きる事そのものに、悅びを感じる。自分のペースで。


批評目的の投稿サイト利用は、不滿を募らせるだけだ。それなら率直に、批評家に依賴した方がずつと良い。

何を求めるか

投稿やプラットフォームに何を求めるか。

私は本文以外の情報が紛れ込む事(弘吿やコメント)は不適切だと考へてゐるし、さういふのは外部メディアに任せるべきだ。

私は投稿サイトには何も求めない。自分で揭載出來るから。私が求めるのは、批評メディアそのものである(プラットフォームではない――もう書き手と讀み手を圍ふのは止めて欲しい。幾つを橫斷すれば氣が濟むといふのか――何故批評を得る爲に同じ作品を別々の場所で揭載し、A批評とB批評を各々の場所で讀まなければならないのか。必要とするのはメディアと、メディア同士を繫ぐ(抽出する)、何らかのシステムである。檢索エンジンのやうな)。

交流も不要かな。他人に見せ附ける形での交流は要らない。私信ならメールする。


では批評の先に何があるか――私は自分が良い物を書いてゐると、心の底では自負してゐる。それによつて多くの人が氣附きを得られると、さう自信があるのだ。作品が曝される事によつて名譽を獲得し、生計まで立てられるといふ、その期待がある。更に、批評によつて私も氣附きが得られ、考へを修正したり作品に活かしたり、さういつた相互の作用も期待する。關心あるテーマの、建設的意見は、單純に面白いものだ。

結局のところ、人の眼に觸れなければ批評は發生しないのだが、私は適切な報せの場を持たない(知らない)。周知も叶はなければ、それはそれで構はない、と思つてゐる。何故ならば、私は書くだけでも生產的になれてゐるといふ自覺があるからだ。批評(第三者の視點)が無いから獨り善がりに過ぎないのだが、先も言つた通り、現實として伴はないのだから、最早どうにもならない事なのだ。どうにもならないならば、諦めるしかない。私は自分を貶めてまで、批評を得ようとは思つてゐない。それで偏屈で無知なままであるとしても、寧ろそれ故に、私は穢すやり方を許しはしないのだ。

調和

各投稿サイトには、勿論面白い作品もあつて、コメントやレビューがそれを盛上げてゐる、さういつた俗な、嘗ての揭示板のやうな、より身近で、より大衆的な馴染み深さがあるのも事實だ。私はそれを否定するつもりは無いし、さういつた溫かな交流こそが、運營の求めるものなのだらう。

そこに出向いて、水を差すつもりは無い――サービスが上手く機能してゐる姿を見れば、サービスの趣旨が浮彫りになる、だから、私は批評には向かないと思つた、それだけの事なのだ。

見返り

――SNSの數字と同じで、虛しいもの、か。

價値は自分で決めるもの。

金輪際關はりますまい。

人がゐれば、溢れるのは當然

かうして見てみれば、投稿サイトは、小說を大衆に近附けた――日常にしたのだ、と思つた、もう澤山の人々が、每日每日小說を書いてゐるではないか。賴まれもしないのに! やつとジュリア・キャメロンの夢は叶つたわけだが、一方で腑に落ちない氣持もある。このWebの現狀を見て、彼女はどう感じてゐるのだらう?

讀み手が少ないですつて? 小說つて、自分の爲に書く物ではなかつたのか? 他人を樂しませる爲に書いてゐるとは驚きだ、商賣でもない癖して。讀まれない小說に意味は無い、創つた小說に意味など無いのだとしたら、我々は何をしてゐると言ふのか。時間の無駄だから、著想など抛り投げて、何か別の樂しい事でもすれば良い。それが出來ないから、下手糞でもかうやつて畫面の前に坐つて、キーボードを打つてゐるのだらう? 讀者不足? 讀まれない? 書いても無駄? どれだけ著者つて奴は不幸なんだ? この問題改善されないよ、日々生み出される何萬といふ小說に眼を通せる人間が幾らもゐるつて言ふんだ、人氣作品にたかるのは誰なんだ。答へは無い、だから、時間の無駄だと思ふなら、きつぱり止めれば良い。止めても良い。

