變らない人々、變らないWeb

ダークネットはWebサイトを救はない

プライバシーといふ一點で見れば、ユーザを追跡し難くなつた事は大躍進だらう。だがWebサイトのアクセシビリティは? ユーザビリティは?

Webサイトの改善は全く見込めない。なぜなら、クリアネットの慣習をそのままダークネットへ持込むに他ならないからだ。同時に、これは良い例だ——如何なる技術も、使ふ人々に良識が伴はなければ、解決策にはならない。

現存するダークネットの個人サイトを見よ。この幾らに救ひが期待ができると言ふのか。

ここや記號のリンク、畫面を埋め盡す畫像、入口ページ……。JavaScriptやトラッカーに溢れ返つたコンテンツよりましにしろ、それが主流になるまで時間は掛らないだらう。人が集まると確信できれば、人々は既存のサイトをダークネットへ複製するだけなのだ。なぜこれが希望の兆しだと言へるだらう?

人々が學ばなければ(あるいは狂亂しなければ)、革命は起らないのだ。秩序は制限のある中で、そしてそれを實踐する人々の良識と共に存在するのだ。その期待が持てないからこそ、GopherやGeminiといつたテキスト主體のプロトコルを施行する人々がゐるのだらう?

輕んじられるハイパーリンク

あるサイトの/about/linksとは一體何を示すのだらうか。私が見る限り、それはファイルパスでもなければ、何らかのコード片といふわけでもなく、單なる目次のリンクだつた。これはどのやうに參照されるのだらうか。例へば、讀上げソフトはどう讀むのだらうか。斜線(スラッシュ)アバウト? スラッシュ、リンク? このスラッシュとは何なのだらうか——さう、文脈とは何の關係も無い。言語ではない情報ではない裝飾である。スタイルシートでa::before{content: "/"}と書くのが適當ではないだらうか?(人によつて意見が分れるかも知れないが、參照される手段が限定されないからこそ、かういつた言語體系から外れた表現といふのは、Webでは元來難しく、愼重に判斷する必要があるのだ——我々が多くのユーザはブラウザで參照するだらう、と期待する時、それは良くない兆候なのだ)

Webリング

<>?とは、何を示すのだらうか。<>は特定のサイトへのリンクのやうだが、?ランダムなサイトへのリンクのやうだ——これに何の意味があると言ふのだらう? 思想を共有するサイトへのリンク? では參加するサイトの一覽にリンクする事はできないのだらうか? 竝び順には何か意味が? なぜサイト名でリンクしないのか? なぜ行き先の判らないリンクを設けるのか?

リンク集

又、あるサイトのリンクページにはサイト名(あるいはバナー)のみが列擧されたリンクが澤山ある。このリンク先は? 何があるのか? 今參照してゐるサイトとどう關係してゐるのか? なぜリンクしてゐるのか? 私は情報を求めてゐる——膨大な數のサイトから、合理的に訪問するための基準を。安心するための材料を。

ユニバーサルアクセス

Webサイトを壞してゐるのは、我々である(一つの例外も無く)。Webサイトの構成に對する無關心が、ひいては人間に對する無關心がこれを引起すのだ。これがWebだ! 人間が變らなければ何も變らない! ユニバーサルアクセスは叶はない! あらゆる人々に開かれない!

ダークネットの個人サイトを見て、どれだけ私は引き攣つたらう。又、Neocitiesで公開されたサイトを見た時は、ゾッとしただけだつた。Webには遙か昔から惡質さがあり、その惡質さを懷かしむ人々がゐるやうにしか見えなかつた。希望は無い。燃料は何も無いのだ。私は靜かに、Webがあるべき姿であるやうに、マークアップするだけだ。


結局の所、ハイパーテキスト/リンクを輕んじるなら、Webが救はれる事は無い。

JavaScriptが無效でもアクセスできるやうにしませう、さう聲高こわだかに訴へる動きはあるが、それが單にブラウザでサイトを表示できる事だと勘違ひしてゐる人もゐる。人々はユニバーサルアクセスへの視點と、Web向けのライティングを學ぶ必要がある——どうしても! いやいや、發展途上なのは、いつだつて人間なんだよ。

參考リンク

後書

全てはWebの特性を知る事から始まる

今から20年前でさへ、酷いWebサイトは溢れ返つてゐた。テーブルレイアウト(全てを否定するものではないが)、點滅や移動する文字、見えない文字、カーソルの變更、固定ウィンドウ、固定フォント、新しいウィンドウ(ポップアップ)の强制、preタグで圍まれたページ、弘吿など。サイト作りを覺え始めた私は、できる事が增える程喜んでゐた。HTMLはレイアウトを實現するための記號でしかなかつた。變化の兆しは、神崎さん、Jintrickさん、野嵜さん、北村さん、他Web關聯のサイトを訪れてからだつたと思ふが、インターネットの初期の初期から正しいWeb——私にとつてはユニバーサルアクセスを指す——を訴へてきた人々がゐたにも拘らず、Webはここまで來た。今のWebは正氣ぢやないと主張してゐる人々でさへ、上記のやうな始末だ。ダークネットだらうがXHTMLだらうが、學ばなければ何も變らないのだ。


私は現在ユーザースタイルシートでサイトの外觀を固定し、最近は畫像すら非表示にしてゐる。かうすれば皆(幾らか)讀み易い、テキスト主體のサイトだ。Webのこの柔軟性だけは昔から變り無い利點だ。

サイト制作に關しては、スタイルシートも指定せず、ユーザースタイルシートを提供するだけで良いのかも知れない。私はサイト制作者のスタイルシートより、ユーザが使ふスタイルシートを普及させたい(Webの强みを知つてもらひたい——元來Webとは、サイト制作者に服從する必要の無いものとして働くのだ)。

