關聯:觸心
「どうやつて稼ぐか」つてのはこつちの都合で、問題は「どうやつて人の役に立つか」だ。
「お金下さい」「評價して下さい」つて「感想下さい」と同じだからな。「あなたは何かしましたか?」つて言はれるとムカつくが、實際、「評價」する文化を育てるか、「評價」せざるを得ない何かをするしか無い。
人の注意と時間と財產を持つて行くには、責任が伴ふ。
皆だつてカツカツで生きてるんだ、お金と時間は大事に遣はなければならない。
それはコミュニケーションだ、「氣に掛ける」といふ事なのだ。
「總てを公開する」つて言葉をそのまま實行したら、料金と引換へに物語を開示する、つてやり方はできないと悟つた、今になつてやうやく、その事實を認める事ができた。私が——「作家として生計を立てよう」と思つたら、私は、人々が金錢を差出すのを待つしかないのである。
私は個人に對する寄附が嫌ひだし(他に適切な寄附先があるだらうと思ふ)、物乞ひ的な行爲も卑しいと思つてゐて、だからファンディングサービスを利用してゐる作家は厭らしいと捉へてゐたのだが、いや、この方法でしか、作家は稼ぐ事ができないのだ。私が本を買ふと言ふなら、作家に拂つたつて本當は良いはずだ。でもどうせ拂ふなら、自由文化作品を支持してゐる作家が良い。コミティアに參加してゐるサークルで、自由文化ライセンスを採用してゐる作家が幾らゐると言ふのか。
ファンディングサービスの利用は、Stallmanが言ふやうに、寄附のやり取りをする人間を第三者に漏らすデメリットがある。
自分でリブレな決濟システムを運營する事もできるが、それにしたつて、インターネットを介す以上は匿名でない。
いづれにしても、サービスの多くは(寄附する側の)登錄が必須だつたり、JavaScriptの實行が必要だつたり、サードパーティリクエストがあつたりと、私は不滿だ。ファンクラブサービスはコンテンツの投稿やサブスクリプションが前提になつてゐる。
私は昔OFUSEに登錄してゐたが、これも酷い過ちだつた。まづ、メッセージが運營者に漏れるといふ視點が無かつたし(まあそれを言つたらメールもなんだが、セキュリティやプライバシーに觸れてゐない邊りに、運營會社の輕薄さを感じてしまふのだ)、當時は自由ソフトウェアといふ考へ方こそ無かつたが、不自由なスクリプトを自ら實行し、讀者にも推奬してゐた。結局のところ、不自由なツールが何を害ふかと言つて、それは利用する人々の自由と信賴だと思ふ。私を信賴してリンクを辿る讀者を、傷附けてしまふといふ。故に、私は私を義理立て、嚴密に監視する必要がある。
實名を明かしても構はないなら、石井ゆかりのやうに、銀行口座を公開するのが妥當な氣がする(その人の現狀はどうか知らないが、昔はカンパを受附けてゐた)。
そんなわけで、私は出展會場で、直接現金を受取るのだ。そのためだけに出向くのは、全く奬めないが。
お金を受取らないと讀んでもらへないつてのは惜しい。「自分(の書いた物)にはそれだけの價値があるから」と言聞かせてみても、違和感は拭へない。いや、良いのだ。あなたが拂つても拂はなくても、物語はここにある。私は阻んだり拒んだりしない。あなたがどんな態度を取らうと、私は書續ける。あるいは公開し續ける。そしてパブリックドメインに捧げる。だから、あなたは何も心配しなくて良い。
「お金を拂はなきや渡しません」、といふのは完全に欺瞞だつた。拂つても拂はなくても良いなら、私は無料で渡すべきだつた。
實際のところ、本當に「評價」してもらへるのは、讀んでからだ。だらう? 私ですら「買つて」もらへるんだから、殆どの人は作品を買つてもらへる。作家業は營めるんだ。だが、本質的に人に盡さうといふ時、「賣る」「買ふ」といふやり方ではアクセスを狹めてゐる事になるし、小說のやうな長い讀み物に關しては、「前拂ひ」になつてゐる事にも著目すべきだ。それは期待値であつて、評價ではない。
パブリックドメインの場合、お金のある人に本を買つてもらつて、內容が良かつたら弘めてもらふ(無料で讀めるやうに共有してもらふ)といふ手もあるが、囘りくどくはないかな。それだつたら最初つから無料だつて良いと思ふ。
ただ、紙の本に關しては、資源を多く消費してゐるわけで、それを無料で頒布するのは、更なる、安易な利用を促しはしないかと、私は心配してゐる。プラスチックの買物袋だつて、たつた一圓や二圓節約するために、多くの人々が行動を變へてゐるんだ。今時、紙を無料でバラ撒くなんて、不誠實で(地球への)恩義に缺けた行爲ではなからうか?
