權利の抛棄は、公募を始めとした權利の獨占とは對極だと何度も言つてゐるのに、私はそれに囚はれてゐる。
考へてもみれば、僅かな賞の獲得にしか作家の道が無いといふのは、非效率的であり非生產的であり、非常に近眼だ。Googleにひれ伏し、收益どころか魂さへも委ねるブロガーたちと何が違ふだらう?
……無論文壇には文壇の役割があり、誰も彼もに書かせたならどうなるか、といふのは、既にこのWebが答へてゐる。檢證し、思考し、削り出す、眞に誠實な文章が成熟するには、探求が要るのである(或いは天啓が)。だから、その質の爲に篩が掛る事は、否定しない。寧ろ、この國の文學を保つていくには、必然の過程
しかしながらその質の篩と、書續ける事、收入を得る事は全く別なのである。書續けるだけといふならどんな狀態でも出來るし、收入を得るには、工夫は必要ではあるが、Webが發逹した事によつて、手段は多樣に增えた。
——儲けたいとか歷史に遺りたいとか言つた慾には挌鬪するしかないが、少なくとも、作品を書く事、(公的ではなく、永續性は無いものの)その記錄を遺す事、權利を手放す事は、誰の認可も要らなければ、特別な技倆、特別な時間、特別な道具も無いままに出來るのである(生活する爲の衣食住、コンピュータとインターネット環境は必須であるが)。
自分の世話を燒きながら、その延長として出來る事。
今の私にはそれが向いてゐるし、でなければこの心も亡くしてしまふだらう。
樂しみの代償としてその例外を認めつつあるが、私は原則として、權利の抛棄と記錄、そして書ける事を書いていく事には、固執していきたいのである。
せめて、妄コンくらゐは樂しませてくれ、と言ふだけで。言つてみれば、私にはその程度のコンテストにしか參加する技倆は無いし、又その資格も無いのである。——その許可を下ろすのは、紛れも無くこの私自身である。
私は、私がさうしたいからさうしてゐる。
權利の抛棄も相俟つて——元から、私に見返りなど無く、求めやうも無いのである(他人に對する禮でもなく、無條件に與へるでもなく——)。
それが私の選擇だ、私の魂の指し示す方角だ。後は餘計な、些末な事なのだ。
賞との狹間ででも述べた通り、それはコミュニティに寄與する事を意味してゐる(文壇、出版社、讀者等)。
又、一般に公募(特に新人賞)は賣りに出す爲の原稿を定期的に書く作家を發掘する爲の賞であり、私のやうに實力を試したいだけの者、寡作な者、他者との協力を拒む者(原稿は編輯や校正等、それぞれの分野を受持つ者たちとの合作である、といふ事を理解してゐない者)は視野に入れてゐない。我慾の爲に應募する事は、誠實な書き手の邪魔をする事である。
言つてみれば、私は書く事によつて生きていきたいと願ふ先、作家になつた未來の姿に、讀者によつて生かされてゐるといふ自覺が伴はなければ、商業作家としては失格なのだ。讀者の視點を缺いた者は死ぬ。そして、讀者に與へる獨自の自分を見失つた者も、死んでいく。
エブリスタ主催三行から参加できる 超・妄想コンテストの良いところは、上述に擧げたやうな、商業作家を探してゐない事にある。出版社が眼を附けてスカウトする、といふ事はあるかも知れないが、主催するエブリスタ自身は、書籍化も作家デビューも揭げてゐない。賞の幾つかに賞金と選評を與へるのみである。實力を試したいといふだけならこのくらゐの方が良いし、商業を目指してゐる熱心な作家の邪魔をする事も無い。育てるとまではいかないが、作家の意慾を搔き立てるには充分だ。
その決定的な差——他の投稿サイトや、ユーザーの自主企劃との違ひは、きちんと賞金を出してゐる(出せてゐる)事だらう。加へて、商業作家になるといふプレッシャーが無い事で、(プロになる氣はない)アマチュアの密かな欲望を上手く滿たしてゐる。このエブリスタといふ投稿サイトの手腕であり魅力だ。であればこそ、ちまちまとした不快な弘吿を一方的に責めようといふ氣にはなれないし、駄目だと思へば意見しようといふ氣になれるのだ。運營が弘吿を出す=ユーザーの行動で儲けてゐる事の理由がはつきりと確信できれば、その抵抗は低くなるのである(エブリスタの場合、定期的に開催する妄コンの賞金を捻出するのに必要なのだらうと。無論弘吿の收益が賞金の資金源になつてゐるかは定かではないが、推測も同情も出來る)。そこが同系統のサイトとの違ひであり個性、見出せる役割、(利用する)動機である。