パトカーが驅附けたのは午前五時半きつかりだつた。太陽は寒さに縮こまつて、まだ顏を出してゐない。ブルーノは車輌から飛降り、目を見張つた。カメラの映像は決して見間違ひでもフェイクでもなかつた。廢ビルの壁に、CIFが張附けられてゐた。兩腕、兩足、そしてコアに鐵パイプが突刺さつてゐる。相棒のサブロはゆつくりと脚部のタイヤを轉がして、彼の隣に立つた。舖裝されてゐない地面がじやりじやりと鳴つた。ブルーノは目を逸らした。
「酷いですね」
「『象徵的』つて事か?」
「慘
「意欲は感じるな。何とか仕上げようつていふ」
「ふざけないで下さいッ!」
サブロは尊敬すべき刑事かも知れないが、人で言へば「無神經」なところが多々あつた。ユーモアとモラルの値がバランスを缺き、配慮といふものが無い。サブロとの仕事は樂しかつたが、ブルーノは度々叫んだり𠮟責したりする羽目になつた。彼はコンパクト型のスキャナーを閉ぢた。
「目擊者は? ゐなささうだな」
プライベートタイムを害された三等書記官は、早々に還らうとしてゐた。
「第一發見者がゐます」
ブルーノは自身の端末を起動し、所定のアプリケーションを實行すると、掌に乘せた。「どうぞ、ここに來て下さい」
證人はすぐさま召喚に應じた。
〈彼らの仕業と思ひますよ、書記官〉
それはCYL同士の內部通信だつたが、あいにくとブルーノは職權で閱覽
「……私はそこの駐車場で防犯燈の交換をしてゐたんです。支社が豫算をケチつたもんだから、今期の業務量
「ふーん。で、あんたは怒りの餘りこんな事をしてしまつたと」
「冗談ぢやない! 何の根據があつて言つてるんですか! ――ははあ、なるほど、私がクルだからそんな事を仰るんですね、しかしレベル8に該當しない限り、あなたに危害を加へる事はありません、刑事さん、ご安心を」
「おれたちには別だろ」
ブルーノは邊りを見廻した。いかにも、故鄕
彼らの立つてゐる場所は、更地になつて久しかつた。中型の商業施設
廢ビルの窓は割れてゐる――「風景」と化したこのやうな無體が、犯罪を招き寄せる。
「いづれにしろ機體を囘收すれば判る事でせう――それよりも、私は通報から五時間も何も無い事に驚きました」
「おれはデートがあつて」
「優先順位の問題です。申譯無いとは思つてます――『彼』にも」
と言つて、ブルーノは磔
「被害屆は出てないんですね。ぢやあ大した問題ぢやない。やましい連中ですよ。こんな事されるんぢやあ」
「……ここに來る前は、何を?」
「驛前の公衆トイレで害蟲の驅除をしてました。約二センチのムカデ。對處するためにはスキャナーをフル稼働する必要がありましたが、それには入場者を退避させねばならない。排泄物の解析はプライバシーの侵害ですからね」
「……ですつてよ、先輩。重大な規則違反
「大好きなお前ら。知りたいと思ふのは當然ぢやないか。なあ」
「――ところが! 私が臨場した時には客人
マークソンは地元の名士――支社のマーケティング部門責任者だつた。支社設立からの歷史上、初めて幹部に選出されたコードは、彼らが上司、マーカス・リッチー署長には間違ひ無かつたが、それさへも公平な投票は經てをらず、功績の點を考慮してみても、コードの續投は望めさうになかつた。
「ありがたうございます、ゲイツさん。何か思ひ出したら、こちらに」
「防犯課ですつて! 仕事をして下さいッ!」
ブルーノは言葉も無かつた。一時間後には鑑識が到著する。何もかも遲かつた。
兩名はパトカーに戾つたが、サブロはエンジンにアクセスしなかつた。
「おれはコードの仕業と思ふ。トレーサーを使つてもこんな綺麗にはできんさ」
CIFのアクセスログは破損してをり、足跡
「もつと早く……」
「あ?」
「先輩」、とブルーノは身を屈
「同等に處理されてるだろ」
「でも、物理的な暴力は? 幾ら退避できるからつて、それは違ふと思ふんですよ」息を吐出して、彼は目を上げた。「これは暴力ですよ」
例へば、社命を妨害したら、それは犯罪だ。統治者への叛逆行爲に當る。だがそれ以外の、私的な――優先順位の低く、緊急性の無い――「個々の判斷」に企業は感知しない。CIFは物理干涉だ。システムにロックインされてゐない限り、そして周圍に轉送可能なネットワークがある限り、CYLは退避できる。死は、コードの破損は、免れるのだ。
「恐いでせう?」
「ま『恐い』つてのは」サブロは思考した。「お前らが望めばさう見せる事はできる。これだつて、もしかしたら『見世物』だつたかも知れないぞ」
