眞劍に受止めるつて?
高く昇つた陽が眩しかつたので、ブラインドを下ろした。純白だつたらう本體は眞つ黃色になつて、埃が貼附いてをり、ビーズで飾り立てた紐
彼女は細絲みたいな金髮の一本をぽいと抛
今度、私の家に來ない?
え? ……
さうしたら、落著いて話ができる氣がするの
良いですよ、勿論
それはさうだらうな、と思つた。私に選擇肢は無い。
樂しみ
私が笑ふと、彼女も笑つた。
表の車道には、彼女の乘つて來たパトカーがあつた。相棒の男性は既に戾つてゐて、折つた新聞をハンドルに押附けて、何か書込んでゐた。車體が軋むと、彼はこちらをちらりと見て、彼女に何か言つた。
そこへタクシーが通り掛つたので、すかさず手を擧げた。遠ざかつていく黑
ポリーと逢つたのは六月一日の午後十時十分頃で、二人の刑事と共にやつて來た。私の主人——ノート・ノーウェル・ノーマン公爵がリビングで倒れ、九時三十分きつかりに通報したのだ。公爵は血を流して——と言つても直徑數センチの染みだつたが——床の他、硝子
一通りの取調べを終へてテラスに出ると、女刑事が一人で、煙草を吸つてゐた。スポットライトとパトカーの警光燈
灰皿を差出すと、彼女はとん、と煙草を指で打つた。
息子のカークスさんね、あの人にはどのくらゐ入るの?
……
この邸宅と、ノーマン卿の財產、それに……保險にも入つてゐるんでせう?
ノーマン閣下です、刑事さん
ポリーね——で、あなたはどうするの? ぼんぼんのお世話でもするの?
だと思ひます、解雇されなければ
ノーマン閣下はあなたをかはいがつてくれた?
大切にして頂きました
愛してゐた?
敬愛してをりました
寢た事は?
……ありません
指一本も觸れた事は?
それは、お手傳ひする時に、觸れる事はございましたけれども……ポリー樣、あんまりです
あのね、私らはマスコミぢやないんだから、正直に話してくれなきや困るのよ——息子とは?
誓つて言ひますが——私はノーマン家の方々とは、一度もそんな風になつた事はございません
彼女は灰皿に、煙草を押附けた。
一應寢室は調べさせて貰ふわ——ま、それもあなたが綺麗に掃除してるんだらうけど
ノーマン氏は州で最後の爵位を持つ人間だつた。その貴重であらう死は、地方の新聞では一面を飾つたが、全國のテレビニュースではたつたの一二分しか觸れられなかつた。功績を讃へてくれる王樣など疾
次にポリーと逢つたのは、公爵が亡くなつてから數日後の事で、私は買出しに出てゐた。立ち話もなんだからと、彼女はあの大衆食堂
あなたは六年前にノーマン公爵のところに來たのね。で、當時は他にもメイドがゐた
メルニルさんです
彼女は手帖を捲
それ自體が理由です——つまり、手の屆かないところが出て來たので、小廻りが利きさうな人材を必要としてゐたのです
メルニルさんは、どんな人だつた?
さうですね——無禮な振舞は一切許しませんでしたし、何もかもきつちりしないと氣が濟まない人で……ボス猫みたいな人でした
で、彼女は——階段から落つこちて亡くなつたとか——
ええ、いつもレースの附いたスカートをお召しだつたんですけど、それを降りる時に踏んでしまつたみたいで……
その數箇月前には、脚立から落ちて……隨分と元氣な人だわね
でせう? 任せて下さいと、何度も言つてたんですけど……もうその時は悔しくて悔しくて
カークスさんとは、折合ひが惡かつたんでせうね
寄宿學校に入れたのは、酷い思ひ附きだつたと言つてましたね
誰が?
カークスが
公爵とも折合ひが惡かつた?
公爵は自稱放任主義ですから。學校で問題を起したり、女の子と遊び廻つてても、あんまり干涉はしなかつたみたいです……まあ、私の豫測ですけどね。そんな事、聞ける筈もありません
あなたが入つてからはどうだつた?