Webをナビゲートするソフトウェアが未だに存在しない

HTMLのマークアップは本當に難しくて、特にパンくづのやうなナビゲーションは惱むのだ——元來ナビゲーションはUA(ユーザエージェント)が擔ふ筈だらうに、ナビゲーションを提供するUAが存在しないのだ(例へばa要素のrel屬性をインターフェースに反映したGUIブラウザは、私が知つてゐるだけで、Prestoエンジン時代のOperaだけだつた)。もしナビゲーションを手放しでUAに任せられるなら、私は文書として不自然なパンくづナビゲーションなど記述する必要は無いのだ。

マークアップの任意性が高いのも問題だらう。rel="next"が續き物の關聯文書なのか、單に時系列順の新しい(古い)文書なのか、UAには判斷つかないのだ(そして我々は、ブログのテンプレートなどから、その必然性を問ふ事も無いままに、前後の記事にリンクする義務を學習してしまふ)。

提供されてゐるメタ情報を上手く扱へるUAが存在しない事、又閲覽者が必要としてゐる情報を提供する仕樣が無い事が、Webの混亂(未整理)の原因でもある。


階層を辿るといつた事でさへ、未だURIを削つた方が確信が持てる。

餘談として——機械での處理が合理的だつたとしても、URIが人間の目に觸れ、操作の對象になるならば、短く可讀性が高いに越した事は無い。onionドメインの(言語として)無意味で長々としたドメイン名が嫌ひな理由もそれだ。適切なリンクテキストと參照に足る動機附け(リンク先の豫測)が無ければ、ユーザは參照を躊躇ふだらう。


主觀的なリンクテキストや註釋型のリンク(文脈を補完するために、文章ではなく番號で補足へリンクする)も難しい課題だ。番號でのリンクは不適切だらう(リンクを抽出した時の事を考へなければならない)。

XHTML?

Shadow Wikiのブラウザ紹介ページではXHTMLを推奬してゐるが、なぜ推奬してゐるのかがよく解らなかつた。Shadow Wikiが參照してゐるOpen Letter To Webmastersにしてもかうである:

Please do not rely on features only available in the latest version of ECMA. Please do use polyfills and graceful degradation. Please use XHTML1.1 and XHTML1.1 BASIC wherever possible instead of HTML5. With XHTML1.1 you actually can run an XML validation tool such as the W3 Validator and it will tell you if your site is valid and will work on every browser or it's malformed. There is no in-between with XHTML. It's either correct or it's not, unlike HTML. See the Any Browser Campaign for more information on this and examples of more sites using XHTML.

Any Browser CampaignXHTMLで內部檢索したが、ヒットする文書が見附からなかつた。殊更XHTMLを推奬してゐるわけではないやうだが。

10年以上前にも仕樣の嚴格さを理由に推奬してゐた人々はゐたが、Jintrickさんが指摘してゐた事、互換性ユーザの實質的なメリットは解消したんだらうか。私はWebについて日夜情報收集をしてゐるわけではないが、今日に至つて、XMLである事のメリットを利用するユーザが增えたとは思へない。文書が正しい(validである)事の恩惠は、機械と人間が相互にアクセスし易くなる、つまりユニバーサルアクセスに直結する事なのだが、XHTMLはそれにどう寄與するのだらうか。HTMLで正しい(valid)文書を提供するのとどう違ふのだらうか? 上記の文書では、XHTMLの嚴格さについてしか觸れてゐない。


私が提供してきた文書は全てがタグを省略したHTMLだが、Validatorはvalidだと判斷する。なぜなら、仕樣通りに書いてゐるからである。


これは文書型や嚴格さについてといふよりも、恐らく、仕樣についての抵抗なのだ。HTML5が肥大化してゐるのは認めるが——HTMLとXHTMLが別物である以上、仕樣が氣に入らないといふだけで選擇できる問題でもないのだ。互換性は時間と共に解消できるかも知れないが、では(互換性の差を讓つて)他にXHTMLを選擇する前向きな理由があるかと言へば、無い。HTML5の仕樣が氣に入らないだけなら、Jintrickさんのやうにsupersededといふステータスを無視してHTML 4.01を選び續ける事もできるし(實害は無い——Webは時間の經過に耐へ得るメディアであり、過去の仕樣はサポートされ續けるか、でなくとも參照自體は可能だからだ)、何ならISO-HTMLもある。


will work on every browser:既にHTMLが逹成してをり、これはメリットといふよりも前提なのだ。あらゆるブラウザ(every browser)がアクセスできないのは、HTML(マークアップ言語)のせゐではない。アクセスを妨げてゐるのは、技術の不適切な利用の仕方である。XHTMLでもアクセスを妨げる事は可能なのだ! 專ら必要なのは、マークアップをする人々がアクセシビリティに配慮し、Web向けのライティングを學び、適切な情報提供を行ひ、自他の影響力を自覺する事に他ならない。


It's either correct or it's not, unlike HTML.:validかさうでないか、はHTMLも同じである。HTMLの柔軟性もしくは互換性についての批判なのだらうが、それがどうハイパーテキストの——ユーザのアクセスに影響を與へるか——アクセス性の弊害について、Open Letter To Webmastersでは明瞭に書かれてゐない。invalid(不正)な文書がアクセスを妨げてしまふのは自明の事實であり、これはHTMLもXHTMLも同じで、どちらもValidatorで檢證可能である。異なるのは、文書がinvalidの場合(UAにもよるが)XML文書が解析を止めてエラーを通知するのに對して、HTML文書は(invalid部分も含めて)全體にアクセスできる可能性が高いといふ事だ。アクセス性といふ一點で見れば、明らかにHTMLの方が有利なのだ。確かに省略したタグの解釋について不安な部分はあるが、アクセスを致命的なまでに妨げるものではない、と私は考へてゐる(私は妨げられた經驗が無い)。それが心配であれば省略せずにマークアップすれば良い。省略をせずにマークアップしたHTMLとXHTML、この兩者のアクセス性の差に關して劇的な違ひがあるのか、私は知らない。


