この生を永久に生きる

關聯:人生の目的を定める

何がしたいのかと言ふと、結局、「記錄に殘りたい」ので、Wayback MachineとかGitとか納本制度を賴るのだが、納本するためには紙の「本」を出版せねばならず(eデポがあるのは知つてゐるが、納入對象外になる可能性は高い、既にアーカイヴサービスを利用してゐるわけだし)、私は凝りずにインターネットだけでなく、オフラインでも「出版」しようとしてゐる。ただ「納本」するためだけに出版するなんて利己的だし、「讀者」を蔑ろにしてゐる事は百も承知だが、それでも、一度きりしかない人生の殘り時間、私が絶對にやり遂げたい事があるとしたら、それなのだ。

なぜ自分のために書いてゐて、“同人”界隈も嫌ひなのに、何度もサークル參加が浮び上つてくるのかといふと、やはり(作家として、作品と共に)公的な記錄に殘りたいからなのだ。私は死にたくないのだ。死にたくない……結局、それが作品のテーマになつてゐるかと思ふと、笑へる。スリルやセックスを求める事もできたが、私は不死を渴望した。

印刷所を通すなら纏まつた原稿が必要だし、一作一作はネットにアップすれば良いだけの話だ。私は單に、“待てない”のだらう。空白のカレンダーなど見てゐると、發狂しさうになる。しかし原稿には向かはずに、何か無駄な事をしようとしてゐる……そこを抑へて、手と頭を動かさねばならない。

總ては安心感に掛つてゐる。それが私をはやらせ、苦しませる。どこで發表するにしろ、本を出したいなら、書くしかない。書くしかないんだ……すぐには手は屆かない。

2025年6月8日:後書

不誠實ではあるが、これを逃したら絶對に後悔するので、私はやる氣でゐる。

金錢は徵收しない。なぜと言つて、私にメリットが全く無いからだ(頒布を遲らせるファクターにしかならない)。といふか、徵收する理由が無いc4defragの後書で言つてゐた印刷費云々は、頻繁にコピー誌を頒布するとしたらの話で、纏まつた原稿をオンデマンド印刷する分には、何の問題も無い。それだけで、私の目的が逹成できるのだから。そもそも、頒布する理由が極めて利己的な上に、協力してくれた人間に印刷費まで補塡させようとするのは、酷が過ぎる。

意味合ひは異なるが、なぜ好きで書いてゐるのに報酬を得ようとするの?といふジュリアの言葉がやつと身に沁みて來た氣がする。藝術では稼げないといふ氣附き(作家として稼ぐといふ事)、商業を蹴つて自己出版してゐるプロがゐる事(What I've Learned in 10 Years of Zen Habits——Leo Babautaは私が活動する遙か以前から著作權を抛棄してゐる作家だ)、などから、段々と私の“やりたい”事、言はば「限界」が見えて來た氣がする。

私は私の假說を後押しする思想や論評を探さうとするわけだが、さう簡單に見附かるわけもない。同じ“フリーカルチャー”を志すとしても、一人一人の道を「正しい」と念押ししたり、認めたりするシステムは無いのだ。自分で自分の感覺を、自分のしてゐる事が正しいと信じる勇氣が必要である。LeoはHow I Conduct My Businessで、unixdigestもStop submitting to social conformity and use your brain insteadで言及してゐるが、自分が正しいかどうかは、自分でしか檢證できない。そして、もしかするとそれは、世界の“主流”に反するかも知れないのだ。

正氣を保つて步いて行くには、餘りに私は弱過ぎる。だが、少ない友(これには死者も含めるとしよう)と、太陽と、まだ輝き續ける美しい(あるいは醜い)ものとで、私は書續けてゐる。

いや——全く——「當り前」と化した事の力といふのは强いので、何の縛りが無いにも拘らず、私は私のしてゐる事を疑ひ、誰に問はれてゐるわけでもないのに、言譯で頭をいつぱいにする。その點、商業主義が强いのは、利益を至上とする事に理由が要らないからだ。誰だつて金が欲しい。誰だつて永く生きたい。その本能剝き出しの慾が、人間を戰慄わななかせる。しかしフリーカルチャーだつて充分に貪慾で——私にとつては——實用的だ。さうぢやなかつたら、何の利益も無かつたら、私は何に魅了され、ここまで時間の投資をしてゐたらう? 人間の持つ最大の資力を? 私は眞顏で「金のためだ」などとは言へないが、「自分のためだ」とは言へる——說明になつてゐないかも知れないが。私が、かなりの無意識でアクセスしてゐる情報、その藝術の總て、その寛容さに驚き、助けられ、生きる原動力になつて來たからこそ、自らもその無限のアクセスに貢獻する。それで充分ぢやないか?

振返つてみると、私は「作家」を目指す者の大多數が通る道——公募や投稿サイト、(インターネット配信以外の)自費・自己出版——を「見限る」事に關して、その根據をしつこく他人に求めて來た。だがそれも、「客觀的證據」が欲しいのではなく、「安心感」が欲しかつたのだと、今ならよく解る。そして、今も欲し續けてゐる。

どのやうな出版が人類にとつて正しいか、アマチュア作家にとつて適切な出版とは何か、その答へは決しない。あるのは專ら、私にとつて適切な出版だけなのだ。恐ろしいが、信じるだけの價値はある。