見られたくない管理者に

例へば18禁、二次創作。


自らがアクセスを可能にさせてゐる事に氣附くべき。


既に自覺してゐる事だらうと思ふが、Webに18禁など存在しないし、不特定に公開してゐる以上、誰でも鑑賞出來る。


小學生が18禁と檢索してEnterを押せば無修正のセックス動畫も觀られるし、何なら殺人の瞬間だつて觀られる。CERO-Zのゲーム動畫は公開され、子供が觀てコメントする。


小學生が私の作品を觀て、例へば權力者の親が大發狂して私を吊し上げる事も可能だ。


それを創作者が不當だと感じる、その怒りは、自分が惡い事をしてゐないと思つてゐるからだ。

子供を含む誰も公開してはいけないもの公開してしまつた。だが、惡い事はしてゐないといふ怒りを、その實、創作者は祕めてゐる。


公開してはいけないものを公開してゐるので、リンク/紹介/見ないで下さい、と言ふのは、餘りに不誠實で不適切ではないか。要するに、不適切行爲の隱蔽を呼掛けてゐるのだ。

逃げて欲しくない理由

バレると、大抵の創作者は、コンテンツを消してしまふ(責任を取りたくないから)。

所感(2018年9月29日~2019年)でも言つたやうに、言及對象が消えてしまふと、私の書いた事の意味は半分も消えてしまふし、そもそも私の言つてゐる事が妥當なのか不當なのか、その檢證さへ出來なくなつてしまふ。

責任を取るならば、ページそのものを消して無かつた事にすべきではない。揭載し續ける事が出來ないならば、せめて本文を改訂するなり、揭載出來ない旨を說明すべきだ。

當然の事として

守つてあげたいのは山々だつたが、さういふ臆病な態度が餘計臆病な公開者を增やしてしまふ、といふ事に氣附いてからは、めた。

18禁や二次創作、その他反社會的と取られる創作物の肩身が狹いのは理解してゐるつもりだが、であればこそ――理解と受容を求めるからこそ、私は堂々と公開したい、表現したい、と思つた。

をかしな事ではない、當然の事としての正義、として。

といふ自覺

本當に18歲以上の人間しか鑑賞出來ないやうにする仕組といふのは現段階では實現してゐなくて(それはシステムが鑑賞者を特定する事を意味してゐる)、發展途上ですらない。

であるにも拘らずこのWebといふ公衆の場に公開してゐる、私はだ。それを自覺すれば痛み心配など我儘だらう。エゴなのだ。


正氣であるといふ正義と、公開してはならない場で公開するといふ惡の混在。

私は納得出來なければ鬪ふし、妥當だと思へば、罰を受ける。

言はば、私は罰を受ける(堂々とする正義)を他者にも求め、押附け――つまり、實行してゐるのだ。(それがであるならば)我々は共に死ぬべきなのだ、と。