小說『動機』 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 最終更新: 2020年4月26日 公開: 2020年4月18日 第1版 2020年4月26日 第2版 附錄: 『動機』HTML版 http://kimitin.sinumade.net/2020/huroku/w/syosetu/1 『動機』1000字版 http://kimitin.sinumade.net/2020/huroku/w/syosetu/1-1000-text 『動機』插繪 http://kimitin.sinumade.net/2020/image/w/syosetu/1 適用: Creative Commons — CC0 1.0 全世界 http://creativecommons.org/publicdomain/zero/1.0/deed.ja 著・發行者: 絲 letter@sinumade.net http://kimitin.sinumade.net/ ---------------------------------------------------------------------------------------------------- ルビ:|《》 傍點:【】 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- ■■■■ 注意事項 ■■■■ ・成人對象[成人対象] — 二十歲以上の讀者を對象とする[二十歳以上の読者を対象とする] ・小說[小説](フィクション) — 實在の事柄とは關はり無し、描寫中の行爲を獎めるもので無し[実在の事柄とは関わり無し、描写中の行為を奨めるもので無し] ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 『動機』  テーマ:お金がない ・2931字/400字詰原稿用紙・8枚 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- 動機  男は高橋と名乘つた。さらさらとした髮を振つて、愛想の良い笑みを浮べる。あれだ——歌手の——誰かに似てゐる。多分、歌手だつたと思ふ。それとも俳優か。最近は、歌を歌つてドラマの主演もしてゐる藝能人が多い。兔角、テレビに映える程度には、高橋は好印象で、美丈夫だつた。 「……何と言つたら良いか」  輕過ぎず、低過ぎず、聲も中々に快かつた。 「御會ひ出來て良かつたです」 「別に——いえ——」  私も又、何と言つたら良いか判らなかつた。あの後警察が來た時は心底驚いたが、何も起りはしなかつた。この男が腕を摑み、袖口に血が著いて——はつきりと憶えてゐるのは、そこだけだつた。私は完璧に立囘つた筈だつたが、濡れた手でスマートフォンに觸れた事も、どの道を通つて歸宅したのかも、定かでなかつた。  彼は、地元の大學生だと言つた。驚いた事に、マンションの前の——いつものコンビニでアルバイトをしてゐる、との事だつた——そんな偶然が、有り得るだらうか? 記憶を辿るに、これ程かはいい店員は見た事が無かつた。多分、深夜か朝にでも出てゐるんだらう——彼はこれを機に、辭めるとも言つた。私は、はあ、はあ、と相槌を打ちながら、安心が自分から飛込んで來る事を願つた。  靑年は自分語りを終へると、改めて視線をこちらに投掛けた。名乘つただけで、まだ私は何も——。掛けるべき言葉を探す。今の狀況に、ぴつたりな言葉を。 「元氣さうで、良かつたです、その——後遺症とかは——」 「御陰樣で」  と、高橋はにつこりと笑つた。——さう、その顏の傷附かなかつた事が奇蹟だつた——もしこの顏をフロントガラスのやうにぐちやぐちやにしてゐたら、それこそ“後遺症”どころの話では無かつたかも知れない。不謹愼だが、身體の缺損以上に、美貌の缺損の方が、私には不自由な人生に思はれた。 「でももう少し遲かつたら、腦に酸素が行渡らなくなつて、何らかの障碍が出てゐたらうつて。木崎さんが、すぐ通報してくれたから、今かうして、僕は御話し出來るわけです」  彼は兩腕を持上げた。私はそれ以上に踏込むべきか迷つたが、當事者である以上、何も思はれはしないだらうと判斷した。 「その……あの時の事……憶えてますか?」 「え?」 「事故の原因とか……私の事とか——」 「ああ、ええ」  彼はペットボトルに手を伸ばした。母親が見舞に來て、冷藏庫を飮物で一杯にしたといふ事だつた。左足の脇には彼の志向を示す分厚い|書物《ほん》があり、サイドボードには眞新しいスマートフォンと、黑いイヤフォンが出てゐた。