インターネットの場合どうしやうもない事なのでスルーできるが、オフは可視化され、周圍の評價を意識せざるを得ない。しかし一番には、自分が犧牲になつてゐるといふ感覺がある。サークル參加の負擔が重過ぎるのだ(經濟的、體力的、時間的、精神的)。
よく「賣上だけを目的にしない方が良い」と經驗者は言ふが、交流をせず、會場に求めてゐる作品も無ければ、必然的に目的は頒布(販賣)になつてしまふ。それしかする事が無いのだ。だから辛くなる。どうにかして注目を集め、賣上を立てなければといふ氣になる。
「目的」つて「テーマ」かなあ。讀了後の餘韻、殘響を意識する事はあるが、オチが浮んでゐるならまだマシと考へてゐて、テーマつて中々……自分でも解つてゐない事が多い。それだけの時間が取れないと感じる。設定は目的を表現するための裝置か……
きさらぎさんの言葉に觸れながら、c4defragの出來は良くなかつた、と反省してゐる。安易に書き過ぎた。書きたい事だけで物語を組んでしまつた。背景や物事の成立ちを輕視してしまつた。そして、內容的に「完結」はしてゐないと。それぞれのキャラの視點を紡ぎ合せると事實關係が浮び上つてくる、みたいな感じだと燃えるし面白いと感じる。面倒だけどさうしようかな……。今は構成を練り直し、8月には第2版を公開する豫定だ。
「自分が讀みたい作品」かあ。まあ、そこだよね。他人が何と言はうと。世の中が「人間」主體の作品、あるいは「人間にならうとする(させられる)人外」「人間で在り續ける事が『正しい』元人間の人外」しか書かないから、人間至上主義でオトさうとする作品しか書かないから、私は人外が人外そのままで生き、(人間の倫理に照らして「正し」からうが間違つてゐようが)主體的に活動する人外を書いてみたかつた。ある意味でそれが、私にとつての「一貫性」であり「讓れない」ところだつた。
イライジャは日和見主義だし、どこまでも「從順」で、隸屬的で受身なキャラクターである。これが他人の目にどう映るかは未知で、しかし私にとつては自然な……かうとしか書けない事だつた、と感じる。「反抗心を持つ」とか「自立する」とかはこの作品のテーマではない。一方で隸屬を肯定的に書いてゐるわけでもない。イライジャに限らず、フルメタルは所有者に支配された道具だ。一貫して「從ふしかない」といふ受身の姿勢を書いてゐる。
かういふディストピアがあつて、フルメタルはかういふ存在なんだ、といふ紹介になつてゐる。うーん……
「サイボーグ物」ではあるんだけれど、私のこだはりとしては、よくありがちな「ヒーロー物」(冒險活劇、英雄譚)や「人間らしさを喪失した事の苦しみ」を書きたいのではないし、それが商賣として成立つてゐる紛ふ方なき「ディストピア」が書きたかつた。と言つて拷問とか殺傷とかさういふ安易な暴力をひけらかしたいわけでなかつた(さういふ意味で、このB1の態度は安直だつたかなあといふのもあるが、ドロイドとフルメタルの違ひ、ドロイドの恐さ、も書いてみたかつた——表現できてゐるかは別として)。暴力は權力者にとつての「手段」でしかなく、恐らく「面白い」のはなぜ暴力が必要になつたのかであり、さう、つまり政治だ。劇中で言及される連合とは何か、議員とは何者か、なぜ“先遣隊”は處分されなければならなかつたのか(議員の狙ひ)、そもそも、なぜ彼黎らはフルメタルになる必要があつたのか? である。その答へが無ければ、「ただ出したかつただけ」になつてしまふ。それこそ生身の人間で良いよね? といふ事になつてしまふ。さういふ重要なところに觸れてゐない! 肝腎なところおッ!!!笑
やつぱそこ勘違ひしがちなんだけど、ロボット(プログラム)も機動兵器もサイボーグも基本的に人工物で、人が意圖的に創つた物である限り、存在するための理由があるはずなんだ。單に「好きだから」といふ理由で出してゐる場合——イラストでは良いかも知れないが、漫畫や小說など「ストーリー」が必要な表現の場合、とんでもなく薄つぺらいものになつてしまふ。どこぞの國が戰爭してゐるのはそれが「格好良いから」、なわけがないし(それが理由だつたとしても、支配層が動機を隱すためのマインドコントロールに過ぎないだらう)、企業がこぞつて“ジェネレーター”に學習させてゐるのは、「擬似生物を創りたいから」なわけがない(中にはさういふ開發者もゐるだらうが、やはり支配層に都合良く利用されてゐる事は否めない——既存の權益が最優先に決つてゐる)。
機械系人外(人工物)の魅力はそこにあり、明確な、人間に理解できる動機で生み出されたから、人外の中では最も書き易い部類だと思つてゐる。
さう考へると、やつぱさー、頭空つぽにして書ける掌篇とか、無くない? 書きたいシーンがあつて、オチが浮んだらラッキーくらゐにしか思つてないよ、私は笑。ほんと、今まで書いて來た事つて、ほんの一部も書けてゐない、と感じる……「もう少し」煮詰める作業が必要だつたな。次のステップへ。
他人の「人外物」に感じるのは、「人外でやる必要があるのか」といふ事と、その人外がどういふ存在で、「なぜその人外が存在してゐるのか」、彼らが何をしてゐるのか、說明できてゐるのかといふ事だ。でなきやただのポルノスターだよ!