趣味は小說の執筆ですさう言つても驚きには價しない今日だ。私は夢を見る爲に書いてゐる。自分の爲に。

投稿して、讀まれたり感想を貰へたり出版されたりしたら嬉しいだらうが、手放しに喜べない現狀が、ここにある。あの中に入つても幸せにはなれないだらうといふ確信が。結局作品の質ではなく馴合ひの上手い奴が人氣者かよ、といふ不公平感。これも解消はされないだらう。むのも又、人間であるからして。

コミュニティ、そしてユーザーの鈍感さ

コミュニティとして見てみると――かういふ風に批評勢、應援勢、とポイントの利用の仕方について別れるのは一つの多樣性(柔軟性)自由とも取れるけれど、裏を返せば足竝が揃つてゐないといふか、投稿してポイント/コメントを送るといふ事以外には、確實に期待出來るものは無い、といふ事である。さうするともう、他のコミュニティと差別化出來ない。精々ユーザーの數・種、應募出來る賞、得意(目立つ)ジャンル、反應の貰ひ易さ、の違ひ。後は自主企劃等で、コミュニティの中に更にコミュニティを作つていく。

私は何でも投稿出來ますといふ八方美人さ(媚び)、言ふなればコミュニティの無個性さにうんざりしてゐる。運營と提携してゐるレーベルでしかを著ける事が出來ない。コミュニティへの歸巢本能――歸屬感を感じない。

賞? 書籍化? 交流? ――このコミュニティの本分は何なのだ? 書き手と讀み手にどう在つて欲しいのか? ――それが見えて來ない。快適に書ける/讀めるやうに~創作を應援~そんなのは前提の前提なんだよ。コンテンツが快適に作成/鑑賞出來るのは當り前、創作支援ツールとして使つてるんだから役に立つて當り前。書いて、讀んで、その先だ――言ふなれば、投稿サイトといふコミュニティの限界はここなんだ。その前提の前提を立てるのが投稿サイトの役割だつた――? つまり、テキストコンテンツに特化したCMSだつたんだな? ああ、それなら投稿/コメントする事以上になれないのは納得出來る。足竝なんてもの、意思の統率は無い。


ぢや、私の求める投稿サイト=コミュニティつて何なのか? ――先も擧げた通り、最早プラットフォームではない事、つまり自分のサイト(發信媒體)から參加出來る批評(言及)システムだ。だから、どう足搔いても、現狀の投稿サイトに滿足する事は無いし、理想の片鱗すら無い。

せめてジャンルに特化したコミュニティが欲しい――すると、今度はジャンルの定義が問題になつて來るわけだ――どういふわけか、書き手(か運營者か?)の多くは定義とか基準とか言つたものが嫌ひだ。それはステキブンゲイどのような作品も歓迎いたします。といふ殘念過ぎる囘答にも、文学フリマの一見恰好好いが曖昧過ぎる理念にも出てゐる(何故畫集や裝飾品が販賣されてゐるのか?)。とか個性とか――もつと言へば思想主張といふのは、何かを切捨てなければ確立し得ない。名立たるコミュニティの多くは、構成員ユーザーを確保する爲に、自らの個性を切捨ててゐる。或いは、個性はあるが、それを隱してゐるデビューのチャンスがありますよとは言ひながら異世界ものやファンタジーにしか開かれてゐなかつたり、小說以外の創作物を想定してゐないエディタの造りだつたり。

私は無個性な――といふよりも、人畜無害を裝ふコミュニティを、酷く輕蔑する。そこには魂も、理念さへも僞らうとする根底がある。私は何でも受容れる、といふ態度に飽いたのだ。結局は世界そのものにならうとする慾、書き手・讀み手の外ぐわくとなり、自らの名を背負はさうとする慾があるだけではないか。


ある意味で、これ――コミュニティに作品を預け、鑑賞までも丸投げしてゐる、といふのは危險な事だ。ある場所でしか作品を書かず、讀んでゐない、といふのは。私はそれが恐くて、サイト內での讀書、ブックマークを附けたり、感想を書いたり、といふ事も止めてしまつた。讀書の上逹が古書を讀む事、とりわけ惡書を讀まない事だとすれば、殘念ながら、現代の開かれ過ぎたコミュニティに依存する事は出來ない。我々の大半は素人で、下手糞で、似たやうなものしか書かないのだから。おまけに、これだけ澤山の人間がゐる故に、偶の良作でさへ見附けるのに苦勞する始末だ。鑑賞數、ポイント、レビュー等は既に述べたやうに馴合ひが基準であつて、作品の質とは直結しない。何も當てには出來ないといふ狀態が、ここにある――質の良い作品を書きたい、讀みたいといふ人間程、ただ待つばかりになる。

