北風に太陽はあるか

 バーの扉を押す前に、サブロは濕つぽい外氣を取込んだ。
「あのよおー、せめてはだかになるつてのはどうかな?」
 クインはぱつと自分の中折れ帽に手を乘せると、それをサブロの頭部に乘つけた。
「ふざけるなよッ。畜生ッ。おれは生れてこの方そんな眞似はした事無かつたんだ。幾らなんでも、な!」
 怒りの表明に、クインはそつと帽子を自分の頭に戾した。
「行くぞッ」
 サブロは腹積りを決めて、戶を押した。ききーと、蝶番てふつがひが悲鳴を上げた。大凡おほよそ人間の靴の步行しか想定してゐないフローリングには爪を立てたやうな引つ搔き傷があり、大凡そのやうなフローリングを想定してゐないローラーが、サブロの足の裏で廻つてゐた。ゴロゴロと注意を引く音が響くと、サブロは步行に切換へた。アルコールと、煙草と、汗と、けたばかりの油の匂ひ。どこからともかくぼんやりとした白い煙。停まつたファンと、黃色くなつたシリングライト。奧にははつきりと“便所”と書かれてゐる。つまり自分の姿を映すために洗面所に立つたり、糞尿以外のものを出したり、その糞尿や體液から諸々を分析してはならないといふ事だ。
 二名の警官はゆつくりと步を進めたが、手前の空いてゐるスツールまで行かないうちに、一體のCIFシフがテーブル席から立上がつて、クインの前に立ちはだかつた。サブロは頭部を天井に逸らし、排氣を漏らした。頭の上では、ちぢれた白髮しらがのやうな蜘蛛の絲が、ふんはりと隙間風に搖れてゐた。
 警官の眼には他とは別のものが映つてゐる――例へば、このクインに指を突附けてゐる、コードナル・バローズ、稼動歷23年、自動車整備士、犯罪歷無し、その他の事實。
「なんだ、お前は? 寒いのか? CIFに傷でも附けたくないのか?」
 カウンターで飮んでゐた男が背中をのけぞらせて、箱型CIFより頭一つ拔けた、二メートル强のCIFを見た。全身は鈍いメタリックカラー、腹部はしなやかな、筋肉にも似た凹凸あふとつがあり、脚は骨張つてがつしりしてゐる。頭部は一般的なCIFと同じやうにのつぺらぼうだつたが、これも頭蓋のやうな凹凸が施されてゐる。更には、帽子を被り、コートを羽織つてさへゐる。これは男が今までに見てきたCIFの造形に反したものだ。彼は首を伸ばして、二體のCIFの背後を覗き込んだ。誰もゐない。カラリと廻るグラスの氷。
 コードナルがへヴンの出身者である事はサブロにはわかつた。クインにもわかつた。だが、「わかつた」以上の事は、既に店の前で實踐しなかつた。
「何のために著てゐる、と聞いてゐる」
「假裝みたいなもんだろ」
 バーテンが言つた。
 サブロは中年の禿げ上つた頭を見て、それから又賃貸番號リースナンバーが肩にペイントされたCIFに視線を戾した。
 人間代表は續けた。
「俺たちは氣にしてない」
「あなた方が氣にしてゐるか、それは問題ではないのですよ」
「ぢやあ……」と、バーテンは磨き上げたグラスをカウンターに置いた。「ここにや恰好を縛るルールが無い、と。どうだ? 鄕につては鄕に從へ、だ」
「これは存在意義の問題なのです、マスター
 コードナルがクインのトレンチコートに手を掛け、サブロは割つて入つた。
「わかつた、わかつたよ。こいつは外に出すからさ、あんまり亂暴な事すると公務執行妨害だぜ」
「ほーう、連行すると言ふならさうすれば良い。だがな、罰を負ふ事になるのはこいつだ」
「修正」や「解決」といふ物騷な文言にもめげず、サブロは「やれやれ」の一言で現行犯逮捕し、署に移送手續きをした。
管理者ルートはこの所業を許さない」
「ああ、管理機構オービットの連中に言つてやれ、……」
 コードナルの轉送が完了してCIFの稼動が停止すると、サブロとクインはじりじりとCIFをバーの隅つこに押出した。
 バーテンはひゆー、と息を吐出すと、つやつやと光るグラスに酒を注いだ。「だから俺は昔から言つてるんだよ、“コンバット・インターフェース”の間違ひぢやねえかつて」
「すまねえな、後で取りに來る」
 サブロはレジに手をかざすと、署がCIFを引取りに來る時間の通知と、ほんの心附けを拂つた。ヘヴン出身ともなれば署長は興味を惹かれるだらうが、あいにくとCIFそのものはステーションで貸出されてゐるものだつた。