お金の話ばつかりしてました……つて、これは彼に不利な證言ですかね……と言つて、別に問題は無いのでせう? 彼は出掛けてゐて、あれは病死だつたんですから
藥はあなたが?
誓つて言ひますが、私は——閣下は、人生をコントロールする事に喜びを感じてゐる人でした。ご自分の病氣をどれだけ厭はれてゐたか、考へるまでもありません
それなら尙更、飮み忘れなんて有り得ないわね
……それは、ドクターに聞いてみれば判ると思ひますよ
そこでぱたん、と薄汚れた手帖は閉ぢられた。
それから買出しに出る度、私はレモンバーに眼を配らずにはゐられず、運惡く著席してゐる彼女と視線が合つてしまつた場合には、手を擧げるしかなかつた。
ちよくちよく世間話をしてゐるうち、段々と打解けていく印象はあつた。彼女は獨身で、二番街のアパートメントに住んでゐる事、ペットは無し、戀人も無し。
公爵の死から二箇月が經つた或る日の事。レモンバーの奧の席には上半身裸の親父がをり、店主もウェイトレスも、誰もが大粒の汗を、額や鼻の下に載せてゐた。それは彼女も例外ではなく、さつきからハンカチで顏を押へてゐるけれども、何らかの色が滲んでゐるに違ひなかつた。
金曜の晩、空いてゐるかしら
金曜の? ……カークスによりますね
彼次第、ね——どうして彼に就いてゐるの? メイドの給料つて、そんなに良いものなの?
——警察にしても、政治家にしても、盡さうとするものに背中を刺されるんですから、餘り遣り甲斐のある仕事には思へませんね——報酬に見合ふかどうかも
酬いは金ばつかりぢやないわよ
ええ、さうでせうね——
あなたは滿足なの? 酬われてるつて?
……あなたがなぜ拘
私がそつぽを向くと、彼女は水を飮んだ。既に氷は無い。
いづれにしろ金曜には行くわ……遺留品の返却に
——遺留品! すつかり忘れてゐたけれども、警察は著實に調べてゐたわけだ——やはり嫌疑に掛けられてゐた!
私は肩を落した。
柩に入れて差上げたかつた……
ごめんなさいね、鑑定に手間取つてしまつて
さう、鑑定せねばなるまい。歸宅すると、電話帳で三番街を引いた。
金曜の午後八時、ポリーは來た。あいにくとカークスは留守で、彼女は遺留品の袋を渡すなり、私の背後を覗き込んだ。
何だか良い匂ひもするし、小腹が空いたかも
私は彼女を通し、林檎を剝いた。
彼がゐない間は、あなたの家ですものね?
……自分でカバーの亂れを直さなくてはならないですけどね
あなた、お酒は好き?
六年も飮んでゐないと、恐いくらゐです
メイドは禁酒しなければならないの?
起きてゐる間は殆ど仕事みたいなもんですから——それに、人は醉ふと何を口走るか判りませんからね
ふうん
女の人の名前だつたり、金庫の番號だつたり、知られたくない思ひ出だつたり
つまり、あなたを喋らせたければ、酒場
彼女はそのつもりだつた、と白狀した。私は彼が歸つて來るから、と言譯するつもりだつた。
お夕飯はお一人で? ぢや、普段からご親切にして頂いてゐるお禮に、レシピを一つ書いて差上げませう——はい、出來ました、ではすぐお歸りになつて、試して下さい——大丈夫ですよ、殘り物でも作れるやうなメニューですから。そんな事よりも早くお戾りになつて。あなたの貴重な餘暇を、無駄にしたくはない——ええ、さやうなら、さやうなら! その氣になれば、いつでもここに來られるんですから。さあ、行つて!
……見送つたのは決して間違ひではなく、門の傍に立つてゐると、向うから、がらがらがら、といつもの喉を引き摺るやうな音がして、私は家に舞戾つた。
刑事
例の遺留品ですよ。入れない事の方が不自然でせう?
で、何だつて?
ああ、カークス——彼女はただお腹が空いてゐて、歸つても誰もゐないんです
だから?