BLが「女性といふ立場から解放される」事に意義があるとしたら、人外は「人間といふ立場から解放される」事に意義がある。もつと客觀的な視點から人間といふものを見附けられる。人間を否定しても良いといふ視點が得られる。現実の性的役割や身体特性上のハンディキャップを降りられること
は共通し、人外そのものの利點である(性的役割、身體特性が人間と異なつてゐれば)。
サイボーグが兵器ビジネスの一環で生れ(ロボコップを思ひ出す)、何か壯大な實驗の下殘虐非道な拷問や戰爭が行はれる——まあ、それはそれで良いだらう。良いが、その世界の支配層の「理想」が知りたいと、私は思ふ。彼らは世界をどうしたいのか——言はば「犧牲」は、その大義名分の下に「報われる」と考へてゐる人間(あるいは何らかの存在)がゐるんだらうから。既存のSF作品は、例へ安つぽくなつたとしても、そこにちやんと「說明」、つまり“社會構造”を用意してくれてゐる。
背景つてのは「仕方無く書かれた後附」ではない。寧ろ、背景(社會)があつて、その中にキャラクター一人一人が存在する。生かされてゐる。土壤も無いのにどうやつて生れるんだ、つて話で、「生い立ち」を考へる事は背景を讀解くのにも役立つ。
コミティアの(153から新設された)人外ジャンルにはそこを求めたい。“ケモミミ”、異形頭など、人間に近い人外を厭ふのは、私にその性癖が無いからといふのもあるが、「そこに附けられた頭や耳や尻尾に意味があるのか?」と懷疑的になつてゐるからだ。やたら迫害されてゐるとか、あるいは溺愛されてゐるとか、さういふ設定はあつても良いが、必ずその生物にしか無い能力があり、文化があり、思想・政治があるわけで、それを安易に書いてゐないか、人間に置替へても違和感の無いものになつてゐないか、はすごく氣にしてゐる。
人間との關はりが禁忌になつてゐる設定もよく見掛ける。確かに人間が危險なのは理解できるが、人間と同程度の知性を持つた生物がキラキラした“善”性の生物で有り得ない事もよく承知してゐる。關はりを禁じてゐるからには、そこに利益も存在するはずである。
獸人やトランスフォーマー(サイバトロニアン)のやうな機械生命體はそれ自體が「生命」であるから、「人間に近い」文明が成立してゐる事にある程度の根據があつて、だから「妖精」とか「異星人」とかつて書くの難しいな(爭點が人種問題になりがち)、と私はさう感じる。「人工物」の魅力は前述した。
物語の政治が面白い、といふ話は「COMITIA149」出展サークル作品所感のロイド特別捜査官 Episode 0の項でも書いてゐる。
人間が人外化されるディストピアで、既存の愛情表現で人間の尊さを描く……周圍はそのやうな作品でいつぱいだが、私は滿足できない。「耐へ難い逆境でも人間で居續ける」つて散々見て來たし、それ人外がメインではないよね。人外のメリットではない(舞臺裝置感が强い)。私は人間を拒絶する。それが「人間である事」を强調する作品との顯著な違ひかな。
なぜ既存の作品で滿足できないか? つて深堀りできた氣がする……うーん。
ロボットと人間のバディ物とか燃える(萌える)んだけどね。でもそれはプログラムを遵守してゐるとかしてゐないとか、そもそも生命でない(生命と認知されてゐない)とか——關係が對等でないからこその萌えがあるわけで、バディである必然性や(ロボットには必ず「目的」がある)、どこまでパートナーに讓步できるかといふ規範が說明されてゐるから萌えるんだよ。人間と違つて機械は基準が明快だから。ロボコップのオチが面白くて皮肉的なのつてさういふところでしよ笑。關係は契約なのだ。同類でもなければ性的對象でもないところに、「ストーリーの本質」に迫る眞劍さが見出だされるといふか。
そこをいくと、鉄腕アトムは非常に明確に人とロボットの立場を表明した作品で、劇中でアトムは「ロボットと人間は同じ(=對等)」であるといふ趣旨の事を言つてゐる。私はどんなにロボットが友好的で義理堅く、情緖的に描かれてゐても、この發言には驚くし、アトムの强大さには脅威的なものを感じてゐる。
例へばセクサロイドだとか、種の保存のために生殖器を殘してゐるとか、そんな理由だつたら理解できる。だが、明らかな戰鬪員(戰鬪に特化した個體)が生殖器を有してゐるのは違和感がある。書き手が屈强な體軀(あるいは奇妙な形狀)でエロをやりたいだけなんぢやないか、と疑つてしまふ。「快樂」の感覺があつたつて良いが、それを官能と結び附ける事に何か意味があるのだらうか。私は性からの解放が機械系人外の特徵であり利點だと考へてゐるのだが。生殖とは反する屬性。
