「性別の有無」はネタバレ/「性別は無い」事が重要

J.GARDENに出展しようか、と又惱んでゐた。それ向けに新たな掌篇を書いてみても、結局、「(キャラクターの)性別の開示はできない」、それ自體が「ネタバレ」である、と感じる。そのやうな物語を書いてしまふ。

JUNE・BLの解釋が多樣とは言つても、そのイベントに、そのジャンルに出展した途端、私は物語の解釋を一つ狹めてしまふ。勿論、どう解釋しようと讀者の自由だし、パブリックドメインであるから、作品を何も弄らずに、BL系のジャンルに出展・配置する自由が人々にはある。一方で、作者である私には、物語の展開を操作する自由がある。だから、いざ出展しようとすると、「できない」と思ふ。「してはならない」と思ふ。

性の「推測」から始まる「否定」

平素から性別にこだはるな、その槪念から解放されろ、と言つてゐるが、にも拘らず、私は性別を氣にし、囚はれてゐる——私にとつては重要な槪念だからだ。

私が書いてゐるのは、「物」だつたり說明のしやうの無い謎の槪念だつたりする。それらが人語を話すと、擬似的な「男」「女」に見えるかも知れない。私はそれを樂しんでゐるのかも知れない。だが、「性別は無い」事は私にとつて重要だつた。それが「男つぽい」とか「女つぽい」とか認める事は何を意味するのだらう? 「〜しろ」といふ命令口調だから男つぽいのか? 「〜だわ」といふ“女言葉”を遣つてゐるから女つぽいのか? 騎士だから? 子供を產んでゐるから? それは結局、言動とジェンダーを一致させようとしてはゐないだらうか。結局、性別の無いものに性別を著せようとしてはゐないだらうか。

「性癖にブッ刺さるものを書けてゐればそれで良いぢやないか」と言はれるかも知れない。半分は頷け、半分は否定する。私たちは自分の好きなものしか書けない一方で、表現された事はどこかで「思想」とリンクしてゐる。

「性別は無い」を貫く

Agonal CODEからは、私からは、「性別は無い」ものをあるやうに振舞つて出展する事はできない(キャラクターが「あるやうに」振舞つてゐるならともかく)。

「人間のコスプレ」に感じたやうに、性別が無いと(あるいは獨自の性形態があると)私が知つてゐるのに、人間の基準に照らして「男」「女」と二極化する事は、私には堪へられない矛盾だ。

解釋を守り、人外の地位を守る

讀者が二極化する分には全く構はない。その人にはその人の解釋が、世界觀がある。ある意味では「どうとでも取れる」書き方を私はしてゐるかも知れない。それが物語の伏線だつたり、解釋の違ひから來る微妙な味はひだつたり、單に私の趣味だつたりするだけだ。「ネタバレ」且つ「人外」の地位を保證するもの。

愛好家と「握手」できるか

JUNE・BL等「屬性」「關係性」が主軸のジャンルといふのは、「性別」が重要になつてくる(でなければ、「ボーイズラヴ」と呼稱する意味が無い)。「愛好家」はそれ目當てで、あらゆる犧牲を拂つて會場に來るのだから、その期待に應へる作品を提供できなければ不誠實だらう。少なくとも、自分がさうと言へるものを。

だから私は辭退するのだ。

好きとこだはり

私は性別が無い人外が好きで、性別が無い事が魅力で、それにこだはつてゐる。