オフライン活動の感想と撤退理由

手向け

COMITIA152には出展する。といふのも、この記事を完成させて、氣持の整理が附いた時には、キャンセル申請期間が過ぎてゐたからだ(私が「闕席」を厭ふのは、第二十七回文学フリマ東京イベントレポートにも書いた)。時既にお壽司。まあ良い。展示のみでも良いらしいが、せつかくだからこの記事と、豫定通り短篇小說を發行する。もう容赦はしない。元が取れる値附けをする——と思つたが、地球と買つた人が餘りにかはいそ過ぎるので、やはり「展示」のみとする。原稿はWebで公開する。紙で讀みたい奴は自分で印刷しろ。こつちは「在庫」を抱へる義理なんてねえんだ。

精神的ダミーサークル

私は何で書いた物に値段を附けて頒布してゐるんだらう? さうだ、頒布する必要なんか無いんだ。ただ、そこに坐つてゐるためには、ティアズマガジンに載るためには、何か頒布しなければならないから、さうしてゐるに過ぎない。精神的ダミーサークルといふかね。本當に馬鹿みたいな話なんだが。

寶籤

私が「やりたくない」事をやらない結果なら、私は構はない、と言つた。でもやるべき事をちやんとやつて成果が出ないなら、そして滿足できないなら、さつさと「諦める」のが悧口だらう。どうにもならないものはどうにもならないのだ。

コミティアに來る人たちは、誠實な人々なのだらうけれど、彼らの每日見る媒體がTwitterだのPixivだのと考へた時、もう、終つた、と思つた。理想の讀者なんてここにはゐやしない。私と同じ言葉や、考へを持たない人たちに話し掛けたつて仕方が無い、だらう? springは「寶籤lottery」と喩へたが(The Small Internet)、まあ、そんな感じだ。そんな當ての無い寶籤にだ——それこそ——幾ら投資できるか、つて話だよな? 時間と? 金と? 勞力を?

ただ「作家のポーズ」を取るためだけに數萬圓を「犧牲」にする。幾ら金の問題ぢやないつて言つてもな、限度がある。それが「惜しい」と思ふなら、私はそこに「値打ち」を認めてゐないのだ。

リスクを負ひたくない

卽興詩にしても、刷つた物の在庫にしても、私にそのリスクは負へないし、負ひたくない。それが率直な感想。緊張して舞臺に立ちたくないといふ氣持の方が勝る。

「在庫處分」

會場の皆さんには「在庫處分」を背負はせようとし、實際、買つた人には背負はせてしまつた。その直後は嬉しかつたが、それはきつと重荷が輕くなつた安堵だつた。自分が刷つてしまつた責任に對する。今はただ、詫びるしかない。

私は、自分が何をしてゐるか理解してゐなかつた。今もさうで、なぜ金を拂つて狹苦しい席を豫約し、たかだか數千字の掌篇を刷り、他人から金を分捕つてまで「頒布」したかつたのか、その理由すら解らない。そこに道理は無かつた、それだけは判然としてゐる。

他人の時間と注意と、金まで奪つて、一體、私は何をやりたかつたんだらうと。自慰どころか糞尿にも等しい物を「讀ませたかつた」のか? それすらも違ふのだ。(斷つておくと、これは自分を卑下してゐるわけではない。誰だつて排泄しなければ生きてはいけないのだ。そして時折、藝術的なウンコに滿足する事だつてある)

「賣る」

「賣る」からには、かう……「この物語で人を感動させたい」とか「共感してくれるファンが欲しい」とか「これ(得意な事)で生計を立てたい」とか「作家のポーズを取りたい」とか色々あるんだけれども、私には無かつた。作家といふポーズを取るためだけにこんな苦勞して金まで出せるか! といふのが本音だつた。

「これぢや割りに合はない」とぞつとしたからな。「いや、皆樂しいつて言つてたし、賣上あつたし……」と言つてみても、虛無な感じは消えない。まあ、思ひ上りだつたわけだ。他人にも自分にも期待をし過ぎた。本を作つたからと言つて私が愛想の良い人間になるわけもないし、ましてや注目が與へられるわけもない。この邊りについては、私自身が他人に無關心な人間だからよく解る。注目は、そこに責任が伴はなければ、氣味の惡いものだ。

これだけ多くの人間が金を拂つて、他人から金を取つて「讀ませたい」物があるといふ事に驚いた。「こんなに好きな事に打込んでゐる人がゐるんだ!」つてな希望にはなるんだけれども……