「なあ、あのヘヴンつて島はよ……かうぽわーつて空に浮くわけだろ、ん? 働かなくても良い天國なんだろ?」
 カウンターの奧で突つ伏してゐた老人が、眞つ赤になつたくしやくしやの顏を上げた。隣にゐた男が、老人の倒れたグラスを起して自分の方に引寄せた。
「じーさん、あそこにや酒も煙草も無いんだぜ」
「獨身もゐないらしい」バーテン。
「“ぷらいばしー”つてやつだ」サブロ。
 バーテンが二名分のオイルを淹れてくれたので、サブロは突つ立つてゐるクインの背中を押す素振りをして、カウンターに腰を下ろした。その時コードナルの隣に坐つてゐたCIFが通路側に身を寄せ、サブロは素早く振返つた。
「連れが氣になるのか?」
「いや、その……」と、前屈みのか細い聲で、へヴンの旅行者は言つた。
「記憶を消してくれないかなと思つて……こんな事になつて何もできなかつただなんて情けない」
「でも」、とサブロは一口オイルを啜りながら言つた。「奴らにはもう知れてるんだらうよ」
「だとしてもナルになじられたくない。友情に水を差したくない」
「お前と奴とは合はないんだ、水と油なんだよ」
「あーぼくは、ぼくに毛布を掛けようとする女の子に戀してしまつたんだ」
「消したくもない記憶があるんなら、危險な事をするんぢやねーよ、おれは技師プロぢやねーんだから」
「彼女を說き伏せた雄辯さが今あつたなら……」
「お前さんの頭が人間にしか働かないからつて、役立たずつて事にやならないだろ」
「まあさうかもね……さうかもね」
「ほら、乾杯しようぜ、兄弟」
 現地の警官と旅行者は乾杯した。金メッキの剝げたコップは、ろくな音もしなかつた。
「友情以前におれたちは切つても切れない兄弟さ、それは選べもしないんだ」
「しかし友人は選べる」と、ちらと旅行者はクインをうかがつた。「餘計なお世話かも知れないけれど、友逹は選んだ方が良いよ。これは人間と變り無い助言だよ」
 サブロは肩を落した。「あいにくと、こいつは友人以前に同僚なんでね……」
 左のこめかみの邊りがカタカタと情報を讀込んで、サブロの思考をノックした。仕事だ。
「さて、おいとまするかね」
 外に出ると霧雨が降つてゐた。中にゐる時だけ晴れてゐるとは、今日の空は隨分と意地惡だ。と言つて、良くしてくれた事も無いが。サブロは改めて、クインの長いキャメル色のトレンチコートを盜み見た。濡れたら不快だらう、とか、搜査の邪魔だらう、とか無難な文句は澤山あつた。「ありや誰の趣向なんですかね」と問へば、「生產者メーカーかな」と弱々しく、曖昧に署長は答へた。本來自分たちが取締るべき對象を、しかも相棒として抱へる事にならうとは。
「いて」クインが立止つたままだつたので、一步踏出したサブロは頭をぶつけた。正確に言へば、コートに。嗅覺はホテル「995夜」のリネン室の……洗劑の匂ひ……を讀取つた。それはデータベースにあるうちの一つの、けれども、思ひ出すのは、コインランドリーで起きた事件の搜査で、バスケットに入つた眞つ白な綿のタオルを顏面に押當てた時の事だつた。なぜさうしたかと言ふと、さうした方が面白さうだつたからだ。そして感觸は想像シミュレーションできるけれども、實際に觸れてみれば“違ふ”事をはつきりと學んだ。してみれば、このぺらぺらなトレンチコートの感觸は……
 次の瞬間、トラックが猛スピードで通り過ぎ、緣石に溜まつてゐた水が、二名に撥ねた。
 コートはびちよびちよに濡れた。身體フレームもびちよびちよに濡れた。
「……」
「くつそー、急いで向かふぞ!」
 サブロは大股で向いにめてゐた車輛に飛込んでCIFを接續すると、勢ひよく道路に出た。
「早く乘れつて!」
 クインは默つたまま、ゆつくりと指示に從つた。
 サイレンを鳴らして車の列をジグザグに走り拔け、折れてきた對向車に衝突するところを間一髮で囘避して、ホテルの駐車場まで辿り著く。
 二名が黃色いテープをくぐると、先に來てゐた搜査員が右手のライトでクインの顏面を照らし、苦笑した。「そいつ、役に立ちますか?」
 色褪せた看板、ひび割れ苔したレンガ調の壁、燈のいた窓――カーテンが動いた。サブロは、窓枠が歪んで外れさうになつてゐる、“335”に目印ピンを立てた。
「ああ、こいつになら、言ひたい事はあるだらうよ」