物としての「本」の權利

關聯:不自由な出版を拒絶する

展示卽賣會で著者が自主發行する本に、「フリーマーケット、オークションへの出品を禁ずる」といふ注意書きを見附けた。これはどういふ意味か。なぜ、を、フリーマーケットやオークションを介して他人に讓渡してはいけないのか。これが會員限定の頒布物、つまり特權に基づいて頒布された物ならばまだ理解できる。だが、特に規約等の明示も無く、不特定多數の人々に頒布された物に對して、讓渡した者が、讓渡後の物の扱ひにまで干涉するのは妥當なのか。

普通、本屋で買つた本について、讀むか讀まないか、ページに何か書込むか、破り取るか、複寫するか、枕にするか、カバーを附けるか、古本屋に賣るか、資源ごみに出すか、燃えるごみに出すか、道端に捨てるか、誰かに讀聞かせるか、讓り渡すか、などといつた事は、一部法律で制限を受けてゐる行爲はあるものの、殆どは本の讓渡者(あるいは著作物の權利者)が口出しできない事だ。

作品と本の混同

本を古本屋に賣つたからといつて、作品の著作權が移行する事は無いやうに、作品と本(物)の權利は異なる。本は、作品を鑑賞する機能を備へた「物」であつて、鑑賞する以外の機能も備へてゐる。その活用の仕方について干涉を受けないからこそ、私たちは平穩な生活を送る事ができる(私たちは自立した人間の證として、自分の所有物を責任を持つて管理する)。敢へてその權利に變更を加へようとするならば、その必然的な理由と、當事者の合意が無ければならない。

「鑑賞(アクセス)の制限ができる」――讀者の所有物にまで一方的に干涉できる――同意が成立してゐるといふ前提、つまり、作品と物の權利の混同が作家の中に起きてゐるのでは、と私は考へる。その發想の基礎は、Webといふ媒體の性質にあるだらう。これは利用してさへゐれば規約に同意した事になるし、アクセス制限はシステムによつて容易に逹成できる。インターネットユーザーにとつて、讀者の選別や、鑑賞の制限は「普通の事」なのだ(アクセス制限はWeb黎明期からあつた事で、その頃から「無意識的」で「當り前」、著作權者が讀書を制限する事は正當であるといふ風潮が存在してゐた)。

讓渡に條件があるなら、讓渡前に明示すべき

「商品」としての本は、契約書や說明書とは性質が異なり、讀者に讀む義務は無い(購入したとしても)。本は讀まれる事が主目的だけれども、備へた機能を活用するかどうかは所有者の自由であり、特定の目的に沿つて活用しなければならないとする根據も無い。だから、讓渡時に交はされるのは、特に申出が無ければ讓渡に關する契約のみである。慣習的に言つても、私たちが日常的に負ふ本の管理は先述の通り自由度の高いものであるし、「本を買ふ」といふ行爲にはその前提がある。それが自主販賣の現場だからといつて、イベントの主催者や本の讓渡者が條件を明示しなければ、私たちは「日常の行爲」の延長として本を買受けるだらう。

本の讓渡者が最もしなければならないのは、なぜ所有物を管理する權利に干涉するのかといふ說明と、アクセスや管理に條件がある事を、讓渡する前に明示する事だ(讀者は、その條件も含めて、購入に價するか檢討する)。

條件を知らなければ條件を守る事は不可能なのだし、本の讓渡者がどれ程眞劍に自分の言葉と、讀者とに向き合つてゐるかが、ここで判然とする。不親切さや錯誤によつて利益を得ようとする事は、表現を生業なりはひとする作家の裏切りで、不誠實である。

「作品と讀者を制御したい」といふ欲求は、不自由なサービスの思惑によく合致してゐる

ああ、讀書用の「本」でさへも、買つたのなら何らかの約束に同意した事になつてゐるのか?
不自由な讀書サービスが推進めてゐるシステム(例:DRM)や思想は本當に害惡だ。私たちから古本(再使用)の選擇やプライバシーを奪ふだけでなく、創作家の思考まで歪めてゐる!

元々作家がさう考へてゐたといふよりも、不自由なサービスを利用するうちにその獨占的手法を「學び」、效率的に稼ぐ「妥當な手段」として認識していく、といつた方が良い。賣つたり、捨てたり、あるいはただ所藏するといつた「本の顚末」について、作家も出版業者も、“問題”と認識してゐたとは思へない。獨占する方が儲かるから、「何もしない」のは「儲けられなくて困る」といふ事に過ぎない。

DRMについて:

媒體としての本

所有の權利を矮小化された「本」は、媒體メディアとしても物としても、短命で窮屈なみちを辿る。そこまでして得ようとする利益とは何か、誰のためだらうか。