多くの作家は隱したコンテンツで讀者(支援者)を釣上げ、雙方はそれが作家の商賣の仕方だ、と學ぶ。私も無料のコンテンツで寄附を募つてゐる作家を見ると、「金が欲しければ有料で提供すれば良いのに」と思ふ。が、實際自分が金錢を稼がうとすると、とてもではないが隱せない。隱す事の方が損失だと感じる(買はれなかつたら讀まれないのだ! クローラーもアクセスできないのだ!)。私の使命は、オープンで、誰もがアクセスできる作品を提供する事だ。だから、多くの作家とは異なる道を步む事になる。拂つてもらつたから盡すのではなく、盡したから拂つてもらふのだ。しかし、その對價ですら任意である。公共に屬すとは、條件を課さないとは、さういつた事を指す。私にとつては賭けでも何でもない。人が勝手にやつてゐる事に金を拂ふなど馬鹿げてゐると言つたら、あらゆる奉仕、アマチュア活動は存在しなかつた。金は拂はれても良いのだ。(とは言へ、「賣る」つもりも無く書いた物に値段を附けるのは、躊躇はれる。請求するとしたらば、書籍化に掛つた苦勞だけであらう——實際、出展活動においては、書籍化は「商品化」でもあつたのだ、私にとつて)
恐らく、私が抱へてゐたプレッシャーはそれだつたのだ。讀者が價値を判斷しかねる物に金錢を請求する、といつた。
昔は「金に困つてゐないから」といふ理由で金錢の受取を拒絶してゐたが、私だつて自分のしたい事で生活できたら、と常々思つてゐる。ただ、そのロールモデルが無いために右往左往する羽目になつてゐるのだ。本多信一さんは無料の相談業を本業としてゐる人で、コンサルタント業や執筆業は副業だと記してゐた。知つた時はこんな人がゐる事に驚いたし、羨ましくも思つた。それが正しい、無難な在り方なのだらうが、あいにくと私には、他に關心事があつても、仕事にできるだけのスキルが無い(身に著ける氣も無い)。だから困つてゐる。
私の出した答へは、藝術では稼げないといふ事だつた。私自身が個人への獻金を躊躇つてゐるのに、自分はもらはうだなんて、矛盾してゐるし、不公平だ。つまり私は作家に、創作以外の勞働を强ひてゐる。それは自分にも返つて來てゐる。だが、なけなしの金を捧げるなら、效率的な救濟に捧げるべきだらう? 確かに、自分の才能で稼いだ金で奉仕する、といふ手もある(收入の殆どを寄附に廻してゐる作家も存在する)。しかし……現實的な問題として……個人へ獻金するとして……どう……? 誰に……? 應援したい作家などゐるのか……? 私にはそれが不思議に思へてならない。私が手にしてゐる本を書いた作家は、ずつと遠くにゐる人だ。ブロガーは大抵、面倒臭いサービスに登錄させようとするか、得體の知れない何かを「クリック」させようとする。その殆どは、私が拒絶してゐる何某かの實行を伴ふ。救ひなど無いやうに思へる。「無料は無料だ、必要なら請求して下さい」と言つてしまひたくなる。
「私自身が、金を出さうと思へるか?」
その點から言ふと、全く。だからやつぱり、私は請求できない。自分好みの人外小說が賣つてゐたら、買ふが、無料で公開してゐたら、讀むだけで終ると思ふ。捧げられる金があつたら、私は救ひを必要としてゐる人に、捧げたい(藝術に觸れる事すら、創る事すら許されてゐない人が澤山ゐるのだ)。
「無料は無料でない」事は理解してゐるつもりだが、それでも、私が獻金するとしたらプロジェクト(組織)單位だ。そこに屬してゐる皆が、安心して盡せるやう、祈つてゐる。
總論すると、私は作家に、傘(コミュニティ)に入れと言つてゐるのかも知れない。各々に改善したい關心分野はあるだらうから。
例へば、GIMPやKritaで描いた繪の收入で、GIMPやKritaに寄附できたら、それは素敵な好循環だと思ふ。私が考へてゐるのはさういふ事だ。だが——その繪は、誰もがアクセスできるべきだと考へる。「考へる」といふか、單純にさう「したい」のだ、私は。
ソフトウェアが獻金可能なら、その成果物に獻金する事は、何らをかしくはないだらう……恐らくは。私はWebで文章を書いてくれてゐるあらゆる人に禮を言ひたいが、一人々々に金を配つて囘る事ができないのも事實だ。