文書型の選擇で重要なのは、Webの理念——ユニバーサルアクセス——を成し遂げるかどうかであり、嚴格(strict)か、はその簡單な基準に過ぎない。正しく、嚴格な文書がアクセスを破壞する事も可能である事を一考すべきだ(輕んじられたハイパーリンクを思ひ出して欲しい)。重要なのはどうコンテンツを提供するかであつて、本當の選擇基準は、コンテンツを最もアクセシブルにする文書型/仕樣、である筈だ。Shadow WikiOpen Letter To Webmastersの主張が、HTML5はアクセシビリティに缺ける(アクセシビリティに配慮したコンテンツの制作が難しい)といふ事ならまだ理解できる。さうならば、アクセシビリティに影響を與へるその根據、考へ方を書いて欲しかつた


サイト制作者やユーザがXMLでしかできない利用の仕方をしないならば、XHTMLに移行する理由は殆ど無い。とは言へ、ここ10年、20年でXHTMLの利用にどう變化が起きたか、私は知らないままだ。しかし、HTMLのサポートが望めないなど——要するにアクセスに弊害が出る、といふ明確な將來像が見えない限りは、わざわざ移行しようとは思はない。既存のHTML文書をどうするかといふ問題もあるし、XHTMLをで修正する事は不適切であらうからだ(Jintrickさんの言ふ通り、機械に處理させる方針轉換が必要だらう)。


マークアップは、どのやうなコンテンツをどのやうに提供するか、に依存する(目次をリストで提供する人もゐれば、表で提供する人もゐる)。技術の濫用がある一方で、何をどう提供するかはサイト制作者それぞれで異なり、判斷する事だ。特定の發信方法を盲信すべきではない。サイト制作者は、自發的で獨立してゐるべきだ——何より、コンテンツとユーザに責任を果すべきだ。


時間の經過によつてコンテンツがアクセス不可能になるのではないか、と心配する人は、HTML 4.01文書を參照してみると良い。

勸吿から25年、最新の仕樣が取つて代り4年——參照に問題があるだらうか? 4.01は廢止されてゐるわけではないし、supersededへ改訂されて日も淺く參考にならないかも知れないが、仕樣の叩き臺になるには充分な普及/經過だつた筈だ。

互換性の點から言つて、リンク(a要素)、段落(p要素)、リスト(uloldl要素他)、引用(blockquoteq要素)、表(table要素他)、强調(emstrong要素他)のサポートをUAが打切る事は考へ難い。逆に言へば、HTML5のやうな肥大化した文書型でも、これら歷史的なタグを中心にマークアップすれば、互換性/アクセスを保てる可能性は高くなる。


そもそもWebは時間の經過を念頭に置いたメディアなのだから、サイト制作者は(文書型に關して)何も心配する必要は無いのだ。發表した何千、何萬といふ文書を數年ごとに書換へる事は、どう考へても合理的ではない。

マークアップ言語の正しさvalid嚴格さstrict如何なる文書も逹成できる基準

纏めると、嚴格さは文書型の性質であるにしろ——正しい(valid)か嚴格(strict)か、はマークアップの結果であつて、文書型の選擇とは何の關係も無い


餘計な要素が無いシンプルな文書型を選擇すれば、Webサイトが改善されると思つてゐる人もゐるかも知れない。だがシンプルな文書型が主流になつたとしても、人々はその制約の中で餘計な事をするだけだ。HTML 4.01時代でさへ良質なWebサイトはそれ程多くなかつたのに、XHTMLに移行しただけで改善される筈が無い。XMLの特徵である獨自擴張でアクセシビリティを低下させる事だつて可能なのだ。すると今度は勝手に擴張できるからダメといふ事になりかねない。


核心はアクセス可能性にある。文書型や仕樣の批判は結構だが、正しさと嚴格さは選擇の焦點ではない——いや、訂正しよう。例へば私の場合、XHTMLの嚴格さに合せる事が困難なため、HTMLを選擇してゐる(手動での編輯)。文書型が複數あるのは、コンテンツのアクセス提供を容易にする——ユーザとサイト制作者、雙方の負擔をできる限り無くすためだ。だから何度も述べてきた通り、どの文書型が適切かは、サイト制作者に依存するのだ。一槪に推奬できる文書型など無く、精々環境による向き不向きを主張する程度に留まるだらう。

2022年4月23日:validでもstrictでも、文書の質が期待できない例

Shadow Wikiブラウザ紹介ページの見出しのマークアップ:

<h2 class="title" id="LongVersion"><del>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</del> Long Version <del>&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;</del></h2>

del要素は文書から削除された內容を示すが、要素內には空白文字列しかない。つまり情報としての意味は無く、制作者は裝飾としての役割を期待してゐる。文書はvalidでstrictだが、このやうな裝飾の混在は、XHTMLの趣旨ではない

(X)HTMLにおけるStrictとは、文書と裝飾の分離を指してゐた。だからHTML 4.01 StrictやXHTML 1.0/1.1/Basicでは、font要素やcenter要素等、外觀を制御する要素・屬性は廢止された(この事實、そして仕樣書の註釋から推察できる事は、如何なる要素にも、裝飾的內容を含む事は不適切だといふ事である)。裝飾の分離を徹底する事によつて、情報の混亂を最小限に留め、如何なる環境でも同等の情報を取得できるやうにする。ユニバーサルアクセスの推進は、XHTMLの狙ひだつた。

この趣旨、經緯を理解してゐれば、裝飾目的のマークアップは成立しない筈だ。


UAは空白を表示してdel要素がある事をユーザに傳逹するが、ユーザは混亂するかも知れない。そこに期待できるテキストなりリンクなりが存在しないからだ。ユーザによつてはバグかどうかすら判斷つかないだらう。視覺表現ブラウザにとつては比較的無害だとしても(制作者の期待)、ユーザに無用な期待を持たせたり、混亂させたりすべきではない。

スタイルシートを用ゐるべきだ:

h2.title::before,h2.title::after
{
    content: "------------";
    letter-spacing: -2px;
    font-weight: normal
}
h2.title::before
{padding-right: 6px}
h2.title::after
{padding-left: 6px}

