讀ませたければ「見せる」

關聯:スペース設營と頒布方法の思案

A3〜A2卓上ポスターを利用する

正字正假名遣ひ愛好家以外がどう正假名を捉へてゐるか、全く豫測できない。だが、大多數の人は、正假名遣ひで書いた現代の文章を讀んだ事が無い想像ができない。だから、「見せる」必要があると思つた。「注意」とか「警吿」ではない、「見せる」。本文ありのままで判斷してもらふ。本文1ページを、そのままポスターにする

字體や假名遣ひの事が無くつたつて、そもそも、本は「手に取」つてもらへない。素通りするのが普通だ。でなくても、どうやら、多くの人は「試し讀み」する事に抵抗があるらしい(嚴密に言へば、買はずに立去る事が。私は慣れたが。「ありがたうございます」とさへ言へれば良い)。

漫畫は、ぱつと見でも幾らか判るが(それでもB5以上にしてくれとは思ふ)、文章はさうでない。故に、漫畫以上に喧傳する必要がある。なぜ、文章サークルはポスターを活用しないのだらう、なぜ、本文を「見せ」ないのだらう。繪の方が目立つのは言ふまでもないが、だからつて文章を曝さない理由にはならない。間違ひ無く、我々が見せようと、買はせようとしてゐるのは文章なのだ。無いよりはあつた方が確實に良い。

そしてポスターの隅つこには(できるだけ大きく)スペース番號を揭示する事。これは必須。

A2でも充分に大きいやう感じられるが、いや、これも「近附いて」見るものなのだとやつと自覺できた。人々は通路に立止れない。混雜してゐたり、時間に追はれてゐたりするからだ。ある程度速めのスピードで步き、人を避けながら、そして人に遮られながら步くのだから、當然、視界と注意力は限定的になる。サークルは彼らが探してゐるものを見附けるための「助け」を出してやらねばならないが、どうだらう、如何にサークルが獨り善がりの展示をしてゐるか。展示も表現の一形態だが、スペース番號とサークル名だけはきちんと揭示しろといふのだ。

私が通路から流し見する時は、手前の机上しか見ない。「前面」は勿論、背後や卓上のポスターなど目に入らない。表紙かポップかで內容が判斷できなければ、それで終りだ。

意義があるから「できる」

單に「宣傳のため」と考へると、このポスターといふのは鬱陶しく感じるのだが、「必要な情報を屆けるため」——殆どの人は正字正假名遣ひに觸れた事が無いから、「警吿」なんて揭示しても無駄だ、本が開かれるのを待つなんて無駄だ、見せてしまはう——と具體的に考へると、途端にやる氣が滿ちてきた。やつぱり意味の無い事なんてできないんだな、と强く感じた。要するに、私はサークル經驗者のやり方を、思考停止狀態で眞似ようとしてゐたのだ。

敷布は利用しない

固定する方法が思ひ附かない(市販の固定器具はあるが、机の厚さは同じ會場であつてもまちまちで、しかも壞れ易いといふので、斷念した)。机を傷附ける事だけが心配だが、それは樣子を見ながら對策していかう。

文学フリマで100部売るために、気をつけたこと、気づいたこと。その3。|履歴書籍/こぐま書房に、布の主な役目は1ブース出店の際の、隣接サークルとのスペース区分の表示。とあつて、なるほど、と思つた。それは重要な事だ。參加者全員に必要な認識だ。スペース番號の次に揭示しなければならないものだ——なぜ今まで氣附かなかつたのだらう。

敷布を敷いてゐても、それだけでは明示した事にならない。例へば、「黑や紺、茶の無地」は無難な柄として時折推奬されるが、一方で、それは他サークルとかぶり易いといふ事でもある。假に、隣接するサークルが同じ色・柄の敷布で、頒布物を竝べるだけの展示をしてゐた場合、一般參加者にはスペースの境目が認識できるだらうか? どちらがA01aなのかA01bなのか、それとも地續きの合同スペースなのか、區別する事は可能か? 隣接サークルにスペース番號やサークル名を明示するやう呼掛ける事もできるが、「できない」と言はれたら? あるいは、揭示があつても目立たなかつたら?(無いよりはマシであるが)

そのやうな事を考慮すると、「境界の明示」は必須だと思つた。スペースが把握できないのは、番號が見えづらいのに加へて、範圍が判らない事も多大に影響してゐるのだ。そこで、境界線のシール(A3の長邊がちやうど机の奧行になる、矢印とスペース番號を記載する)を考へてみた。机を折半するのは「こ25b」とである。メジャーなどで測つて幅に間違ひが無い事を確認した後(隣接サークルにも確認してもらつた方が望ましい)、自スペースの內側に貼附ける。「こ24b」とは机が異なるが、ぴつたりとくつついてゐると一般參加者には判らないので、こちらにはスペース番號を貼附けた「看板」「ポスター」を揭示する。加へて、机の前面にはスペース番號・サークル名の張紙をする。

