「ごめんね、附合はせちやつて」
電車で東京に――故鄕
決してごみごみしてゐるわけではない坂に、私は出た。この道路の眞ん中の水路で、子供の頃は遊んだ。名前には櫻が附いてゐるが、ここに來るのは、決つて夏だつた。數年前――十數年前かな――には、父はちやうどお晝時らしいスーツの中年にトイレを讓つてゐた。その時はまだ、何とか栅を跨
東京
「お願ひします」
佛花は、目に著くところにあつた。白百合、胡蝶蘭も目に入る。テレビなどでよく見る、ガラスケースに入つた背の高い植物は、何といふのだらう。
「千二百圓になります」
どひやー。地元
「待つた」
相手は、門の前にゐた。オレンジ色のタオルを頭から被
「行かうか」
まだ父が元氣で若かつた時、⻝蟲植物を見に行かうか、と話してゐた氣がする。連れは珍寶閣
檀家以外立入るなといつた札を素通りし、墓の群れに入る。「皆に開かれてないのはをかしいよね」とは、父の談だ。階段の上には、金ぴかの御殿
「うちはね、線香は寢かせるんだ」
さう言つて、地元で買つてきた細身
花の莖を折つて花入れに差し、手首を捻
目を開けると、連れが橫で私を見てゐた。
「東京の人だつたん?」
「親はね」
私の父は、紛れも無く東京生れ、東京育ちだつた。だが、それを長々と話すつもりは無かつた――ああ、消えてしまふ。彼は半生を語り繼いだけれど、私は全てを覺えきれなかつた。子供の頃も、大人になつても。被つた話はそれ程無かつた。色んな地で語り明かした澤山の日々。私には無いもの。それが彈ける。無くなる。無かつた事になる。
「ここにはゐないけどさ」
私は言つた。
「私の前に一人ゐたんだよね」
「前に?」
思慮の淺い人間は嫌ひだけれど、そんな私事
「親は殺したんだけど」
「うん? うん、うん」
「別に責めてるわけぢやないんだよ、事實を言つてるだけ」
「うん」
「叔母さんの子供はここに入つてるけど、名前が無い」
「……ほんとだ」私は墓の裏を確認させた。
「生れないと生れた事にならない――お腹の中で生れてるのにね」
「うん」
又頭痛が始まつた。これも子供の頃からだ。
「……『どうしてそれ話すの』つて聞いて」
「どうしてそれ話すの?」
「だつて、私が話さなかつたら、その人の事知つてるの、親と私だけになるんだもん」
「それで?」
「つまり、私が死んぢやつたら、無かつた事になるつて事」
「父ちやんぼけちやつてるもんな」
「……」
私は、花束を包んでゐた紙を、手の中で握り締めた。
「だからつておいらに話す必要は無いと思ふな」
「一人でも多く……まあ慰めみたいなもんよ、私が先に死んで、そしたらちよつと厭な想ひをしたなといつか漠然と思ひ出す時があるかも知れないぢやない」
「そんな細けえ話、覺えらんないよ」
「私だつて覺えらんねえよ」
空を仰ぐ。かうしてぽかんとアホみたいに口を開けてゐると、よく父にからかはれたものだ。私も彼も年になつて、死を實感して、私は何も殘らない、忘れてしまふ事に慄
何も死への恐れは、今に始まつた事ではない。私はほんの小さい頃から死を恐れてゐたし、何とかして歷史に名を刻み込まうと、畫策してきた――そのどれも土壇場で逃出
「又コミケに出て、賣子
そんな言葉が、活力になる。
死にたくない。名も知らぬ人々は、確かに生きてゐた。そのどの一つも、無駄ではない。頭では解つてゐるけれど。けれど、どこか。私は消えるままを恐ろしく思つてゐる。
私が何の記錄にも殘らず、何も見せられるものが無いからと言つて、私が凡庸な――何もしてゐなかつたなんて、そんな風に思はれたくはない。人間の記憶は曖昧で、いつかは途絶えてしまふから。だから人は、書いたり、歌つたり、撮つたりするのだ。誰かに見てもらふ――そんな確證の無い欲求のために、あるいは、自分が生きてゐる間のせめてもの慰めとして。ただの紙切れに縋
この私を死なせるのは、餘りに惜しいから。
「少なくとも義理は果せたつて思ふ。今日のちよつとした時間に、私はその人をあなたの中に生んだんだ」