制作者はNAMACといふMarkdownコンバータ(變換器)を使つてマークアップしてゐるやうだが、記法を裝飾に用ゐてゐるか(~~見出し~~といつた感じで)、手動でdel要素を追加してゐるのだらう。


上記の通り、strictな文書型(Shadow WikiはXHTML 1.0 Strict)でvalidだとしても、マークアップが仕樣に準據してゐる(仕樣の趣旨を實踐してゐる)とは限らないのである。

2022年4月23日:互換性:アクセスに確信が持てるか

昔のInternet ExplorerやFirefoxは、XHTML文書を開くとプレーンテキスト(ソース)を返したり、ノードツリーを表示したりしてゐた。XHTMLが普及しなかつたのは、XML/XHTML文書に對應するUAが少なかつたからだ(でなければ知名度、素人にとつては嚴格さ)。

XHTML 1.0文書は互換性ガイドラインに準據してゐればtext/htmlとして提供できるが、XHTML 1.1文書は主要メディアタイプ、application/xhtml+xmlで提供されるべきである(should)。HTML5が勸吿されるまで、UAの對應に確信が持てないサイト制作者はXHTML 1.0を採用してゐた(恐らく)。XHTML 1.1文書をtext/htmlとして提供する制作者もゐた(XMLとして處理されない)。


XHTMLはユニバーサルアクセスを志向してゐるが、今尙問掛けられるのは、對應するUAがあるか?といふ事である。デスクトップのグラフィカル/テキストブラウザ、リーダ(讀上げ)、モバイルやその他の環境のUAは? application/xhtml+xmlを解釋し、XHTMLとして處理できるだらうか?

アクセスに確信が持てない點がXHTMLの最も厄介な點であり、幅廣いアクセスを可能とするのであればHTMLが無難、といふのが2000年代當時の、Jintrickさんに觸發された私の所感だつた。


今はどうだらう? 後方互換性を優先するなら、XHTML文書を仕樣通り提供する事は嚴しくなる(HTML互換にすると、XMLとしての利用はできない)。

如何なるUA(Any Browser)とXHTMLの兩立は容易ではない。妥協は必至だらう。


UAの一例として:

XHTMLとして處理されるか

文書を參照できてもHTMLとして處理されるなら、Open Letter To Webmastersが主張する前提は無くなる(It's either correct or it's not, unlike HTML.)。例へば整形式でなかつたり、タグが大文字であつても、UAは不正(invalid)と判斷しない。これは單にXHTMLをHTMLの代替として利用してゐるなら問題は無いが、名前空間の併用やモジュールの擴張等、XMLにしかできない處理を期待してゐる場合、致命的な缺陷となる。

XHTMLを推奬する意圖はどうあれ、それはXML/XHTMLを適切に處理できるUAの存在が前提にあるのである。


With XHTML1.1 you actually can run an XML validation tool such as the W3 Validator and it will tell you if your site is valid and will work on every browser or it's malformed.と言ふのは、誇大弘吿ではないか。XHTML 1.0/1.1/Basicがsupersededへ移行した以上、XHTMLに對應するUAが增える見込みは無い。確かにLiving StandardでもXML構文は可能だが、HTMLの方が(アクセスの確實性から言つて)遙かに安全だと言ふのに、XML構文を用ゐようとする制作者が幾らゐると言ふのか。無論既存のXHTML文書を切捨てるわけにはいかないため、(小規模な)UA開發者はHTMLとして處理する事によつて、互換性を逹成しようとするだらう。DilloやNetsurfがさうしてゐるやうに。

サイト制作者もさうだが、特にUA開發者がXHTMLに對し、HTMLの代替——HTMLとして處理できれば良いといふ態度で臨むなら、XHTMLの實質的な普及は有り得ない。(UA開發者を責める意圖は無い。UAには目的、設計思想、想定ユーザがあるからだ。今の所、XHTML文書をHTMLパーサで處理するUAについて、批判・擁護するだけの辯を、私は持合せてゐない。だがそのやうに處理したいユーザにとつて、助けになつてゐる事は事實である。良いねと安易に言へないのは、XMLパーサでの處理を期待するXHTML文書が存在し、その存續、利用、需要を脅かすからだ。)


要するに、サイト制作者へXHTML文書の作成を推奬するならば、同時にXHTML文書の適切な處理をUA開發者へ推奬(說得)しなければ、XHTMLが目的を逹成する事はできないのである。又、上記に擧げたやうなデメリット、現狀のUAの對應などについても觸れるべきだらう。

Shadow WikiOpen Letter To Webmastersはメリットにしろデメリットにしろ、說明不足だ。

餘談:Webを深める意味附け

私はstrict(嚴格さ)よりもsemantic(意味附け)の方に關心があつて、2020年までの文書はHTML+RDFaで提供してゐた。Webの本質を考へれば、不足してゐるのは嚴格さなどではなく、情報提供(の手段)だからだ。HTMLでは曖昧だつた意味も、RDFaで語彙を用ゐれば明確に表現できるのだ。例へばtime要素に對して公開日、改訂日など。又、人物場所など、HTMLの要素では表現できない情報も提供できる。


一年程實踐した感想として:


私は勞力を最小限に、ソースを簡潔に保ちたかつたので諦めたが、Webの構成に關して言へばsemantic推しだ。惜しむらくは、未だにその具體的な利用方法が普及してゐない事か(例へば、參照してゐるページの公開日と更新日を確認したい時に、ブラウザのメタ情報ダイアログを開くユーザが幾らゐるだらうか)。RDFaはHTMLのマークアップのついでに記述できるが、だとしても自動化した方が良いだらう。餘りに面倒だつた(長文のマークアップは苦痛の極み)。


Webブラウザにしても、メタ情報を利用する事に焦點を當てた開發は本當に少ないと思ふ。大抵のGUIブラウザは表示動作を氣に掛けてゐる。ユーザもセキュリティ、プライバシー、擴張機能、サイトが機能するかを氣に掛けてゐる。それも重要ではあるが、我々はサイトを表示するだけでなく、サイト間の移動情報の取得も主な目的としてゐるのだ。ショートカットキーで目次を表示したり(見出し要素から自動生成)、記事の本文だけを表示したり、ライセンス文書を參照したり(メタ情報ダイアログかバーなどで簡單に確認できるのが理想だ)、參考文獻のみを抽出したり、といつた事がいつ當り前になるのだらう?