大事なのは、金の行き先を明確にする、といふ事だと思ふ。確かに、作家だらうと何だらうと、收入で飮んだくれる自由はある。だが、政治家や警官や慈善團體の職員がそんな有樣を敢へて公開してゐたら、どんな氣持がするだらうか。さう、私が言ひたいのはさういふ事だ。作家は自由業であると共に、公職である。ある時代、ある所の藝術家にはパトロンがゐたが、故に、藝術家は獻身的に働かねばならなかつた。富を與へるに價するかどうか、見定められるのは當然である。恐らく、私がだらだらと日夜を過ごせてゐるのは、收入と私とが切離されてゐるからである。
自分の才能で働くといつた時、それは公職になる。收入——與へた者の信賴——に對して正しい行ひができてゐるか、自分を見詰める責任があるのだ。
何が妥當かと考へると——LaTeXが使へないうちはコピー誌を刷り、無料で配り(在庫を抱へるのが恐いから・頒布を優先した結果)、獻金を募る。
「同人で⻝つてく」事を目標にしてゐる人もゐるが、私は「自由文化で循環する」事が目標といふか、過程といふか、スタートラインだ。單なる「循環」だけなら何とかいけさうな氣がする。百圓二百圓なら獻金してくれる人もゐるだらう、といふ根據無き自信があるのだ。私一人が「⻝つてく」事に關しては、特に目指してはゐない。それは途方も無い事と感じる。私にはそこに到るまでの道が解らない。
商業にしろ同人にしろ、繪描きや物書きだけで自立したい、といふ人は澤山ゐる。だが、私にはよく解らない。書續けた先には何があるのか? 結局、ジュリア・キャメロンやナタリー・ゴールドバーグのやうに、文章講座か何かを開いて、書く事以外で、書く事に關して人々を助ける羽目になるんぢやないか、と思ふ。つまり——循環(奉仕)だ。確かに作品を創つてゐても循環になる。必要とする人がゐれば。でも、いつか、物足りなくなるんぢやないか? 自分の生活だけでなくて、もつと大きなものや事に貢獻できるんぢやないか? と私は思つてゐる。「⻝つていく」と言ふ時、どこか切實で、儚げだ。勿論、生活が成立たなければ、貢獻もできないのだけれど……
なぜ稼ぐのか、つてのは酷く漠然とした話だ。商品價値が、出展料が、印刷費が、生活が……殘念ながら、そんな事では、私の心は動かなかつた。何とも、面白くない。面白くない。赤字を出さずに活動する、それはそれで立派な事だが、どの道補塡できるだけの額を稼げないとしたら、益々やる氣が殺がれるだけだ。しかし、少額であつても、前向きな遣ひ道があるなら、わくわくできる。私が樂しいと思へる事! やつてみたかつた事! 素敵な事! 自分が「正しい」と思へる事に。(イベントや印刷といつたサービスとの差異は、自由ソフトウェアが無料且つ自由に捧げられてゐる點にある)
稼ぐ意味が解らないから、喜べもしないし、欲しもしない、といふのはある。ただ作家の見榮を張るためだけに値附けをしたり獻金を促したりしても、氣持が惡いだけだ。やはり意味のある事をしたい。私の情熱がどこからやつて來るか、神と人々に吿白し、感謝したい。
一部のPubnixは完全に寄附の受取を拒絶して「貢獻」や物々交換で活動してゐるが、どうしたつて金の問題は附いて囘るのだ。金が掛つてゐない(サーバーの保守だけで濟んでゐる)やうに振舞ふのは、長期的に見て誰のためにもならない。ドメインやサーバーを次代の管理者に引繼ぐのでさへ、その金錢的負擔や權利について、「實際的」な問題を引起してしまふ。「金錢」の槪念を否定する政治思想があつたとしても、「現實にどう對處していくか」は示すべきだ。あるいは、「現狀」がその表れかも知れないが。
私は、アルコホーリクス・アノニマスの獻金ポリシーにびつくりした憶えがある。一言で言へば、彼らは當事者の獻金しか受附けない。その家族、友人、醫師からの獻金さへ拒絶してゐるのだ。
AAはどのようにして維持されているのか:長い年月をかけて、AAは財政面で完全に自立するという伝統を確認し、強固なものとしてきました。メンバー以外からは、寄付を求めることも受け取ることもしていません。日本では、AAメンバー個人からの献金は年間30万円までとしています。
立派な事だと思ふし、金が掛るといふ「現實」と上手く折合ひを附けてゐると思ふ。金錢的自立について、文句の附けやうが無い。そして、回復したいと願っている人はどんな人であっても拒んではならない
といふ緩やかさがありながらも、傳統を嚴格に實踐、檢討してゐる。