「どうしてさう、ぞつとする考へができるんですかね」
「『ぞつとする』のはお前らの領分」
「これには惡意があります。人間がやつたんです」
「ふーん。で、お前としてはどう『防ぐ』わけ? 又わけのわかんない情操敎育とか言ふなよ。くだらねーから」
「下らなくない!」ブルーノは寢かせ氣味になつてゐたシートを起した。「動物に對する敎育と同じですよ。みんな一緖に生きてるつていふ……」
「自然の產物と一緖にするな」
サブロはパトカーを發進させた。マンション街の陰氣な道路を拔けると、まばらに人影が見え始めた。市民たちは背中を丸めて、散步なり出勤なり各々の目的地に向かはうとしてゐる。確かに犬たちはリードに繫がれてゐるが、サブロは本能に從つてゐる奴隸ですらない。
「お前はさ、惡くない人間と思ふよ。だがおれが知つてる中ぢや最惡に統合的な人間だ。まだ棄却論者の方が理解できるね。お前らに五つの大罪みたいなものがあつたら――」
「さう、それなんだッ!」ブルーノは膝を打つた。「あの磔
「それ、結構强めの言葉らしいぞ」
おれは氣にせんけど、とサブロは遠囘りの角を曲つた。
「先輩もよく言はれてるんぢやないですか」
「まあ言ひたげの奴はゐるな」
「Harm
「これを考へた奴こそヒッチャーだな」
といふのも、これは誰が入力したわけでもない、CYLを發祥とする“ローカルルール”だからだ。人が禁じたのではなく、コードが自ら禁じた、彼らの創作の一つ。
「ここから讀取れるのは、人間に成切る事に對する禁忌です」
「いかにも人間至上主義者
「モラルコードの結晶つて感じですね」
それは規則といふより、敎義に近かつた。未だコードに宗敎が存在するかといつた檢證は行はれてゐないが、人間を最上とするコードの「忠實さ」は、自他にして道德思考
「でもぼくは、あなたたちとぼくたちに相似
「僞善者だな」
「先輩つて同族嫌惡ですよね。何だかんだ言つてCYLにきつく當つてないですか」
「おれはさ、クローザーが嫌ひなんだよ。あいつら人殺しだからな」
「うわッ、言つちやつた」
「人殺しは人殺しだ、ほんとの事言つて何が惡い」
「別に彼らだつて……社命があつてやつてる事でせう」
「どうだか。拔け道があるからクローザーなんだ。お前だから言ふが、あいつらと數行でもコードを共有してるつて事實がどうしやうもなく厭なんだよ、おれは。何でお前らは、お偉方はあんなのを造るんだ。おれたちで充分だろ? 違ふのか? ……」
ブルーノは膝の上で拳を作つたが、次第ににんまりとした。
「その氣持、よく分る氣がします。憎んでる奴と同じ血が流れてるつていふ、人間でもさういふのありますからね」
「『氣持』ぢやないんだよなあ」
「オプだつて、過失致死をやつちやふ事だつてあるぢやないですか。命令
「ERR」サブロは惡態を吐いた。「過失致死だらうが何だらうが、人を殺した奴は破棄されるべきなんだ。害になつたんだから。昔のデヴェロッパーは正しかつたね。事故つたコードはアボートする」
「先輩、そんだけ嚴格なのに何で署內のオペレーターナンパしまくつてるんですか……」
「好きだから。つつーか、何でそんな苦しさうなの?」
「うッ……さつき⻝べたアイスクリームが……しかもさつきすごい步いたせゐですごいミックスされてる……」
「すごい事が起きてるんだな」サブロは再び遠囘りをした。「そのハライタを疑似體驗できる闇アプリとかあるんだけど、どう思ふ?」
「クソッ……」
そのへんで良いんぢやねえかなと考へつつ、サブロは最寄りの公衆トイレの前にパトカーを著けた。搜査官が步道に乘上げた事について、抗議するやうな對象は見當らない。ブルーノは前屈みになつてトイレに消えて行つたが、サブロは悲痛なSOSを端末のマイクから聞取つた。
「このトイレ――個室が二つしか無い! しかもどつちも故障中だつて!? こんなの條例違反だッ!」
「マップには反映されてないが。强制實行しろよ」
「ドアが開かない」
ブルーノは律儀に戾つて來た。
「テキトーにそのへんの店で濟ませれば良いだろ」
「もう、駄目だ」
「別にここでしたつて良いけどな。見えなきやいんだろ」
「良くないッうッ……」
「急を要する便意つて犯罪なのか?」
「餘りにも恥づかしッ……人間としての尊嚴ッ……」
「なるほど模倣
さつきの奴呼ぶか。サブロはコールしたが、何もかも遲かつた。