參考リンク

Any Browser

そもそもUAをブラウザに限定する必要はあるんだらうか。Any Browser Campaignの著者にそのやうな意圖は無かつたが、結果としてGUI/TUIブラウザしか想定しないサイト制作者を增やしてしまつたのではないかといふ危惧はある。


キャンペーンの意圖を理解してゐる人がどれだけゐるのか。私がこの運動を知つたのは、ねこまぐろ雑貨店といふサイトのアバウトページがきつかけだつた。如何なるブラウザでも、閲覧可能にを目標にサイト作成をしてます。見やすく、軽く、楽しくをモットーに! 古いブラウザでは表示が崩れます。ここまでは良いだらう。だが、續く言葉には驚愕する。

XHTML1.1 & CSS3 & PHP & CGIで記述してます。 マイクロソフトがサポートを終了した、IE6/IE7/IE8/IE9/IE10の対応は終了しました。乗り換えおすすめ→FirefoxGoogle Chrome。2017年5月からはIEはIE11からの対応となります。2018年6月現在、新しいCSSのためにIE11から他のブラウザへ乗り換え希望してます。

対応は終了しましたとは、他のブラウザへ乗り換え希望してますとは? 如何なるブラウザでも、閲覽可能にを目標にしてゐるサイトが發信する內容とは思へない。制作者が好むブラウザを擧げる事も、その利用を推奬する事も全く構はない。だが、新しいCSSのためにUAの變更を推奬する事は、Any Browser Campaignの理念とは眞逆だらう。なぜユーザがCSSに配慮しなければならないのか?

そして、決定的なユーザへの虐待ブラウザ閲覧制限 :: 2020年10月の日記 :: ねこまぐろ雑貨店

そういえばこんな感じでゴリゴリ旧ブラウザ弾いてます。コメントアウトもそのまま。今の最新はFirefox8x Chrome8xかな。82と86? FirefoxもChromeに数字追いついてきましたね…。

弾く理由は旧ブラウザって基本的にcrawlerだしねぇ…。GoogleとBingくらいでいいかなーという切り捨てっぷり。

SetEnvIf User-Agent "MSIE 9\.0" Bad
#古い
SetEnvIf User-Agent "Firefox/1" Bad
SetEnvIf User-Agent "Firefox/2" Bad
SetEnvIf User-Agent "Firefox/3" Bad
SetEnvIf User-Agent "Firefox/4" Bad
SetEnvIf User-Agent "Firefox/5" Bad
SetEnvIf User-Agent "Firefox/6" Bad
SetEnvIf User-Agent "Firefox/7" Bad
SetEnvIf User-Agent "Chrome/3" Bad
#4はGoogle公式crawlerが…
#SetEnvIf User-Agent "Chrome/4" Bad
#5はLINEアプリ…
SetEnvIf User-Agent "Chrome/6" Bad
SetEnvIf User-Agent "Windows NT 5.1" Bad
#windows7
#SetEnvIf User-Agent "Windows NT 6.1" Bad

Tridentも弾きたいんだけどなー。いい加減IE11から乗り換えてくれ…あれだけ注意書きしてもダメ。Chrome/7も別にいいかなー。 Googleが『Chrome/49』でLINEが『Chrome/52』っぽいからそれ以外の4xと5x蹴ってもいいような(また長くw) はてさて。

今のIE11警告はこんなのが一番上に出ます(`・ω・´)

IEの対応を終了しました。(~2018-10)
Firefox(PCで推奨)、Chrome(もしくは派生ブラウザのOperaKinzaSRWare IronChromium版MS Edgeなど)への乗り換えをお願いします。

人々にはソフトウェアを實行する自由があり、このやうな實行の妨害は人權を侵害してゐる。

サイト制作者がUAを選擇する自由を奪ふ! ああ、ユーザを虐待するのは、プロプライエタリソフトウェアだけではないのだ。開發終了だらうがセキュリティ問題だらうが、實行の選擇はユーザがするのだ。第三者が選擇を强制する道理は無い。ユーザの事情の何を知つてゐると言ふのか?

このサイトはWget(ダウンロードクライアント)も拒否してゐる。デフォルトのUAでダウンロードしようとすると、クライアントは403 Forbiddenと報吿する。だが、UAをFirefoxへ變更すると、問題無くダウンロードできるのだ。全く馬鹿げてゐる。


Wget實行時の出力(strong要素での强調は私が附加):

$ wget https://www.tailtame.com/about/
--2022-04-10 22:48:52--  https://www.tailtame.com/about/
CA証明書 '/etc/ssl/certs/ca-certificates.crt' をロードしました
127.0.0.1:8118 に接続しています... 接続しました。
Proxy による接続要求を送信しました、応答を待っています... 403 Forbidden
2022-04-10 22:48:55 エラー 403: Forbidden。

$ wget -U "Mozilla/5.0 (Windows NT 10.0; rv:91.0) Gecko/20100101 Firefox/91.0" https://www.tailtame.com/about/
--2022-04-10 22:49:12--  https://www.tailtame.com/about/
CA証明書 '/etc/ssl/certs/ca-certificates.crt' をロードしました
127.0.0.1:8118 に接続しています... 接続しました。
Proxy による接続要求を送信しました、応答を待っています... 200 OK
長さ: 特定できません [text/html]
`/home/sinumade/DL/index.html' に保存中

index.html                                          [  <=>                                                                                                  ]  30.56K  97.7KB/s 時間 0.3s

2022-04-10 22:49:16 (97.7 KB/s) - `/home/sinumade/DL/index.html' へ保存終了 [31292]

