それぞれの言葉で

不思議だな、隨筆の方が書きづらいつてのは(題材が自由なのに)。多分傳へたいといふ衝動、そして要點の把握不足が原因なんだらう。

英語で書いてゐると、母國語で表現する事も大事だなつて思へてくる。結局のところ、自由自在に操れるのつて母國語だから。どういふ意圖で書いたか正確に表現できるのは、母國語でしかない。

現狀、隨筆の英語版(母國語版)を公開したいと思つて書き始めると、おぼつかない“飜譯”になつてしまふ。特定の話題に關するメモなんかはそれ程勞せずに纏められるんだがな。無理に書く必要は無いのか? 複數の言語版を用意するのは、その言語の話者にリーチしたいからだ(私の學習も兼ねてゐるが)。焦點はそこにある。

Drabble(100語小說)は飜譯するつもりは無い笑。面倒だから。

餘談ではあるが、Drabbleや6語小說つてのは英語だからこそできる藝當だと思つてゐる。勿論飜譯したつて良いが、そもそもの「語數制限」の魅力は英語だから感じられるものだ。それは俳句や短歌が外國語では再現し切れないのと同じだ。確かに名詞、動詞、形容詞、副詞を“竝べ”て意味や雰圍氣を再現する事は可能だが、日本語獨特の深みや音の響き(繫がり)は再現しやうもない。575(77)、これは、自分で書いてみて解るんだけど、日本語だからしつくり來る韻律だ。本當に不思議なんだが、5字と7字の言葉の切れ目は齒切れが良く、美しく聞える。これを「形式」として歌に組込めた昔の人はすごいと思つた。