凡庸さを認め、できる事をする

私は自由文化あるいは自由ソフトウェアで何か活動できないかつて“惱んで”來たけれども、結局貢獻するだけの知識も技倆も無く、それを習得するつもりすら無いなら、惱んだところで無駄な事にやつと氣附いた。

實行するつもりが無いなら、惱んでも時間の無駄。今自分ができる事、實際にやるつもりのある事で日々を過ごしていくしかない。

多分餘命を意識するつてさういふ事だな。世界を善くするつもりがあつても、勉强でも何でも行動に移さなければ何も變らない、變へられない。自分が善い人間になれるとしたら、何かをしてゐる時だけだ。

私ができるのつて精々寄附くらゐなものなので、それができたら、自分のできる事に專念コミットする。

それは自分が凡庸な人間で、何の專門家でもない事實を認める事だ。「いつか何かになれるかも知れない」といふのは、漠然とした恐れだ。私はこの恐れを囘避するために多大な時間を遣つてきた氣がする。

サイトを作つて、それだけで良いのか、自分の行動に確信が持てない部分はあつたんだけれども、私が他の事をする氣が無いなら、それが最善になる。

でも「何かを變へたい」といふ氣持はある。しかしそれはオフラインで起すべき變化だらうな。私はこれ以上オンライン上の活動に時間を遣ひたくない。

フォーラム、メール、チャット、何らかのプラットフォーム、もう澤山だ。システムやサービスや運營組織が自由libreだつたとしても、私はその處理に限界を感じてゐる。ゆつくりとした時間の中で他者と關はる事を求めてゐる。