トンネル

一、大きな欠伸

眞劍に受止めるつて?

高く昇つた陽が眩しかつたので、ブラインドを下ろした。純白だつたらう本體は眞つ黃色になつて、埃が貼附いてをり、ビーズで飾り立てたコードはぬるぬるとしてゐた。私はナプキンで指を拭つた。後ろの客はウェイトレスの容姿に點數をつけ、店主は業務用の巨大なソースを、鍋にどばどばと入れてゐる。

彼女は細絲みたいな金髮の一本をぽいとはふると、言つた。

今度、私の家に來ない?

え? ……

さうしたら、落著いて話ができる氣がするの

良いですよ、勿論

それはさうだらうな、と思つた。私に選擇肢は無い。

樂しみ

私が笑ふと、彼女も笑つた。

表の車道には、彼女の乘つて來たパトカーがあつた。相棒の男性は既に戾つてゐて、折つた新聞をハンドルに押附けて、何か書込んでゐた。車體が軋むと、彼はこちらをちらりと見て、彼女に何か言つた。

そこへタクシーが通り掛つたので、すかさず手を擧げた。遠ざかつていくこくびやくのトランクを振返りながら、私は大きな欠伸をした。

二、ノーマン公爵

ポリーと逢つたのは六月一日の午後十時十分頃で、二人の刑事と共にやつて來た。私の主人――ノート・ノーウェル・ノーマン公爵がリビングで倒れ、九時三十分きつかりに通報したのだ。公爵は血を流して――と言つても直徑數センチの染みだつたが――床の他、硝子ガラスのテーブルの角にも、血が著いてゐた。發作が起き、崩れ落ちた際に、ぶつけたのだらう、と私は言つた。爭つた痕跡も無ければ悲鳴も無し、この頃の身體の弱さを思へば、さう合點がいくと。遺體に觸れなかつたかと聞かれたので、安否を確かめる爲に少し搖り動かしたと、ああ、その時にテーブルも少し移動させたかも知れませんね、と言つた。室內どころか庭までもフラッシュが焚かれ、そくせきを取つてゐただらう刑事が、中に聲を掛けた。カメラは?このさうごんな住まひのどこに、私生活を侵す眼が必要なのですか。證言を取つてゐた刑事が、質問を引取つた。それにしたつて心配ぢやないですか、ご主人はこの邊りぢや有名な方でせうし高名な方ではありますが、と私は咳拂ひした。主だつた品は美術館に寄贈致しましたし、三番街の骨董屋と閣下が懇意である事は、ご近所さんなら皆知つてゐる事なのです。次にご家族は、と聞かれ、手を打つた。ああ! ショックの餘り、ご子息のカークス樣にご聯絡するのを忘れてゐました! 電話を掛けた後、家には主人と私しかゐなかつた事を證言した。つまり、カークス樣は午後五時には出掛けてゐて、その車の出て行くのは、近所の方々が、見てはゐないにしても、聞いてはゐると思ひますよと。無くなつた物が無いか、確認して頂けますか?ええ、私に掛れば、額緣が數センチずれてゐたつて、すぐに判りますもの――さう言ひながら、何だかここに半世紀も暮してゐるお婆さんみたいになつた氣がしてゐた。


一通りの取調べを終へてテラスに出ると、女刑事が一人で、煙草を吸つてゐた。スポットライトとパトカーの警光燈ワーニングライトが煌めいて、栅の向うでは、野次馬が集まつてゐた。高級住宅街の住人とは言つてはみても、所詮人なのだ。

灰皿を差出すと、彼女はとん、と煙草を指で打つた。

息子のカークスさんね、あの人にはどのくらゐ入るの?

……

この邸宅と、ノーマン卿の財產、それに……保險にも入つてゐるんでせう?

ノーマン閣下です、刑事さん

ポリーね――で、あなたはどうするの? ぼんぼんのお世話でもするの?

だと思ひます、解雇されなければ

ノーマン閣下はあなたをかはいがつてくれた?

大切にして頂きました

愛してゐた?

敬愛してをりました

寢た事は?

……ありません

指一本も觸れた事は?