このやうな制作者がゐるために、私はAny Browser Campaignを胡散臭く感じてしまつたし、(讀者に)何の希望も持てなかつた。


サイト制作者を滿足させなければ情報にアクセスできない——それがWebなのだらうか。未知のUAを妨害する事が、Webの繁榮に繫がるとでも言ふのだらうか。

Webの使命に背くサイト制作者

自分の思ひ通りに參照されなければ我慢ならないサイト制作者は一定數をり、その强欲さがWebサイトを壞してゐると言つても良い。


例へばだ、昔の非力なUAが私のHTML5文書にアクセスしたとしよう。nav要素、time要素、i要素、b要素をことごとく無視したとする(しかし要素內のテキストは參照できるやうになつてゐる筈だ)。それで何の問題があらう? 最もサイト制作者が破壞してはならない要素は、a要素、ハイパーリンクである。多少情報の缺落が發生しようとも、文書に到逹さへできれば、最惡プレーンテキスト(あるいはソースそのもの)で情報を參照できるのだ。有難い事に!

新しく開發されたブラウザがCSS3に對應してをらず、a{border-radius: 10px}が適用されなかつた。それで何の問題があらう? 肝腎の文章や畫像にはアクセスできるのだらう? それさへ妨げると言ふなら、態度を變へなければならないのは、サイト制作者である。ユーザのアクセス環境に難癖を附ける事は、環境を選ばないメディアであるWebにとつて、本末顚倒である。


私がとんでもないと思つてゐるのは、サイト制作者がアクセスする手段を選んでゐる事だ! サイト制作者にそんな權利は無い。我々はただ發信するだけであつて、それ以上の餘計な事をしてはならない。どのやうな事情を抱へてゐるかも解らない人間に對して、道を塞ぎ、選擇を强制し、それどころか罪惡感を植附ける——こんなむごい事があつて堪るか!

參考リンク

ダークネットは差別への抵抗になるか?

IPはおろか、UAを始めとしたフィンガープリントの識別でさへ不可能だとしたら、上記のやうな、サイト制作者が課すアクセス制限は無くなるのだらうか。いや、何もしない事の方が樂であるにも拘らず、制作者は特定のユーザを締出さうとするだらう。與へる影響に鈍感である限り、他者のコントロールを夢見る限り。


これも技術では解決しやうの無い問題で、人間が人間ある限り、排除はどこででも起きるのだ。

私的、平等

紙の本の最大の利點は、私的な空間で手にできれば、本(コンテンツ)から拒絶される事は無いといふ事である。Webの不自由さは、情報提供者が情報に干涉できる點にあり、暗にユーザへの差別と特定を推進してゐる。Webは私的で平等なメディアではない

本と比較すれば、ユーザの選別とアクセスの制限が如何に容易であり、不自由さが日常的に逹成されてゐるかが解るだらう。情報の場所(URI)は明瞭だが、アクセスは確實ではないし、アクセスできたとしても、時折人々は異なるものを提供されるのである(情報の差換へ。同一性が無い事は情報の變化を追ふメリットではあるが、ユーザが差換へを承知してゐない場合、それはアクセスの妨害であり、情報操作である)。

考へてもみろ、私が讀む時だけページが眞つ白になるだとか、ホラしか書かれてゐないといふ、そんな呪ひみたいな事があつて堪るだらうか! しかも著者が私が誰かを知つてゐて、どこまで、幾ら時間を掛けて讀み、端を折つたページも知つてゐたとしたら! 今日電子書籍が問題になつてゐるが、HTMLも電子書籍であり、うの昔から讀者は監視されてゐるのだ。

參考リンク

荒れた地を步き續ける

ソーシャルメディアが死に絶える事は無いだらう。さう考へれば、さう呼ばれてゐるものが無かつたWebを體驗できた事は、貴重な事なのだ、と思つた。それもWebの、人間の、地球の歷史からすれば一瞬に過ぎないのだらうけれど。

ソーシャルメディアが生れるずつと前から、今程ではないにしろ——人間とWebの醜さは混在してゐた。昔からハイパーリンクに對する、提供する情報に對する輕視はあつたのだ。自身の影響力を輕視する人はあつたのだ。

2022年4月17日:追記

ながらへるための迎合

長らく確認してゐなかつたが、XHTML 1.1やBasicも、supersededだつたんだな。記事を書く前に確認すべきだつた。


そして、Open Letter To Webmastersは、全體を讀解く必要がある——亂暴に解釋すると、權力者が標準化を牛耳り、その標準を實裝できるのは、權力者自身(例へば、彼らが開發するWebブラウザ)のみである、と。他のベンダーは競爭すらできずに消えていき、人々は特定の技術や仕樣に依存せざるを得なくなる。權力者は都合良くインフラをコントロールできるが、人々はそれに抵抗する術を持たない。

無論我々はこの征服に抵抗すべきだが、今囘はあくまでXHTMLとHTMLに焦點を當てた(何年も前に議論された事だが)。


Googleの上手いところは、サイト制作者に金を拂つた事だ。たちまちAdSenseは擴がり、AdSenseへの參加條件を滿たすため、サイト制作者はGoogleの提示を血眼ちまなこになつて實踐した。プライバシーポリシーはユーザのためではなく、Googleから合格サインを貰ふために設置された。アクセス解析は收益を效率化する必須ツールとされ、サイト制作者は進んでビーコンを設置した。お蔭でWebはアクセス解析(ユーザの痕跡送信裝置)だらけだ。金さへ出せば、これ程簡單に世界をコントロールできるのだ。餘りの單純さに驚愕する。個人も企業も、ユーザと對話するより、默つて私生活を盜み見る方が、手間要らずで安上り、最善の方法だと判斷するやうになつたのだ。