彼女、私の事友逹と思つてるみたいで——良いから坐つて下さい、マットで土を落してから
實際のところ、私のエプロンのポケットには、彼女の番號をしたためた手帖の切れ端が入つてゐた。
あの後も私たちはレモンバーで會ひ、彼女は新しいレシピをせがんだ。それなら書店にでも寄るか、隣人の何とかさんに敎へて貰つた方が良いですよ、と私は言つた。そして、通ふ店を變へた。
十月の或る日、夕飯の後にミルクティーを出すと、カークスは嚙み附いた。
おいおい、こりや當て附けか何かか?
習慣といふのはさう簡單に拔けないものなんです
ふん——
ストレート?
踵を返さうとした時、彼が急に立上がつて、私は竦
——後はご自分でどうぞ!
自室に飛込み、枕に顏を押附けた。
眼が醒めると、零時を過ぎてゐた。
目尻を指の腹で拭ふと、不意に抽斗が眼に入つた。メモを取つてリビングに出ると、電氣は點けつぱなしで、テーブルにはティーセットと空のグラス、酒が出てゐた。落ちた盆もそのままだつた。拾ひ上げると、引かれた椅子にどかつと坐つて、食卓に突つ伏した。——ポリーの問ひが浮んだ。
數分後には、受話器を取つてゐた。滲んだ番號からは、彼女の香水と煙草の臭ひがした。
ポリーさんですか? 私です——
噓吐き
え?
だつたらもう、あなたの言つた事は一から何まで、疑はなきやならないわ
な——待つて、何の事を言つてるの?
今夜、そつちに行つたの
反射的に、窓に眼が行つた。カーテンがほんの少しだけ開いてゐる。
カークスの事? だつたら誤解だわ、あの人誰にでもするのよ、あんな事
で、平氣な顏して世話してるつて言ふの?
本當に、あれ以外の事はしてないわ。許すくらゐなら……死んだ方がまし
はつとして、受話器から耳を離した。つーとんとんとん、と屋根を打つ硬い音が聞えた。雨が降出してゐた。私は續けた。
信じて下さい
口ではどんな淸らかな事も言へるわ
……
受話器を置いて、兩手で顏を覆つた。今から彼の部屋に飛込んで……。駄目。でもここで信じて貰はなければ……。
口座が……あるんです。いつも手當を貰つてゐるのと、別の口座
彼女は溜め息を吐いた。愛人料ね
違ひます——彼はその口座に振込んで、私が使つた事にして……
脫稅經路
言はないで。お願ひ
ちよつと考へてみれば解る事でせう? あんな馬鹿な男捨てて、あなたは綺麗な身になるの
駄目です
どうして
當然、それは殺人の次に重い罪だからだ。私は半世紀以上を塀の中で過ごすつもりは無い。死刑は免れるものの——
私は頰を濡らして訴へた。
あなただから話したんです、彼とそんな風に……關係してゐるなんて、思はれたくなかつたから
ええ
それでも私を逮捕する? あなたが刑事だから?
私は——警察官としてなら、すぐにも署に一報したと思ふわ
……
でも、私は今、個人として……あなたとあの男に、ケチをつけてるの
ポリーさん……
眞劍に受止めてくれるなら、あなたと彼の事は、不問にしても良いわ
受止めるつて?