それは、お手傳ひする時に、觸れる事はございましたけれども……ポリー樣、あんまりです

あのね、私らはマスコミぢやないんだから、正直に話してくれなきや困るのよ――息子とは?

誓つて言ひますが――私はノーマン家の方々とは、一度もそんな風になつた事はございません

彼女は灰皿に、煙草を押附けた。

一應寢室は調べさせて貰ふわ――ま、それもあなたが綺麗に掃除してるんだらうけど

三、酬いは金ばつかりぢやない

ノーマンは州で最後の爵位を持つ人間だつた。その貴重であらう死は、地方の新聞では一面を飾つたが、全國のテレビニュースではたつたの一二分しか觸れられなかつた。功績を讃へてくれる王樣などうの昔にゐなかつたし、精々、普通の人々と同樣に、死亡保險金が入つてくるだけだつた――殊息子には、その保險金と遺產こそが、父を父たらしめるものだつた。彼はまづ三割を證劵に遣ひ、殘りは生活費――値の張る酒や煙草や、最新式のテレビ、女、新たな事業の爲のコネクション――そして、私の給料へと費やしてゐた。


次にポリーと逢つたのは、公爵が亡くなつてから數日後の事で、私は買出しに出てゐた。立ち話もなんだからと、彼女はあの大衆食堂ダイナーに誘つたのだ。名をレモンバー、レモンにフォークが突刺さつた看板が目印だつた。そこには長らく私が遠退いてゐた世界、やにだみ聲と體臭、そして辭書には無い下品な言葉があつた。黃色い齒で煙草を嚙む男たちを見た時、何だかこの女刑事に騙された氣がした。

あなたは六年前にノーマン公爵のところに來たのね。で、當時は他にもメイドがゐた

メルニルさんです

彼女は手帖をめくりながら、メルニルさんは長い事公爵に仕へてゐたやうね――どうして又、あなたを?

それ自體が理由です――つまり、手の屆かないところが出て來たので、小廻りが利きさうな人材を必要としてゐたのです

メルニルさんは、どんな人だつた?

さうですね――無禮な振舞は一切許しませんでしたし、何もかもきつちりしないと氣が濟まない人で……ボス猫みたいな人でした

で、彼女は――階段から落つこちて亡くなつたとか――

ええ、いつもレースの附いたスカートをお召しだつたんですけど、それを降りる時に踏んでしまつたみたいで……

その數箇月前には、脚立から落ちて……隨分と元氣な人だわね

でせう? 任せて下さいと、何度も言つてたんですけど……もうその時は悔しくて悔しくて

カークスさんとは、折合ひが惡かつたんでせうね

寄宿學校に入れたのは、酷い思ひ附きだつたと言つてましたね

誰が?

カークスが

公爵とも折合ひが惡かつた?

公爵は自稱放任主義ですから。學校で問題を起したり、女の子と遊び廻つてても、あんまり干涉はしなかつたみたいです……まあ、私の豫測ですけどね。そんな事、聞ける筈もありません

あなたが入つてからはどうだつた?

お金の話ばつかりしてました……つて、これは彼に不利な證言ですかね……と言つて、別に問題は無いのでせう? 彼は出掛けてゐて、あれは病死だつたんですから

藥はあなたが?

誓つて言ひますが、私は――閣下は、人生をコントロールする事に喜びを感じてゐる人でした。ご自分の病氣をどれだけ厭はれてゐたか、考へるまでもありません

それなら尙更、飮み忘れなんて有り得ないわね

……それは、ドクターに聞いてみれば判ると思ひますよ

そこでぱたん、と薄汚れた手帖は閉ぢられた。


それから買出しに出る度、私はレモンバーに眼を配らずにはゐられず、運惡く著席してゐる彼女と視線が合つてしまつた場合には、手を擧げるしかなかつた。

ちよくちよく世間話をしてゐるうち、段々と打解けていく印象はあつた。彼女は獨身で、二番街のアパートメントに住んでゐる事、ペットは無し、戀人も無し。


公爵の死から二箇月が經つた或る日の事。レモンバーの奧の席には上半身裸の親父がをり、店主もウェイトレスも、誰もが大粒の汗を、額や鼻の下に載せてゐた。それは彼女も例外ではなく、さつきからハンカチで顏を押へてゐるけれども、何らかの色が滲んでゐるに違ひなかつた。

金曜の晩、空いてゐるかしら

金曜の? ……カークスによりますね

彼次第、ね――どうして彼に就いてゐるの? メイドの給料つて、そんなに良いものなの?