Googleは仕樣を變更する事もできるし、ユーザに對してかなり直接的にコンテンツの制御ができる(檢索結果の順序、AdSenseの參加條件)。


私がLiving Standardを採用してゐるのは、HTMLでルビが使用できるからだ。それすら些細な理由かも知れないが——一番の理由は、長期の參照に耐へ得る事を期待してだ。要するに、我々は貴重な資源を人質に取られてゐるのだ。仕樣の變更——互換性の破壞——アクセスの途絶——に怯えてゐる。私はプレーンテキストとHTMLが最も時間經過に耐へるフォーマットだと確信してゐるし、50年後もHTML 4.01文書が參照できると信じてもゐるが、自分の文書だけはアクセスを確實にしたい、といふ欲がある。それ自體不毛な事かも知れないが、私は屈服したのだ。

畫像を非表示にする理由:人々の畫像の扱ひが下手だから

例へば典型的なブログ記事だ。記事の趣旨とは關係の無い畫像を冒頭に配置し、しかもそのサイズが馬鹿でかいのである。私は畫像の讀込みに時間を使ひ、その認識に注意力を拂ひ、本文を讀むのにスクロールしなければならない。一體この手間は何なんだらう? サイト制作者はなぜユーザの貴重な資源(時間、ハードウェアの壽命、注意力)を無駄にしても良いと思ふのだらう? ユーザに對する配慮と言ふよりも、ユーザへの無關心が露呈するために、私は苛立ち、非難、抵抗するのである。

情報を參照しに來たユーザにとつて、Webサイトはショーケースではない(視覺表現が目的でない限り)。裝飾はどんな場合にも、アクセスを妨げない事を條件に爲されるのである。

自己宣傳と裝飾

Dig Deeperを例に擧げよう。トップページにはタイトル畫像がある。橫1360px、縱765px、容量297KB。タイトルといふ重要な、しかし一行で濟む情報を、なぜこのやうな巨大な畫像で表現するのだらうか? フルHDのディスプレイでさへ、續く3行が表示されるかされないかだ。表示の抑制はそれだけで不便で不快だが、このトップページが同時にコンテンツの總目次である事が、ユーザビリティの低さに拍車を掛けてゐる。ユーザが最も行き來するであらうページだからだ——アクセスする度に、ユーザはタイトル畫像のスキップを强ひられる


Webブラウザのレビューにも觸れたい。例へば、各ブラウザの見出しの兩脇には、ブラウザのアイコンがある。alt屬性値は、FirefoxであればFirefox icon。この代替テキストは、視覺表現が望めない場合に利用される:Firefox icon Mozilla Firefox Firefox icon

何と馬鹿げてゐるだらう。alt屬性値は、確かに畫像から得られる情報といふ事になつてゐるが、Living Standardでは、認識の補助に用ゐるアイコン及び裝飾的な畫像はalt=""空にしなければならないとされてゐる。なぜと言つて、視覺が望めない狀況下において、裝飾的な畫像から得られる情報は無いからだ。要するに、畫像が表現する視覺的情報が缺落しても、文書の參照には何の支障も無いのだ。既に見出しテキストによつて何のブラウザの章かはユーザに傳逹されてをり、アイコンは意味を持たないのである。だからalt屬性値は空が適當で、より適切にはスタイルシートで表現すべきだらう:

h4#ff::before,h4#ff::after
{content: url("../images/icon_firefox.png")}

さうしておけば、CSSに對應してゐない(無效にしてゐる)UAは、畫像を讀込まないで濟む。

文書がアイコンのデザインに對するレビューなら、アイコンの缺落は致命的な缺陷かも知れないが、さうでないなら、このやうな畫像の用ゐ方は殆ど不要と言へる。


トップページのアイコンもさうだ。冒頭のリンク集(聯絡先、寄附、ミラーサイト等)もalt屬性値を空にするか、CSSに切替へるべきだらう。餘りにも混沌としてゐる。

目次(Article list)の國旗について——例へばポーランド國旗のalt屬性値はPolish flag。一方で畫像の補足をしてゐるtitle屬性値は、Polish translation。どう考へてもalt屬性値がPolish translationだらう!(title屬性値はそのままでも良い。これは視覺表現を可能とするユーザ、リンクにフォーカスした時の事を考慮しての補足だらうからだ)


かうしたちぐはぐな、不適切な屬性値は、HTMLに無知なために起る。なぜなら、alt屬性値が代替テキストとして機能する事を知つてゐれば、裝飾的なアイコンをiconと書いてみたり、飜譯ページのリンクにflagなどと(それはリンクテキストだ!)書く筈は無いからだ。


プライバシーの侵害や、仕樣の獨占に較べれば些細な事だつて? とんでもない! GUIブラウザ以外のユーザ(場合によつてはそのユーザも)がどれだけこの無關心なWebに苦しんでゐるだらう! テキストブラウザの閲覽でさへ煩はしくしてゐるのは、我々に他ならないのだ!

參考リンク

適當な構成

更に踏込んで、飜譯版へのアイコンでのリンクが適當かも考へる。そもそもなぜアイコンだらう? 畫面のスペースを節約できるからだらうか?

私ならテーマ別の目次ページを作り、リストでリンクするだらう:

そして、記事の本文かlink要素で、各飜譯へリンクする(link要素は基本的にユーザには通知されないため、本文でリンクする事を奬める)。

各飜譯リンクを一行に纏めるのは難しく感じる。題名では簡潔にはできないし、PolishもしくはPLと表現する事もできるが、それでは他の記事と重複してしまふ。title屬性で補完できるとしても、私は好きではない(title屬性の處理はUAに依存するからだ)。

目次を簡潔にしたいなら、トップページ・目次で記事の飜譯が幾つかある事に觸れておき、本文ページで飜譯リンクを參照してもらふ、といふのが無難な氣がする。


これといふ答へは無いが、私はここまで考へる。惱む。最終的には、想定できる讀者層を優先する事になるだらう。それでも、ユニバーサルアクセスへの配慮を忘れてはならない。