……又レモンバーで逢ひませう、あなた
小さな、キスの音がした。受話器を置くと、どつと疲れがした。あの……カークスの馬鹿。
土曜の午後六時、といふのが、彼女の指定だつた。
アパートメントは四階建てで、隣接したビルの一階が飮食店なせゐか、むわつとした、ソーセージのやうな匂ひがした。彼女が住んでゐるのは三階で、廊下の所々から、テレビの音がした。染みのある壁紙や、擦切れた蔦
ようこそ
休日の彼女は簡素で、スカート姿は初めてだつた。
私たちは合皮のソファに坐つた。內裝はテレビやテーブルや棚といつた、備へ附けだらうものしかなかつた。花の一輪も無い。私の持つて來た赤いスカーフだけが、この部屋に色を與へてゐるやうだつた。
彼女は手をついて、一人分の間を埋めた。太腿の端が少し觸れ、私はぎこちなく身動
先日、誕生日だつたんです
まあ
でも未だに、自分が三十半ばだなんて信じられなくて……
などと話してゐる途中で、馬鹿々々しい事に氣附いた。生年月日も、出身も、ありとあらゆる情報を警察は調べ上げてゐるのだ——まあだなんて。
何かあげなければね
ああ——さう、それです
やつと小切手が出せると思つて、私はバッグに手を伸ばした。
すると引つ張られ、彼女に寄掛つた。
あなたに足りないもの、私ならあげられるわ
日曜の朝、歸ると家は滅茶滅茶になつてゐた。抽斗といふ抽斗、蓋といふ蓋が開けられ、中身が床、テーブル、ソファの上に出されてゐた。
仲介人
私は、行きません
荷を詰込んでゐた手が止つた。
……彼女と緣を切るには、もう少し時間が必要なんです
假にだ、お前を除け者にして新しい家政婦と連
私……あなたの迷惑になるやうな事は
さうだよな——おれもお前に出し拔かれるくらゐなら、死んだ方がましだ
心臟が跳ねた。
止めはしねえ
ええ——私はここにゐて、あなたの留守を預かつてる。私だけなんて事……ありませんよ
さうか?
あなたこそ、外國でやり直さうつて魂膽ぢやありませんよね?
どうだかな。家が廣いんなら、家政婦は傭はなきやなんねえしなあ。何せ、おれはパスポート一枚でこの樣なんだからな!
私は金庫の錠を廻して、彼の探し物を渡した。そのまま自室に飛込んで著替へをしてゐる時、スカーフが無い事に氣附いた……
大搜索の跡を片附けて、夕飯を出し、彼が二階に上がると、私は電話を掛けた。
ハンナ、あなたの部屋にスカーフがあると思ふのだけれど
ええ、あるわね
明日、取りに行つても良いかしら
今からでは駄目なの?
——息が詰つた。明日は早いの。それに危ないぢやない
迎へに行くわよ
駄目!——カークスが機嫌惡いのよ、彼、あなたの事恐がつてる
さうでせうね。惡黨だもの
あなたの都合が惡いなら、明日以降でも良いから
私は今日が良いの
電話するんぢやなかつた。今頃カークスは意地の惡い笑みを浮べてゐるに違ひない。
わかつた——でも、すぐ歸るわ
結局、十時半にはコートを卷附けて、タクシーを摑
ドアを開けると、ふはりと眞紅の布が頭に被さり、私は引寄せられた。
あなたを逮捕するわ
ばたんとドアを閉めると、彼は耳を立てた小動物みたいに、ぴーんと固まつてゐた。
出して
おい……
良いから出して!
きりきりきり、がががが、といつもの音が轟いた。席が小刻みに搖れ、私たちは敷地と別れた。少し煙草臭くて、ドアのハンドルを廻して、窓を下げた。ラジオが六時の秒讀みを鳴らし、司會者が新しい週の始まりを吿げた。
彼は私をちらちらと見てゐたが、やがてへらへらと笑ひ出した。
やつぱり、おれの方が良かつたんだろ、な?
別に……
ぢやどうしたんだよ、まさか追はれて來たわけぢやないよな?
さう言つてバックミラーに眼を配る。
眞劍ぢやないと思つたから
眞劍?
あなたを放つて置けないと思つたんですよ
だろ、だろー?
男は得意になつてアクセルを踏んだ。景色が通り過ぎていく——。あの口座は綺麗さつぱり無くなつてゐた。いづれにしても、彼は刺客を差向けただらうと言ふのだ。後部座席にはキャリーバッグ二つと、その上にコートが載つてゐた。私は昨晩出たままだつた。シートに凭
眞劍に受止めてくれるなら、と彼女は言つた。眞劍に受止めてくれるなら、眞劍に受止められない人間もゐるつて、解つてくれるでせう?
それに、と運轉席を見た。
人は祕密