コミティアの思想を傳へる事、サークルと讀者の交流(Push&Review、サークル NOW!など)は大事ではあるが……
資源を消費して本(頒布物)を作る以上、頒布(そして思想を共有)できなければ意味が無いといふ氣がする。會場にゐるのだつて大量のエネルギーを消費するのに——考へれば考へる程、出展活動が無意味どころか害惡な氣がしてならない。私が消費したエネルギーを上囘る“貢獻”ができない事は、確實なのだ。いや、それは測定不能だとしても、希望が持てない……
紙との鬪ひを考へる度に、このやうな文化に加擔してゐて良いのだらうか、と思つてしまふ。
以前から考へてゐる通り、スペースには見本誌を1部だけ置き、本文はURLで案內するといふ形にするか。コミティアが「展示のみ」を認めるならさうしても良い。
あるいは、1部から刷れる印刷所を選んでゐるわけだし、無頒布ではないにしても2部づつで良い氣がするなあ(見本誌も提出できるし)。全く、私は、自分のしてゐる事に責任が持てない。ただ參加したいといふ慾だけで、貴重な資源を貪つてゐる……「創作活動」とか「自己表現」とか言つてみても、地球の死を早めてまでする事ぢやないんでね……それも人間らしいつちやらしいが、そんなオチで終らせたくはない。
私の思想信條では目的の頒布數に到逹できないといふなら、規模は縮小すべきだ。“擴大”なんてとんでもないだらう。
151での賣れ行きにもよるが、次囘發行豫定のサイボーグ物に關しては、2部の持込にしようかな。賣れる氣がしない。私自身が小說を讀まない人間なので、1萬字も超えると「煩雜」な氣がしてしまふ。
SF系人外、それが好きな人は確實にゐるのだが、宣傳がかなり限定的な事や、(漫畫中心のイベントで)小說である事、それをクリアしても正字正假名遣ひつてのがどの程度(潛在的な)讀者に影響を與へるかが、豫測できない。それとも私の考へ過ぎだらうか……(日常の讀み書きに支障が無い人なら、大抵は讀めるのだ、字體に馴染みが無いかも知れないが、文脈で推測はできるだらう)
宣傳に關しては滅茶苦茶に樂觀的で、「今のまま」でも問題無いと感じてゐる。會場で目立ちさへすれば、どうにでもなると思つてゐる。SFジャンルといふ配置の選定、「人外」といふ明確なワードで、私は理想とする讀者に橋を架けたのだ。
noteは、設營に關する情報收集には中々便利な媒體だつた。幸運にも、私の環境で讀めるのである(それが普通であつて欲しい事は言ふまでもない)。一方で、かうした「交流」サービスに關はらなくて良かつたと、改めて實感できた。記事を公開する度に“反應”を通知されるとしたら、私はをかしくなる自信がある。