――警察にしても、政治家にしても、盡さうとするものに背中を刺されるんですから、餘り遣り甲斐のある仕事には思へませんね――報酬に見合ふかどうかも

酬いは金ばつかりぢやないわよ

ええ、さうでせうね――

あなたは滿足なの? 酬われてるつて?

……あなたがなぜこだはるのか、私には解らない

私がそつぽを向くと、彼女は水を飮んだ。既に氷は無い。

いづれにしろ金曜には行くわ……遺留品の返却に

――遺留品! すつかり忘れてゐたけれども、警察は著實に調べてゐたわけだ――やはり嫌疑に掛けられてゐた!

私は肩を落した。

柩に入れて差上げたかつた……

ごめんなさいね、鑑定に手間取つてしまつて

さう、鑑定せねばなるまい。歸宅すると、電話帳で三番街を引いた。

四、お夕飯はお一人で

金曜の午後八時、ポリーは來た。あいにくとカークスは留守で、彼女は遺留品の袋を渡すなり、私の背後を覗き込んだ。

何だか良い匂ひもするし、小腹が空いたかも

私は彼女を通し、林檎を剝いた。

彼がゐない間は、あなたの家ですものね?

……自分でカバーの亂れを直さなくてはならないですけどね

あなた、お酒は好き?

六年も飮んでゐないと、恐いくらゐです

メイドは禁酒しなければならないの?

起きてゐる間は殆ど仕事みたいなもんですから――それに、人は醉ふと何を口走るか判りませんからね

ふうん

女の人の名前だつたり、金庫の番號だつたり、知られたくない思ひ出だつたり

つまり、あなたを喋らせたければ、酒場バーに連れて行けば良いのね

彼女はそのつもりだつた、と白狀した。私は彼が歸つて來るから、と言譯するつもりだつた。

お夕飯はお一人で? ぢや、普段からご親切にして頂いてゐるお禮に、レシピを一つ書いて差上げませう――はい、出來ました、ではすぐお歸りになつて、試して下さい――大丈夫ですよ、殘り物でも作れるやうなメニューですから。そんな事よりも早くお戾りになつて。あなたの貴重な餘暇を、無駄にしたくはない――ええ、さやうなら、さやうなら! その氣になれば、いつでもここに來られるんですから。さあ、行つて!


……見送つたのは決して間違ひではなく、門の傍に立つてゐると、向うから、がらがらがら、といつもの喉を引き摺るやうな音がして、私は家に舞戾つた。

刑事サツを中に入れたのか?

例の遺留品ですよ。入れない事の方が不自然でせう?

で、何だつて?

ああ、カークス――彼女はただお腹が空いてゐて、歸つても誰もゐないんです

だから?

彼女、私の事友逹と思つてるみたいで――良いから坐つて下さい、マットで土を落してから

實際のところ、私のエプロンのポケットには、彼女の番號をしたためた手帖の切れ端が入つてゐた。

五、死んだ方がまし

あの後も私たちはレモンバーで會ひ、彼女は新しいレシピをせがんだ。それなら書店にでも寄るか、隣人の何とかさんに敎へて貰つた方が良いですよ、と私は言つた。そして、通ふ店を變へた。


十月の或る日、夕飯の後にミルクティーを出すと、カークスは嚙み附いた。

おいおい、こりや當て附けか何かか?

習慣といふのはさう簡單に拔けないものなんです

ふん――

ストレート?

踵を返さうとした時、彼が急に立上がつて、私はすくんだ。でも彼も惡いんだ、用意する手間や匂ひで判つた筈なんだ、だから――盆が落ちた。酷い音がした。息が奪はれた。痛く、苦しく、それまでに無い程、亂暴だつた。私は拳で、力いつぱい彼の脇腹を叩いた。

――後はご自分でどうぞ!

