2024年振返り

感想

COMITIAに參加すると決めてからが活潑。妄想が「形」になるつて面白いし樂しいんだよね。見切り發車は多いんだが、「申込む」といふ、實現化に向けた動きはできた。あとは原稿次第笑。

326シリーズの短篇集を作らうと頑張るが、サイボーグものが入つて失速した感じはある。やつぱり「書きたい」事ぢやなかつたのかな〜。未推敲の原稿には現實(現代)ものもあるので、「息拔き」にちよつと完成させたい氣持もあるんだよね。

イベントのために何かする、つてのが怠い。「普段」の延長線上で活動したいが、それにはコンテンツが無い。「君ちん」の名前で公開濟作品を竝べても良いが、いづれにしろ「刷る」といふ作業が必要になつてくる(できたとして「完配」する保證がどこにある!?)。ワープロに入力するのが本當に不毛で、やるとしたらLaTeXを習得してからだなと思つた。さうしたら自動化できるから。そんなGUI的な、非效率な“努力”しなくて良いから……

サークル參加つて遲筆にはきつい氣がするが、別に參加の度に新刋出すつていふルールがあるわけぢやないからね。モチベーションと見榮の程度。問題は、參加の度に面白い事できるかなつて事なんだよ笑。ただ既刋竝べるだけつて詰んないよな〜(持歸る可能性はゼロにしたい)

參加者として

作品の感想を書くのは難しい。P&Rには一行だけつて人もゐるし、さらつとで構はないんだけれどね。

サークルの設營(展示の仕方)については不滿しかないので、そこは自分自身で“最善”をきはめていきたい。何度も書いてゐるが、スペースに配置番號やサークル名が揭示されてゐないのは異常だ。流通の妨害

漫畫

漫畫を描いてみて思つたのは、描いてゐる人は天才つて事だつた。繪(描寫・畫面構成)の才能、言葉の才能、デザインの才能、ストーリーの才能、總合的な能力が求められる。傍から見ると簡單に見える話や繪も、いや、「眞似」できないと思つた。「タダ」では描けないのだと。小說は誰でも書けると私は考へるが、漫畫はぐつと難易度が上がる(自分の畫力に評價を下さないなら、描ける人、描く人はぐつと增えると思ふ)。しかし、とにかく、描き上げた時は嬉しい、樂しい笑(小說と同じで、「完成」するまでがきついと感じる)。

J.GARDEN

J.GARDENにサークル參加するのは、完全に諦めた。JUNEやBLを自稱するものを書くのは、私には無理だ。定義を意識し過ぎ、「書きたくもない」事を書く事になる。

2025年(以降)、したい事

祈り

私は全く、人間として未熟であり、依然として偏見と傲慢のあるままの人間だつた。姿形や見方の異なる人々を「人間」として捉へる事ができないのだ。それが私の理解の限界なのか、いつか理解のできる事なのか、又理解の必要のある事なのか、いづれにしても、私は漠然と、無理解が減ずる事——その人の中で思索が生ずる事——を願つてゐる(痛みや哀しみが全く無い世界を願ふ事もできるが、さうすると、私たちには「學ぶ」餘地が無いんぢやなからうか? 良い事と惡い事の區別も無くなるんぢやないか?)。

人類そのものが發展途上である。いや、存在總てが發展途上なのかも知れない。氣附かない速度で變化してゐるだけかも(「進化」か「退化」かといふのは、人間の主觀だらう)。ある意味で、愚かに見える大衆われわれありのままなのだらう。その答へを知る事はできず、旅は續く。

メモ

病氣や自覺症狀の捉へ方について惱んでゐたのだが、上記を加味すると——かなりの短期間で診斷が下される事もあるが、それは暫定でしかなく、診察や治療の過程で問題・原因・對策は明るみになつていくのだ、といふのが私の今出せる答へだつた。特に精神疾患について、一度や二度の對面で判る方が不審だらう。さう、時間を掛ける事でしか對應はできないのだ。肉體的な疾患であつても、診斷とは推測の積重ねに過ぎない(可能性が高い病氣に當りをつける)。それがこの年の大きな學びだつたかも知れない。

醫師に不信や憤りを感じる事もあるが、相性の良い醫師が誤診をする事だつてあるし、さう考へたら——醫師も「人間」だと捉へたら——喧嘩腰になる必要は無いと思つた。ただ、長く附合ふなら、附合ひ易い人の方が良い笑。幸ひにも我々は醫師や病院を選ぶ事ができる(狀況が許せば)。しかし最終的には、限界、つまり絶對的な醫療など存在しない事を知るのが、慰めになるのではないか。

ゴールは分らないけれど、目的(治癒や輕減)のために、とりあへずスタート(診斷)を切る。さう解釋すれば良い。方向も道程も方法も、變り行くもの。