漫畫も小說も好きでない、何なら人間にも興味無い

商業でさへそんな感じなのに、まして同人なんてな。買つた本だつてぱらぱらつと見たら廢棄してゐるし、それどころか開いてゐない事だつてある。とてもぢやないが「魂の握手」なんてできないし、したくもないと思つてゐる。こんな人間がコミティア出ても……つてのは昔から言つてたが、實際參加してみてもさうだつた。他人に興味が持てない人間は「參加」などできない。私は誰ともコミュニケーションできないのだ。

投稿サイトの時にも思つたが、自分は他人の作品を讀む氣が無いのに、自分の作品だけ讀んでくれ、といふのは不公平だ。イベントつてのは「コミュニティ」で、コミュニティつてのは相互參加だ。他人の創作物を無視するつてのは、自らの創作物も無視するつて事だ。コミュニティが育たない。私も「義務」から讀むのは嫌ひなので、やはり讀み書き(他人にも關心を持つ)が好きでないと、コミュニティを繼續するのは難しいと考へる。「讀み專」「書き專」つて言葉があるが、後者は自分の業界(コミュニティ、ジャンル)にも關心が無い人間だ。單なる口下手もゐるだらうが、大抵はコミュニケーションを望んでゐない、コミュニティには相應しくない「メンバー」である。この人たちはコミュニティに愛情もメリットも感じてゐないので、ルールが變らうと、トラブルが起きようと、自分が活動できる限りは何もしない。稅金は拂つてゐるが投票には行かない。そのやうなメンバーの比率が多くなると、コミュニティの在り方を檢討できず、體制が弱體化する。個々のメンバーは變らず活動できるだらうが、能動的なメンバーはメリットを感じにくくなつていく。——コミュニティの意義そのものが失はれていくといふ點で、「參加者ではない參加者」は害になるのだ。だから小さな組織は人數を制限したり、役割を分擔したりして能動的に關はつていく機會を增やしてゐる。「相互の參加でなければ生きてはいけない」といふ事を自ら實踐、敎育してゐるのである。

一般參加も同じであり、もてなされるだけの「お客」として参加することは出来ません。といふコミティアの態度は正しい。「一般參加者」の名稱が形骸化してゐるイベントは幾らもあらう。サークル參加者と一般參加者が同等の地位とすれば、雙方に金錢的負擔を求める事は道理である。「プロになれないならやめろ」とサークルに言つてみたり、サークルメンバーの容姿を點數化したりしてゐる人たちは「參加者」ではなく「見物人」である。入場料の徵收さへ不名譽な事だ。それを納めるだけで形としては「參加」できてしまふ邊り、「意識の向上」を圖るのは難しい課題だ(サークルもサークルで、「購入者」なら誰でも有難がつてしまふ傾向がある)。

參加する理由が無かつた

サービスのアカウントと同じで、「何に遣はうかな?」と考へてゐる時點で不要なのだ。「ただやつてみたかつただけ」氣附けた事が成果。

寶籤2

私は定期的に「挑」むやうな事はしてゐるが(小説家になろう、エブリスタ、短編)、いつも諦めてゐる。私自身が飽き性つてのはあるが、やはり認めてくれる人間がゐない、つてな事でやる氣が減退してしまふのだ笑。極論すると「私の藝術を理解できる人間がゐるのか?」つて話で、まあゐないんだらうなつてなる。それこそ、又「寶籤」の話になつてしまふ。だから私は降りる。この場合の「籤を買ふ」つてのは他人に對する期待や、投稿行爲(に係る一切の勞力)を言ふ。自分のために書いてゐた方がずつと樂なのだ。

ビジネス

ビジネスが「人を助ける事」だとすると、(私の)藝術で救ふのは無理ですねつてなる。私は私のために書いてゐるからだ。それが人を救ふ事はあつても、私は他人を救ふために書いてゐるのではない。そこが「商賣」とは本質的に違ふところだ。他人に認めさせたかつたら、自分が變るか人が變るかしかない。少なくとも「共通の言語」を持つてゐないと話にならない。——そんな事考へられるか! 知るか!

「喜んでもらへたら」なんて! 馬鹿か!