白百合とオレンジの花が、縱型のデジタル時計に|撓垂《しなだ》れ掛つてゐる。私は唐突に、この靑年の、戀人の存在を考へた。當然、このやうに穩やかで美しい靑年ならば、戀人の一人や二人ゐてもをかしくはないだらうと——でなくとも、友逹は多いだらう。彼が又、口を開かうとした時に、看護師が入つて來て、挨拶をし、血壓を測つた。彼女は私にも微笑みはしたが、何者かは尋ねなかつた。行爲は手早く終り、最後に點滴の樣子を見て、看護師は出て行つた。カーテンの向うの、淺黑い患者の吐息が聞えた。その他には誰も無いが、かういつた相部屋で、事の仔細を聞いて良いものか——しかし、私はここを去つたら、二度と來ないだらうから、核心を得るには、今しかなかつた。  靑年は言つた。 「あの急なカーヴを、『危ないな』つて思ひながら曲つたのは、憶えてるんです——でも、それ以降は……」 「……」 「何となく——誰かに、しがみ附いたのは、憶えてます、さう、あなただつたのか、母親だつたのか、それは判らないですけど……」  それきり默つたので、私はほつとした。時計を見ると、一時間半が過ぎようとしてゐた。そろそろ潮時だらうと思つて、私は腕に掛けてゐた上著を搔き抱いて、腰を上げようとした。  ——その時、サイドボードから、ぴろりん、といふ、輕い音が響いた。彼と私、同時に視線がスマートフォンに行つた。彼が畫面にちよんと觸れると、檢索サイトのロゴが、ちらりと見えた。  私はこほん、と出來るだけ音を立てずに、咳拂ひをした。 「もう行つちやふんですか?」 「長居しても、御迷惑でせうから……」 「さうですか? ……でも」  でも、と彼はベッドから身を乘出してぐいと私の腕を摑み、引寄せた——あの時の衝擊が|過《よぎ》つた、死ぬ程にびつくりとした、見開かれた眼、ゆつくりと額を傳ふ血、のたうつ心臟、罪惡感、それに——  彼は自分のスマートフォンを、私の胸に突附けた。そのまま硬直してゐると、彼は躊躇ひも無く腕を私の鞄に突つ込んで、スマートフォンを手繰り寄せてゐた。餘りの事に、私は體を引かうとした。でも彼の、細いが强靱な腕力が、それを許さなかつた。 「又會ひませう? さうして、くれますよね?」 「え……」 「『何で』つて言ふのは、この際無しにしませんか。單純な、僕の過失の爲に、保險金は拂はれなかつた——しかも、あれは僕の車ぢやなかつたんです! その上、僕自身は保險にも入つてゐませんでした。あのね木崎さん、解りますか、解りますよね?」 「……」  顏の筋肉が硬直し——彼の言つてゐる事以上に、自分の|表情《こころ》が判らなかつた、適切な言葉、適切な處理—— 「保險金、入つてゐるんでせう?」 「……」 「あの日——ですよね、亡くなつたのは?」 「……」 「あんなに——危險なところであんな運轉するくらゐですものね、餘程嬉しかつたんでせう、餘程樂しみだつたんでせう?」 「——」 「ドライヴレコーダーに映つてるんですよ、氣附きませんでした? だから、警察はあなたを特定出來たんですよ——確かに彼らは不審に思つてましたけど、それは事故に關して、ですからね? ——あなたは通報もしてくれたし、後は當事者で何とかするつて、僕が說得したんですよ」 「……」  病室を拔けると、妙に笑へてきた。通報しなければ良かつた、といふ後悔と——手帖を開くと、鮮やかな飛沫の著いた一萬圓札が、まだ|挾《はさ》まつてゐた。結局のところ、ガソリンは入れなくとも間に合つたのだ——眼の前にあつたから。そんな理由で手を伸ばすなんて、私も馬鹿だつた。忘れ物は何も無かつたのに——普段の物以外には。昔からさうだ——穴を塞いだと思つたら、又どこかの穴を空けてゐる。  ナースステーションの前を通ると、高橋の名が聞えて、立止つた。素肌の太腿を出し、きらきらと光る安つぽいビーズのストラップが、もこもことした手提げバッグから覗いてゐた。女は|捻《ひね》つてゐたショートブーツの足首をくるりと廻すと、廊下に步いて行つた。 “來週の日曜、十三時”  ——陽が落ちると、スマートフォンを放り出して、コーヒーを飮んだ。  五時になると立上がつて、たつた一つのカップを洗ふ爲に、スポンジに洗劑を著けた。夕飯は既に鍋の中で煮詰つてをり、餘り意識してゐなかつたが、それまでと同じ量で作つてしまつてゐた。私宛でない葉書を整理し、早めに風呂に入ると、漸くパソコンのスイッチを點けた。「歸つて來る」八時まで——。推理ドラマを眺めながら、私はぼんやりと考へる。  事故に遭つた人間が、再び事故に遭ふまで、どれ程の期間が自然だらうか、と——。 〈了〉