自室に飛込み、枕に顏を押附けた。


眼が醒めると、零時を過ぎてゐた。

目尻を指の腹で拭ふと、不意に抽斗が眼に入つた。メモを取つてリビングに出ると、電氣は點けつぱなしで、テーブルにはティーセットと空のグラス、酒が出てゐた。落ちた盆もそのままだつた。拾ひ上げると、引かれた椅子にどかつと坐つて、食卓に突つ伏した。――ポリーの問ひが浮んだ。

數分後には、受話器を取つてゐた。滲んだ番號からは、彼女の香水と煙草の臭ひがした。

ポリーさんですか? 私です――

噓吐き

え?

だつたらもう、あなたの言つた事は一から何まで、疑はなきやならないわ

な――待つて、何の事を言つてるの?

今夜、そつちに行つたの

反射的に、窓に眼が行つた。カーテンがほんの少しだけ開いてゐる。

カークスの事? だつたら誤解だわ、あの人誰にでもするのよ、あんな事

で、平氣な顏して世話してるつて言ふの?

本當に、あれ以外の事はしてないわ。許すくらゐなら……死んだ方がまし

はつとして、受話器から耳を離した。つーとんとんとん、と屋根を打つ硬い音が聞えた。雨が降出してゐた。私は續けた。

信じて下さい

口ではどんな淸らかな事も言へるわ

……

受話器を置いて、兩手で顏を覆つた。今から彼の部屋に飛込んで……。駄目。でもここで信じて貰はなければ……。

口座が……あるんです。いつも手當を貰つてゐるのと、別の口座

彼女は溜め息を吐いた。愛人料ね

違ひます――彼はその口座に振込んで、私が使つた事にして……

脫稅經路トンネル

言はないで。お願ひ

ちよつと考へてみれば解る事でせう? あんな馬鹿な男捨てて、あなたは綺麗な身になるの

駄目です

どうして

當然、それは殺人の次に重い罪だからだ。私は半世紀以上を塀の中で過ごすつもりは無い。死刑は免れるものの――

私は頰を濡らして訴へた。

あなただから話したんです、彼とそんな風に……關係してゐるなんて、思はれたくなかつたから

ええ

それでも私を逮捕する? あなたが刑事だから?

私は――警察官としてなら、すぐにも署に一報したと思ふわ

……

でも、私は今、個人として……あなたとあの男に、ケチをつけてるの

ポリーさん……

眞劍に受止めてくれるなら、あなたと彼の事は、不問にしても良いわ

受止めるつて?

……又レモンバーで逢ひませう、あなた

小さな、キスの音がした。受話器を置くと、どつと疲れがした。あの……カークスの馬鹿。

六、赤いスカーフ

土曜の午後六時、といふのが、彼女の指定だつた。

アパートメントは四階建てで、隣接したビルの一階が飮食店なせゐか、むわつとした、ソーセージのやうな匂ひがした。彼女が住んでゐるのは三階で、廊下の所々から、テレビの音がした。染みのある壁紙や、擦切れたつた模樣の敷物は、この世帶のみじめさを奏でてゐるやうだつた。一端いつぱしのキャリアウーマンでさへ、こんなところに歸らなければならないとは……。

ようこそ

休日の彼女は簡素で、スカート姿は初めてだつた。

私たちは合皮のソファに坐つた。內裝はテレビやテーブルや棚といつた、備へ附けだらうものしかなかつた。花の一輪も無い。私の持つて來た赤いスカーフだけが、この部屋に色を與へてゐるやうだつた。