「讀んで頂きありがたうございます」なんて言ひたかねえ、糞が

「同人活動良いよ」

知人にしろ見ず知らずの人にしろ、「交流」が發生しなければ、イベントは疲れるだけで損だ。「會場で會ひたい人がゐなければ參加する意味は無い」つて說には大反對するつもりだつたが、實際、自分の氣持を掘つてみると、それはその通りだ、と認めざるを得なかつた。孤獨は堪へる。孤獨は總てを蝕む。インターネットの良いのは、人の視線を程好く遮つてくれるからだ。

なるほど、プラットフォーム民が挫けないのは「憧れの人」「フォロワー」に會へるからなんだと染み染み思つた。

皆が同人活動を「良いよ」と奬めはするが金が掛り過ぎるし、自分の書いた物にわざわざ値段を附けて(紙に刷つて)渡す意味が解らねえ。しかも在庫を抱へる恐怖まで背負つて? 割りに合はねえだろ。

「讀まれて初めて完成する」とか「報われる」とか言はれても、全然そんな感覺が湧いて來ないんだが……あるいはもう(反應が無い事に)慣れてしまつて擦れたのかもな。大體、好きで書いてるなら書いてる時點で充分報われてるだろつて……お前何のために書いてるんだよ……。「自己表現のため」? いや……自分を痛め附けておいて「報われる」つてどんなマゾヒズムだよ……

無反應が良い

私がこの七年間、Webでの活動を續けられたのは、單にサイト作りが好きつてのもあるが、一番には「極端な反應が無かつた」事があると思ふ。人間の性として反應には反應してしまふものだし、過去を振返つても、私は「動搖」してしまふ性質なので、「無い」事の方が却つて良かつたのだ。現實として、「感想が無くても續いてゐる」。故に、「感想が無いからやめます」と消えていつた人たち、「讀み逃げ禁止」と怒りを募らせてゐる人、「感想下さい」とフォームへリンクしてゐる人の事は、全く理解できなかつた。反應を欲して惡い事は無いが、ただでさへWebで小說や詩を讀む人は少ないのに、感想など書かうといふ人はもつと少ないのだ。それこそ「趣味」の域だらう。そんなに欲しいなら知人に「お願ひ」するか、報酬を拂つて依賴すれば良いのだ。感想を欲してゐるその人だつて、アクセスしてゐるサイト總てに感想を寄せてゐるわけではないだらうに。

サイトつてのはサーバーさへ稼働してゐればいつでも鑑賞できるし、更新してゐなくたつて良い。金もそれ程掛らないし(未だに最安プランだ)、身體を動かす必要も、人に會ふ必要も無い。「放置」して、單純に「續いた」といふ結果がある。オフラインはさうはいかない。外に出て、誰かに會ひ、質量のある何かを机の上に乘せなければならない。出展料は高いし、備品も必要で、一日にできる事は限られてゐる。

「無名の人に勇氣附けられる」、といふ點ではずつとだ。忘れてしまつたけれど、その時々で、勵まされたり落込まされたりしてゐる笑。リンク集はその一部だ。Jintrickさんは昔からROMつてゐる“ブロガー”だが、これだけ面白い事を書いてゐて、本當に「ただ書いてゐる」だけの人だから感心してゐる。私もただ正しい事をしよう、と思へる。

獨占に腹が立つ

私はほとほと「作家」といふものに愛想が盡きてゐる。連中に「共有する」といふ槪念は無い。人々を操作し、依存させ、圍ひ込むのが作家の生き方だと言ふなら、私はそれを拒絶する。商賣のやり方としても、コミュニティの在り方としても、不健全だよ。

勿論、私は拒絶して活動できるが、周りがさういふ作家ばかりだと彼らにもその讀者にも共感できないし、何より腹が立つんだ。同じ場所にはゐられない。

何でこんな事までして讀ませなきやいけないんだらう

ぼーつと突つ立つて賣れるの待つのきつついし退屈だし……賣子を傭ふ事もできるが、作品を理解してゐない人に賣らせるのが誠實かつて言つたらな。やつぱり「弘める」つて點で私には無理だと感じる。「弘める」つてなつた時點で痛みが伴ふ。

作品を他人に說明できないし、したくないといふか、口が遣へないから作品でコミュニケーションしてるつて部分はある。

といふか、讀ませる必要性を感じてゐない

「弘める」

「弘める」つてのはさ、他人の時間と注意を奪ふといふ事でもあるからさ……それだけの覺悟のある者だけがやつて欲しい、私が「客」だつたら笑。さう考へると、「できない」と思ふ。疲れるし面倒臭い。

でかい口叩かなきやいけないつてのがストレス。「他人の關心集めてどーすんの?」つてのはある。他人のために書續けるなんて御免だつてな。それは私のための書き物です

他人に認めてもらひたかつたら戀愛でもしろ

心から愛せたら、それが人生だよ