藝術つてそんなに必要とされるものなのか? 解らない。こんなに作家がゐて、その全員が⻝つてけるつてどんな世界なんだらう。もつと勞働時間が短くなつて、裕福になつて、精神的な成長が促されてゐる世界、だらうか。想像附かない。でも「顧客」を增やしたかつたら、各々が讀書に時間を割ける世界作りをする必要がある。「待つ」だけではなくてね。待つてゐたら死ぬ。面倒臭いから、大衆が讀む物を書くといふ商業的な作家も存在するが。
“ジェネレーター”は既存の文章のフィルターである。その質には磨きが掛つていくと言ふけれども、果して「上質」とか「低質」とか決めるのは誰なんだらうか。基準は何なのだらうか。「金になる」事を基準とするならば、ジェネレーターはポルノを出力せざるを得ないんぢやないだらうか。人間と機械の區別が無くなつていく。一度しか無い、今は貴重な過渡期だ。後年の人々は、機械と話す事が普通になつてゐる。人間が書いてゐるといふ事の方が「をかしい」に違ひ無いよ。
まあ、それでも書くんだけれどね。なぜと言つて、書く事は面白いからだ。娛樂(快樂)なので人々は書く事をやめない。それは確信してゐる。
COMITIA152サークル參加に關して、展示のみにしても、有料で頒布しても、獻金を募つても、私は鬱になると思ふ。大體、その場限りの欲求で始めてしまつて、最終的には何もしたくないといふのが、私なんだね。何をするにしても答へは自分が決めなきやならないし、責任を負ふし、考へなくては、そして感じなくてはならない事が多過ぎるんだ。全く參つちやふね。他人は樂しんでゐるのにね。どう樂しめば良いのかが解らない。創作をどう捉へて良いのかも解らない。ただ、パブリックドメインで配信する、つて事だけは決めてゐる。
解らなくても良いし、何もしなくても良いが、皆と同じになれない、といふのが多分、辛いのだ。一方で、同じ事をして堪るか、といふ抵抗はある。私にとつて「間違つた」やり方、あるいは「できない」やり方だからである。ぢやあ何も考へたり感じたりする必要は無いではないか。理窟の上ではさうだが、人間つてのは厄介な生き物でね……
東京に、行きたくない。一人でぽつんと坐つてゐたくない。金の話なんてしたくない。頒布物の「賣れ行き」なんて知りたくない。知るか。糞が。
本質的にこれはオナニーの話である。「稼ぐ」も糞も無かつたな。
誰に賴まれたわけでも、義務でもなしに、なぜ「出展」しなければならないんだ? 馬鹿々々しい!
やつぱり「稼ぐ」云々の話は僞の欲求だな。死に對する本能的な恐怖に過ぎない。どう說伏せても鬱(噓)になる。
稼ぎが何圓だつたとか、賣れたのが何部だつたとか、そんな事はどうでも良いんだ、そんな事はね。樂しくもない事を敢へてやる必要は無いつて話なんでね。「手渡し」で「嬉しい」なんて思へるのは、精々心の許せる相手だつた、といふだけの事なんだ。値附けとか獻金とか、在庫とか、宣傳とか、「書く」事と關係無いぢやないか。私の仕事ではない。出版はインターネットで完結してゐる! これ以上何がある?
上記の通り、「やる」「やらない」の波が烈しい事は明白だ。敢へて修正せず、流れのままに殘す。COMITIA151の申込前後は、本當に參加したくて、苦しくて仕方無かつた。だからやつて良かつた。やつてみなければ、ずつと未練を抱へたままだつたらうから。如何に自分が商賣に向いてゐない人間か解つた。「原稿を見せたら喜ぶだらう」とか「この原稿で挑戰したい(反應を知りたい)!」とかいふ氣持はあつても、出展のハードルが高過ぎた。自他に期待をし過ぎた。
「見えない」だけで、私と同じやうに一度の參加で「同人活動」から手を引いた人間は澤山ゐるだらう。だが、それで良い。時間も金も心勞も掛るのだから、心を鎭めて、又明日から書けば良い。自分を勞れるのは、自分だけである。書く事はいつでも、正直な氣持を、照らし出してくれる。
私は文章の正直さには自信があるが、具體的に何らかの職に就くといふ事に、全く自信が無い。といふのも、恐らく、その仕事の仕方には「納得」できないからだ。それは例へば不自由なソフトウェアだつたり、閉鎖的な出版の仕方だつたりする。私が納得できる「出版」は、私にしかできないのだ。だから、私は書くのかも知れない。
答へが出ない、つて事は、今のところ、私にとつて「稼ぎ」とは生活する以上の事ではないらしい。答へが出るのかは、神のみぞ知る。