まあ、實際一般參加者がどう見るか、見えるかは判らないので、試行錯誤・創意工夫しながらといふ事になる。

机の前面(机上の下、通路側)は「情報提供」に過ぎない

机前面は宣傳ではなく、情報提供であるべきだ(良い宣傳は情報提供に他ならない)。讀者にとつて有益な情報を揭示する。ここには誇張や曖昧さ、主觀があつてはならない。事實があるのみだ——スペース番號、サークル名、作品形態(漫畫・小說等)、ジャンル、年齡制限など。

履歴書籍の記事を讀むまでは、「向かひのサークルに對しての宣傳になる」などと思つてゐた。反省したい。

實感として書添へておくと、前囘、第二十七回文学フリマ東京(2018年11月25日開催)に參加した時は、机前面にカレンダーの裏紙を貼り合せたポスターを貼附けてをり、これが切つ掛けで聲を掛けてもらへた事が多々あつた。目立ちはするのだ。勿論、スペースの配置、會場の混雜具合にもよるだらうが。

頒布物は1〜2種類

机上の展示物がA4〜A3だと、肝腎の頒布物が1〜2種類しか置けなくなつてしまふが、それで良い。4種類以上になつて來ると、買はせる氣があるのだらうか、と自問する必要がある。机の面積に對して欲張り過ぎてはゐないか(足らなければ、ケチらず複數スペース分申込む)。リピーターにしても新規にしても、買ふ數など知れてゐるし、「滯在」できる時間が限られてゐるのが展示卽賣會だ。選ぶにも頭を使ふ。ただでさへ疲弊してゐる參加者を、更に消耗させる合理的な理由があるだらうか。

今囘(連作短篇)は補足として用語パネルを置き、次囘(流れのある物語)はあらすぢを置く豫定。すると一册一册を叮嚀に、といふ事になるが、寧ろこれがまともといふ氣がする。頒布(サークル)は說明不足のくせに、試し讀みするだけの餘裕すら會場には無い。私は必要な情報を明示しなければならないし、明示したいのだ。

「用語集」はそれ程煩雜としてゐなければ私は面白くて好きだ。作者の自意識が强過ぎるものは好まないが、基本的に「氣になる要素」を引出せるので好き。字體・假名遣ひも見せる事ができるし。「遊び」の要素を入れたい。

最も重要なのは、イベントの「規定」を守る事

規定を守らない展示は、存在を許されない。コミティアで言へば、展示物のはみ出し、高さ(床から2m以下、ラックは卓上から80cmまで)、什器の固定、そして、忘れがちであるが、出展者の顏が見えるやうにする事。だからスペース半分を占用するA2のポスターには抵抗があつた。身體の幅との兼合ひもある。

「展示」も世直し

かうして、展示について色々考へを巡らせてゐると、頒布物が一册も賣れなかつたとしても、私のやつて來た事は無駄でない、と思へて來た。工夫が樂しいし、何より私は展示を改善したいのだ。これだけ歷史を積重ねておいて、この展示といふのはまるで進步してゐない。なぜこれ程に苦しい想ひをして會場を廻らねばならないのか、私には理解できない。

まづ、「私」が見えるか

私はいつも「自分には見えるだらうか」と自問してゐる。だからパネル(簡潔な情報)はA4以上だ。とてもではないが、A4の「お品書(込入つた情報)」や、册子本文と同じポイント數で書かれたポップなどは讀めたものではない。近附かなければ、そして近附いても讀めないものを、私は忌避する。全く親切でないと感じる。讀ませる氣が無いのだ、と。

展示はコミュニケーションである

それは、私たちが書いてきたものを物質化する機會である。注目に價する訴求そきうする機會である。「世界觀を守る」ために口を閉ざしてきた私たちが、「共通の言葉」で語らねば通じ合へぬと、現實を知る機會でもある。世俗に、手垢に塗れた言葉を遣ふ事の、何と屈辱的な事だらう?

あたかも、揭示の字の小ささに、作家の矮小な心が顯れてゐるやうでもある。しとやかに、さりげ無く、無名の人である事が、我々の密かなたのしみなのだ。

一方で、遊びに來た我々は、何かを探してゐる。人に揉まれながら、苦しみながら、何かに觸れる氣でゐる。恐らく、小さな字に氣の附くその人は、やはり矮小な、愼み深い心を持つてゐるのだ。踏潰せてしまふやうな。

私はこの苦しみから解放されたいので、同じ言葉を遣ふ。大々的に揭示する。さうして、大衆に話し掛けてゐる。