サービスの拒絶

あなたが、私に作品を見せたり紹介したりする時に、あなたが管理してゐない手段で提供する時、私は間違ひ無く、第三者のポリシーに同意する必要がある。

故に、私は個人情報の提供を最小限に留める。望まない扱はれ方をする事が明白だからだ。アクセスした時點で情報は收集・記錄されるにも拘らず、個人情報の扱ひについてアクセスする前に知る事はできず、又アクセスしようとするサイトが外部リソースを含んでゐるか知る事もできない(ブラウザで讀込みをブロックするやう設定する事はできるが)。

簡潔に

平等なアクセス

インターネット・プロバイダは當然に、私が何にアクセスしてゐるか知つてゐるが、この情報も賣買/判斷されたくないので、Torを利用してアクセス先を判り難くしてゐる。さうした行爲をサービスが拒否する(ページを表示しないなど)なら、私もそのサービスを拒否する。本屋や圖書館で身分を明かす必要が無いやうに、情報の參照に關して、匿名性とプライバシーが保たれ、さしたる理由も無く參照が拒絶される事の無いやうな、公平なアクセシビリティを、私はインターネットにも求める。
――とすると、讀者の環境(アクセス元の地域、デバイス、ブラウザなど)に基づいてアクセスを制限する事が、どれ程の不平等かよく解るだらう。

拒絶しても良い

私は、自由ソフトウェア運動を通して、相容れない事は拒絶しても良いのだ、といふ當り前の事を學んだ。例へそれが、世界的な普及率を誇るOSに對して、だつたとしてもだ。私個人を識別し、行動を記錄し、分析し、共有して、彼らが望む何かを私や世界に提示するのが(仕事や趣味や福祉などの)體驗を賣る(得る)ための條件だ、と言ふのなら、私は拒絶して良いのだ。すると、私は不便を被る事になるだらう。他者との間に體驗の格差があるだらう。それは私の選擇だ。そして彼らの選擇だ。

實際のところ、個人情報を全く必要としないか、極限まで削ぎ落した狀態で(サービスなどを)利用できるにも拘らず、一部の企業は最大の要求をする――私には、とても高い「買物」だ。私は個人情報を極力必要としないサービスを選び、又そのやうなサービスを必要としてゐる。