見るが良い、この思考の絲を摑むのに苦勞さへしてゐない人々を。こんなものを見て心が溫まるといふのか? 寧ろ底冷えするだけではないか、これだけ凡庸な人間が、これ程までに人の眼を氣にしてゐるといふ事が! とてもではないが、讀み書きの向上を拔きにしても、見てはゐられないのだ。

結局のところ、コミュニティの個性に傾倒してゐなければ、コミュニティ內の作品を讀まう(=コミュニティを活潑にしよう)といふ動きは、自分の作品を讀んで貰へるだらうといふ期待でしかない。私はさういつた淺はかさが嫌ひなのだ。一體、この(個性をひた隱しにする)コミュニティのどこに、書き手・讀み手の未來があるといふのか。ユーザーには、そこを考へて貰ひたい。

コミュニティは、ユーザーに――彼らを取込む事によつて――を著けさせよう、などと馬鹿な事を考へない方が良い。思想無きコミュニティに集まつて來るのは、思想無きユーザーだけだ。彼らは表現すべきも解らない――といふよりも、表現したい物すら無い――ので、流行りの話題テーマに乘つかるか、他人の猿眞似をする事でしか、ユーザーとしての自分を保つ事が出來ない。これはnoteに顯著だ。何となく始めてみましたそんなんばつかりだぞ。

プラットフォームは、プラットフォームだ。文章を廣げるを提供してくれるといふだけで、書き方や讀み方、創作家としてどう生きていくのが賢明かといつた事について、敎へてくれる事は何も無い。ここに所屬さへしてゐれば自動的に人間としても書き手・讀み手としても洗練されていく、といつた馬鹿な事を考へてゐる人間もゐるが、未だ技術と魂の成長は、人力である。人間同士の關はりでしか、何も成し得ない。――さういつた意味で、私も又、批評システムに期待し過ぎてゐるところはあるだらう。どうやつて人間としての質を高めていくか、といつた事が、人生を通したテーマなのだ。プラットフォーム、コミュニティは、そのきつかけ、ツールでしかない。働く(苦勞する)のは我々だ。何もなんて出來ない。目一杯生きるのだ。我々はまさに、生きる爲に、(自分にとつて最適化した)コミュニティを必要としてゐる。

補足

批評は外部メディアでメディアの抽出は、Jintrickさんの著想より。
より良い外部コメントサービスとは? (agenda)
私の思い描く理想的な外部コメントサービスは、分散された批判や言及をかき集める。実現可能性の最も高いのは検索サービスだろう。非リンク検索結果が今もっとも理想に近いと思う。つまりコメントする者は各々自分のサイトなりブログなり、ソーシャルブックマークのコメントやTumblrなりで勝手に発言し、第三者のウェブサービスがそれを収集して纏めるのだ。
馬鹿の世界とウェブサービス、ウェブパブリッシング (agenda)
前回の話を要約すると、コメント機能は第三者のウェブサービスに任せれば、コンテンツはよりシンプルになり、コメントを得られるチャンスもぐんと広がり、かつ、コンテンツの著者による改竄の恐れもなくなるなど良いことばかりだよこの野郎、ということ。つまり私が何度も何度も書いてきたことの繰り返しだが、ウェブサービスは分散されていることが望ましいということだ。
ステキブンゲイの殘念過ぎる囘答
一般文芸とライトノベルの基準は何ですか? – ステキブンゲイヘルプ
ステキブンゲイとしては、一般文芸とライトノベルの明確な線引きはないと考えております。そのため、当運営が作品をライトノベルだと判断して掲載を禁止または制限することはございません。投稿者様ご自身の判断で、ご自由に投稿いただいて構いません。どのような作品も歓迎いたします。
文学フリマの一見恰好好いが曖昧過ぎる理念
文学フリマでの〈文学〉 - 文学フリマとは | 文学フリマ
「自分が〈文学〉と信じるもの」が文学フリマでの〈文学〉の定義です。
讀書の上逹は古書を讀む事、惡書を讀まない事
ショウペンハウエル著、斎藤忍随読書について 他二篇 [ISBN: 978-4-00-336322-5]