美よ、その價よ

オフライン活動の感想と撤退理由では金々と連呼してゐるが、まあ、金が無かつたんだ。必要な物が買へないくらゐには難儀してゐた。一囘のサークル參加に係る經費を計算してから、愕然として、年一囘の參加で限界だと氣附いた(實際、COMITIA152の活動費は貯金を崩してゐる)。更にはカタログや同人誌も買ふわけだから。

で、さう言へば質素に生きるのが目標だつた、と思ひ出した。Leo Babautaは物を買ふ事で問題を解決しようとするな(解決する事はできない)と散々言つてゐる。その通りだと思ふ。大抵は僞の欲求、その場限りの逃避に過ぎない。作家はブチ切れるだらうが、我々は藝術さへ買はずに濟ませるべきだ。どの道私には讀みたい物も無いし、金すらも無いし、でも頭は働かしておきたいから、圖書館で借りるか黃ばんだ古本を安く買つて、少しづつ讀んでゐる。刺戟が欲しければ、美術館に行けば、千圓以下の入場料で靜かにゆつくり作品を觀られる。

衝動がコントロールできず、金の計算もできないなら、ショッピングモールや卽賣會には行くべきではない。段々と慣れてきたつもりだつたが、そんな事は無かつた。コミティアの見本誌読書会は「見る」だけで濟ませられるが、その負擔に對して「酬われて」ゐるだらうか。さう、どのやうなイベントにしても、東京、東京ばかりで、交通費、時間、疲勞が掛つて仕方無かつたのだ。私は近所で暇を潰す(樂しみを見出だす)べきだらう。

同人は買ふにしても、賣るにしても、金が掛る。生活のままならない人間がどつぷり浸かれるやうな趣味ではない。冷靜になつてみれば、、讀まなければ(讀ませなければ)ならない本など一册も無いのだ。私はただ、正氣を保つために書續ける。

Eテレのno art, no life濱中はまなかとほるが「都市には綺麗なものが澤山あるが、どれも値札が附いてゐる」といふやうな事を言つてゐた。確かに——私が既成の藝術や物に抱く違和感、虛しさといふのは、そんな感慨から來てゐるのかも知れない。