眞に服せよ

 前へ、前へ。人が參列ならぶところ。形がはつきりするところ。僕の答へは一つなのに、うんと言ふ事ができない。在りもしない葛藤のために、「出席」と「闕席けつせき」に丸を附けられずにゐた。締切の當日、律儀に郵便局の窓口まで行き、切手を買つた。お願ひします、と出した聲は、變に潰れてゐた。
 針を刺されに行く。そんな氣分だつた。でも、自信が無いといふだけで、選擇してゐた筈の未來を駄目にするのは、馬鹿々々しかつた。だが、どうだらう、出席しなければならない呵責も元々は、無かつたものなんぢやないか。そもそも、僕が得られた筈の體驗なんて、無かつたんぢやないか。
 クローゼットを開ける。いつもの服を押し退けて、クリーニング屋のビニールを剝ぎ取ると、ふはつとかび臭さが鼻をいた。何をしてゐても、どう生きてゐても、僕は痛みを感じる。今でも判らなかつた。僕が元來どうしてゐたか、どうしてゐたかつたか、だなんて。

 僕が名前を書くと、受附の女は僕をまじまじと見た。疑ひやうの無い人間からの、輕蔑と、困惑と、欺瞞に滿ちた視線。寺の砂利を踏む。しくしくと、目尻を黑いレースのハンカチで押へる人たち。似たり寄つたりの、ころんとした手提げバッグを持つてトイレに行く人たち。薄かつたり厚かつたりする、黑いストッキング。こんこんと、石を叩く低いヒール。その步調で搖れてゐる、僞物プラスチックのパール。
 前へ、前へ。そして前の女が退く。ひゆーつと、線のやうに立上たちのぼる煙と、左右の炎が、眼と頰を火照らせた。ぎゆうぎゆうに敷詰められた、生々しい花の匂ひも少しした。どんと、目の前に。白い木箱に收められた彼女は、まるで等身大の人形のやうだつた――なんて言つたら、不謹愼だらうか? 外道だらうか? もしもつと「失禮」な事が許されるなら、身を乘出して、正面から彼女の顏を覗き込んだらう。傷は、あるか。表情は、あるか。冷凍庫に入れられてゐる間、傷まなかつたか。どんな風にして納棺師が死んだ人間を著飾つたか。僕が本人として、この心が透けてゐたら、惡趣味どころでは濟まさなかつたらう。であるならば、君は生返いきかへるか? 化けて出てくるか? ノーだ。もし幽靈が物事の眞實を見拔けてゐたなら――見拔けてゐたなら――
 僕が癡漢に加擔した事。
 都會での通學がこれ程に危險で不快なものだとは知らなかつた。そして僕が、これ程簡單に自分を確かめてしまつた事。さう、僕が確かめたかつたのは、君ではなく、僕だつた。「キモいよね」と得意げに語る君に、何を覺えれば良かつたか。翌日友逹と乘車してきた時、あの時曝されても良かつた、裁かれても良かつた、裁けるものなら。正しい罪名で。
 人間として、最低。否、僕は人間として、當り前の尊重を受けてはゐなかつた。だからだ。だからあんな事が起きた。僕が僕として公然と認められ、そのやうに扱はれてゐたなら、あんな事は起きなかつた。僕は、人として道を誤らずに濟んだ。自分を試さずに濟んだ。僕のした事の半分は、僕を僕として認めるといふ、そんな單純な事さへもできない、狹量な人間たちにあつた。あれは僕の悲鳴だつた。
 死。彼女は彼女として、生れた姿のまま、葬られる。「娘は」と親は落淚する。納棺師は紅を引く。住職は「尼」を附す。
 死。僕は生れたままの名前で呼ばれ、そこに附足つけたされた聯想れんさうに支配される。辱められた、彼女の氣持が解るなどと、僕は認めるわけにいかなかつた。
 抹香をつまむ。一囘、二囘――安らかに。
 もし幽靈きみが眞實の僕を見拔けてゐたなら、呪ひ殺せば良い。