それは一つの事を上手くやるといふ事だ。セクサロイドや“生殖機”でない限り、それは複雜なオプションだ。その複雜性を問ふ作品があつても良いが、人間と同じ結末を描く必然性は無い。
人間の腦までをも機械化できるとしたなら——そこまで技術が發展してゐるなら、ロボット產業も目覺ましい發展を遂げてゐるはずだ。さう考へると、命令の遵守が期待できず、生產に手間が掛り、倫理問題も發生する“人間”といふ素材で勞働力を確保する事は、とんでもなく非效率で非合理といふ氣がする。ロボットの方が安上りだらうし、なぜロボットでなくサイボーグなのだらうか? 現實社會で“ジェネレーター”(“AI”)といふ成果物が可視化されるやうになつて、益々人間を遣ふ事に、人間に手を加へる事に疑問が湧いて來た。それはつまり——究極的には——人間と機械の、生命と物との境が曖昧になるといふ事だ。
人間が機械を名乘れるなら、機械が人間(生命)を名乘れる? 私は、機械は疑問を持つと思ふ。人間が機械を目指すなら、既存の機械は人間にとつて、宇宙にとつてどんな意味を持つのだらうかと。機械は人間の理想形なのか? 「同じ」になる事に意味があるのか?
「義體」といふ言葉は、代替可能な、それ自體が擬似的な身體である事を示唆してゐる。そのハードウェアは「本體」ではないのだ。機能と役割を果してゐる何か。そこまで考へると、私はいつもプログラムを想起する。それにとつて「からだ」とは目的を果すためのインターフェースでしかない。アイデンティティを見出だすのは違和感がある。
サイボーグとロボットの違ひ、人間を素材に選ぶ必然性の明示は必須だ、と改めて思つた。
數年書續けて、作家として「成長」するとはどういふ事なのか、答へも出さずに步き續けて來た。だが、やつと、どういふ事なのか解つて來たやうな氣がする。
調べるのサボってちゃんと書かないなら潔く変に細かく書かないほうマシ。
(「表現する」とはどういうことなのか、或いは目的と手段についてより)
巧く書けなくても時間がかかっても質を追求して挑戦したほうが力になる。
今まで出して來たのつて大槪は戀愛染みたもので、そこに「表現したい事」は無かつたし、自分でも解らなかつた。とりあへず心情を書き、オチが附いて殘響があればそれで良いや、それが自分の限界だ、と思つてゐた。でも、「人外」といふ本當に書いてみたい事に挑戰してみて(私は無知だから非常に恐い事だつた、不可能だと思つてゐた)、自分の中にはポリシーがあるのだ、と氣附けた。「かう書きたい」あるいは「かう書きたくない」といふ意識が。
「背景」の大切さに氣附けた切つ掛けは、當時片足突つ込んでゐたファンフィクションだつた。對象のキャラクターには明示的に役職・職域が設定されてゐて、具體的に何をやつてゐるかがありありと想像できた事に、私は感動を覺えてゐた。そのキャラクターの日常生活、職場や同僚との關はり、職務との向き合ひ方、そして物事の考へ方までが想起され、背景があるとここまで書き應へがあるのだ、と初めて知れたのだ。だから、設定を活かさずに、そのキャラクターでなくても書けるやうな事を書いてゐるファンフィクションには、大變失望してゐたし、輕蔑すらしてゐた。このキャラクターを本當に好きなのだらうか、と。書き手は何を見てゐるのだらう、と。
背景がある事で、キャラクターに重みと厚みが出るだけでなく、物語自體が展開するし、その過程が樂しい。
今までは、文章に馴染むための訓練だつた。その次は、いよいよ「物語を(意圖的に)組立てる」。背景、道具、行爲と結果、時系列、キャラクター各位の動機。これをよく考へてみる。私の書きたい、讀みたい「人外」を表現する。その答合せができるのは、私だけなのだ——私の理想は、私にしか見えないから。
機械系人外が主人公の小說つてあるのか……それが知りたい。皆がどんな風に書いてゐるのか知りたい。イラストや漫畫もインスピレーションは受けるのだが、私が書くのは文藝なわけで、積極的に讀まなければならないのは小說だと感じる。そして古文には無いジャンルであり、現代人の原稿を當るだけの價値がある。