例へば何らかのアカウントを取つて何者かになる事や、何らかの賞を取つて華々しい經歷を書連ねる事。

私には常に、があつた。それは、第三者から見て確固たるになる事、を意味してゐる。


奧樣は眞魚を書いて思つたのは私に企劃力など無い事、なろうに投稿して判つたのは他人の眼を氣にしてしまふ事、妄コンに應募して判つたのは、非常に氣が短いといふ事だ。

私は手つ取り早く稱讃を得ようとしてゐる、何かから。


所感を書いてゐて思つたのは(今年も書いてゐる)、私は感想を書くのが下手といふ事だ。第二十七回文学フリマ東京イベントレポート感想と稱して購入した書籍に酷い物を書いてしまつたのは、申譯無いと思つてゐる。感想と言ふには癡がましくはしたない――それは文章の質といふよりも、感想の質そのものだ。私はんでもゐないのに書いてしまつたのだから。作者の意圖を汲む事が出來ない。表面しか讀めない。それが私の劣等感コンプレックスであり、罪惡だ。自分で物を書いてゐるにも拘らず、である。私は恥曝しだ。作家の風上にも置けない。恥づかしい。

でも書きたいし、私は自分の琴線に觸れた、美しい作品を記錄に留めておきたいのである。


態々これからかう活動しますと書くのも馬鹿々々しい氣がする。一年かう、と目標を定めても、その時の氣分で二轉三轉し、今も作品を引延ばしてゐる。

Webで表現出來るものは自分のサイトで表現していくので、これ以降、參加する企劃などは紙媒體等(主にみんかな)になつていくと思ふ――これもどこかで繰返し書いてゐる事だけれど。好奇心で突つ込んでも後悔する事が多く、要するに私は期待し過ぎてゐるのだらう。自分の氣分を晴らす卽效性の特效藥を求めてゐるのだ。そんなもの無いのにも拘らず。


私は嫉妬してゐるのだ、ちよつとしたが附いた作家たちを見て、怯えてゐる。自分が取殘されてゐる氣がしてゐるのだ。確實な利益が欲しいとか、他人に示せる成績が欲しいとか。マンネリや逃避といふのもあるのだらう。

私は注目を集めてどうしたいのだらう、何が出來るのだらう? 人がだれかを見る時、人は何かを期待するものだ。その期待した何かが形になつて、コミュニティが形成される。私がコミュニティを厭ふ理由は、ここにあるのかも知れない。私は何も出來ないから。

テーマから何かを書かうにも何も書けない、自分の貧弱な發想力と怠惰が露呈するだけ、私はそれに滿足出來ないまま、何もしない。文學界を見初めてみても、規定の七十枚を前に、何も書けない。野望はある。かういふ本を書いて、かういふ視點を稱讃されて、かういふ作家になつて。でも、摑み所の無いだ。それ自體物語に出來たなら、どれだけ良いだらう。私がかうして書くのは、小說を押して悔しくも書いてしまふのは、ある種の決意や逡巡、通過點を書留めておきたいから。讀返さないから意味は無いけれど、かうして思考の纏りがある事に、意味がある。私は書きながら考へる。感じる。表明する事で自分を確かめる。


公募に應募して賞を取る必要も無いし、他人に認められる必要も、示せるを持つてゐる必要も無いのだ。

この心があれば生きていけるし、物も書ける。

それ以上を求めるのは、先に何かがあるから。あるやうに見えるから。例へば、月に三萬圓――妄コンの大賞賞金――が入れば儲けものでない、生計は立てられなくても、働く時間は減らせるかも知れないな――さう思考してみても、わくわくする域には運ばれないのだ。

皆が私を知つて、注目されても、私は耐へられないかも知れない。逃げてしまふかも知れない。しかし一方で、一般人では到逹出來ない未踏の領域を、知る事が出來るかも知れないのだ。

――何も、何も判らない。期待だけがある。盲目なだけがある。

私は何者。私は何を所有してゐる。

自分を强く見せようとするのは、喰はれるのが恐いからだ。

私に敵は無く、言はば夢そのものが敵に見せる。


Kindle作家だとか、通信販賣だとか、文壇だとか、寄附だとか。

總てが厭はしい。

私には、總てが適切でないやうに思へる。

或いは既に、總ての人がさうか知れない。適切でない

生きた心地、しつくりと來る、魂が定著した感覺、私たちはそれを求めてゐる。


私は魂が定著した文章が書け、あなたらしいねと言つて貰ひたいのだらう。


私は隨筆を書くのが厭はしく、小つ恥づかしく感じる。(小說なら書けた筈の)が書けないからだらう。私自身の言葉として配信(背信)されるからだ。


私は諦めて來た。淀んだ水に、繪の具を垂らすのは容易だ――

何故諦めて來たかと言ふと――事態を收拾出來ないといふ豫測があるからだ。それに私は無知で、その爲にきず附く事を恐れてゐる。自覺させられるのが、一番恐いのだ。自分にとつての善意が、自分にとつての惡意とは、何とも皮肉なものだ。

或いは收拾する必要など無いかも知れないが――


みんかなに投稿する事も又、注目を集めはしないか。そんな懸念もある。が、何が出來ようとも。

みんかなの需要(趣旨)は當り前で在る事(=當り前である事の實現、普通に暮す事そのもの)であつて、少數者として振舞ふ事(=少數者であるといふ主張、その狀態に留まる事)ではない。確かに現實には少數であるかも知れないし、その爲に得る特有の體驗もあるかも知れないが――私は少數で在るといふ事に價値を感じないし、自分を少數者だとも思つてゐない(自分が少數者か、と考へる時、私は自分が特別であり、特別な扱ひを受ける事を期待する)。

みんかなに投稿してゐるのは、無條件で册子に揭載して貰へるといふ事と、かなづかひに關心があるからだ。正直言つて續ける爲に續けてゐる行爲だし、大して利益も無いのだが、サイトの外に活動――居場所を持ちたい、といふのも事實なのだ。ある意味で、Webの入口と出口を求めてゐる。はなごよみや他の投稿者とは何の交流も持つてゐないし、原稿が讀まれてゐる感觸も無いし――本當に、何かしてゐるといふ事實だけが、私は欲しいのだ。これもの掛橋の一つである。みんかなに投稿する事で、何者かになつてゐる、といふ期待がある。


やましい。凡俗は盡きなくて、私は夢を彷徨ひ續ける。

人は、生きる限り夢を見るのだらう。


私は何者か。

問ひ續けるし、求め續ける。


その度に、私は無力で、無能だと知る。