彼女は手をついて、一人分の間を埋めた。太腿の端が少し觸れ、私はぎこちなく身動みじろぎした。

先日、誕生日だつたんです

まあ

でも未だに、自分が三十半ばだなんて信じられなくて……

などと話してゐる途中で、馬鹿々々しい事に氣附いた。生年月日も、出身も、ありとあらゆる情報を警察は調べ上げてゐるのだ――まあだなんて。

何かあげなければね

ああ――さう、それです

やつと小切手が出せると思つて、私はバッグに手を伸ばした。

すると引つ張られ、彼女に寄掛つた。

あなたに足りないもの、私ならあげられるわ

七、大搜索の跡

日曜の朝、歸ると家は滅茶滅茶になつてゐた。抽斗といふ抽斗、蓋といふ蓋が開けられ、中身が床、テーブル、ソファの上に出されてゐた。

仲介人エージェントがドジつちまつたんだ。卷添へでしよつぴかれるかも知れねえ。暫く外國で雲隱れだ。お前も早く、支度しろよ

私は、行きません

荷を詰込んでゐた手が止つた。

……彼女と緣を切るには、もう少し時間が必要なんです

假にだ、お前を除け者にして新しい家政婦とつるんでたら、どういふ氣持がするんだらうな?

私……あなたの迷惑になるやうな事は

さうだよな――おれもお前に出し拔かれるくらゐなら、死んだ方がましだ

心臟が跳ねた。

止めはしねえ

ええ――私はここにゐて、あなたの留守を預かつてる。私だけなんて事……ありませんよ

さうか?

あなたこそ、外國でやり直さうつて魂膽ぢやありませんよね?

どうだかな。家が廣いんなら、家政婦は傭はなきやなんねえしなあ。何せ、おれはパスポート一枚でこの樣なんだからな!

私は金庫の錠を廻して、彼の探し物を渡した。そのまま自室に飛込んで著替へをしてゐる時、スカーフが無い事に氣附いた……


大搜索の跡を片附けて、夕飯を出し、彼が二階に上がると、私は電話を掛けた。

ハンナ、あなたの部屋にスカーフがあると思ふのだけれど

ええ、あるわね

明日、取りに行つても良いかしら

今からでは駄目なの?

――息が詰つた。明日は早いの。それに危ないぢやない

迎へに行くわよ

駄目!――カークスが機嫌惡いのよ、彼、あなたの事恐がつてる

さうでせうね。惡黨だもの

あなたの都合が惡いなら、明日以降でも良いから

私は今日が良いの

電話するんぢやなかつた。今頃カークスは意地の惡い笑みを浮べてゐるに違ひない。

わかつた――でも、すぐ歸るわ

結局、十時半にはコートを卷附けて、タクシーをつかまへてゐた。アパートメントの廊下は靜まり返るどころか、却つて喧噪が增してゐるやうに思へた。身體がぶるりとするのは、何も湯冷めしてゐるだけではない。

ドアを開けると、ふはりと眞紅の布が頭に被さり、私は引寄せられた。

あなたを逮捕するわ

八、トンネル

ばたんとドアを閉めると、彼は耳を立てた小動物みたいに、ぴーんと固まつてゐた。

出して

おい……

良いから出して!

きりきりきり、がががが、といつもの音が轟いた。席が小刻みに搖れ、私たちは敷地と別れた。少し煙草臭くて、ドアのハンドルを廻して、窓を下げた。ラジオが六時の秒讀みを鳴らし、司會者が新しい週の始まりを吿げた。

彼は私をちらちらと見てゐたが、やがてへらへらと笑ひ出した。

やつぱり、おれの方が良かつたんだろ、な?

別に……

ぢやどうしたんだよ、まさか追はれて來たわけぢやないよな?

さう言つてバックミラーに眼を配る。

眞劍ぢやないと思つたから

眞劍?

あなたを放つて置けないと思つたんですよ

だろ、だろー?

男は得意になつてアクセルを踏んだ。景色が通り過ぎていく――。あの口座は綺麗さつぱり無くなつてゐた。いづれにしても、彼は刺客を差向けただらうと言ふのだ。後部座席にはキャリーバッグ二つと、その上にコートが載つてゐた。私は昨晩出たままだつた。シートにもたれ掛ると、ポケットがくしやりと音を立てた。手を入れると、アパートメントの空き部屋のメモがあつた。私はそれをつまみ上げると、風が入つてくる隙間から、手を離した――


眞劍に受止めてくれるなら、と彼女は言つた。眞劍に受止めてくれるなら、眞劍に受止められない人間もゐるつて、解つてくれるでせう?


それに、と運轉席を見た。

人は祕密トンネルを介して繫がつてゐるものですもの。