虛飾と信賴

參照を先延ばしにされるといふ點で、Disrootも嫌ひだ。トップページには、上部に追隨する固定メニューが表示される他は何も無い。いや、その下には本文があるが、ディスプレイいつぱい分の空間が邪魔して、アクセスと同時に本文を讀む事はできないのである。固定メニューから參照できるページの殆どが、ユーザにスクロール(スキップ)を强ひるのだ。サイト制作者はコンテンツよりも背景の寫眞(イメージ)を見せる事に固執してをり、さういつた獨善さが彼らの立派なポリシーを滑稽にする。

必然性の再考——趣旨と補助

畫像の必然性が無いのが問題だ。生物についての記事なら生物の寫眞が、ソフトウェアについてなら動作時のスクリーンショットがユーザの理解の助けになるだらう。アイコンやロゴも、適切に利用すれば見出しやリンクの視認性を高める事ができるかも知れない。だが全體として、サイト制作者の畫像の用ゐ方は、程度が低いのだ。それがユーザビリティ/アクセシビリティに影響を與へるといふ考へも持たない。無意味なだけでなく、害惡な資源の斷片に、私は怒りを感じるのだ。畫面を占有し、注意力を奪ふだけの、何の利益も無い行爲に。


——どんなにか敎育が必要か!


alt屬性すら缺けてゐる悲慘さを見るが良い。これが2000年代のWebサイトならともかく(修正を求める)、2020年代のHTML5で次々と起つてゐるのだ!

代替テキストの無い畫像の羅列——視覺表現が主體のサイトでなければ無視できるが(それですら情報の缺落)、リンクされた畫像では致命的となる。リンクテキストが無い! それが何の說明も無く竝列してゐる場合、ユーザはリンク先を知る術が無い(私はステータスバー等からURIを參照できるが、さうでないユーザもゐるだらう)。


チュートリアル(HTML學習サイト)はsrc屬性とalt屬性をセットで敎へないのか、と疑問に思つたが、駄目なんだな。アクセシビリティに對する言及が全く無いから。サイト制作者はalt屬性値を代替テキストだと理解してゐても、サーバが稼働してゐれば畫像が非表示になる筈は無いと考へてゐる。

學び、捉へよ

これからサイトを作る人、もしくは最近作つた人に言ひたいのは、檢索結果上位の、あるいは誰かが推奬するチュートリアルではなく、仕樣書を讀めといふ事だ。全部でなくても良い。自分が使ふ全ての要素と屬性について參照しろ。Webを造る者の務めとして。

Webは低品質なメディア

完璧主義を求めるのではないし、全ての人がWebやHTMLに關心が持てるわけではない事も理解してゐる。ただ、テレビやラジオとは異なり、Webは誰でも發信できる、雙方向のメディアだ。發信者がメディア(媒體)の特徵を理解してゐなければ、必然的にメディアの質は下がる

あらゆる人々が參加する以上、質の低下は囘避しやうが無かつたのだ。


では、眞に自由な、あらゆる環境、あらゆる人々に開かれたWebは? 夢物語で終るのだらうか? 端的に言へば終るのだが、その必然性がユニバーサルアクセスを無視する理由にはならない。大衆が理解しなくとも、我々は、私は、できる限りのアクセスを確保すべきなのだ。さうしない理由がどこにある?

ユーザには力が必要だ

例へば:


サイト制作者を變へる事は不可能だ。だが、アクセスの制御さへできれば、ユーザは情報を參照できる(自立できる)!

質の低さが自明であるために、UAの果す役割と責任は大きい。限界はあるが(空白のページを送り返されるなど)、障碍を取除き、ユーザ個人にとつて效率的なアクセスを計らふのがUAの仕事である。

動作確認?

なぜUAの列擧が必要だらう? アクセスすればすぐ判る事なのに? これはかつての惡習慣、推奬ブラウザを再現しないだらうか? ユーザは、參照してゐる文書が正しい(valid)か嚴格(strict)か、アクセシブルかといつた事について、何の關心も無い。情報にアクセスさへできれば、目的は逹成されてゐるのだ。

I encourage other web developers to do the same kind of transparency list:自分の開發したソフトウェアならともかく、こんな收拾のつかない事をする必要があるか? ああ、Webサイトの宣傳か、なるほど。


サイト制作の啓發であるとしても、UAで確認する勞力に匹敵する企劃ではない。

適切なマークアップは、貴重な資產と愛である

fontタグが良くないと言はれたのは、視覺情報に偏つてゐるからだ。

上記では、テキストに色が附いてゐる事しか傳はらない(要素內のテキストは參照できるものの)。このテキストが示してゐるであらう、重要性が缺落してゐるのだ。これは讀者が限定されてゐれば問題にならないかも知れない。だがより普遍的な、公衆に向けた文書で情報の缺落が常態化してゐると、害や不便さは明確になる。例へば、災害情報など緊急性の高い情報を考へてみる。見出しや强調が適切にマークアップされてゐれば、ユーザは必要な箇所までコンテンツをスキップし、いち早く、確實に情報を取得できるかも知れないのだ。

そこまでの緊急性は無くとも、アクセスする先々で情報が缺落してゐたら、それはどんなに敎養の、讀者の損失になるだらう?


時間の限定された、あるいはコンテンツの參照が難しい人々にとつて、餘計な情報は判斷の障碍になる。場合によつては致命的な判斷の誤りを招く(生命や財產)。だからこそ私は低品質なマークアップや過剩な裝飾、文中の弘吿を厭ふし、讀書體驗を損なはせ、誤認させてでも自分の利益を優先する人々の態度を、心底輕蔑するのである。

Webの見方

Webを數字で表す人もゐる。だが、ユニバーサルアクセスといふ點で見れば、Webは1.0にも逹してゐない

2.0とか3.0とか言ふのは、公開された文書を缺落無く參照できる、運の良い人々が進めてゐる話に過ぎない。

視覺、聽覺、觸覺(點字など)でアクセス可能なクライアントがある、缺落無く參照できる文書がある、といふ點では0.5まで來てゐるのかも知れないが(もしくは單にアクセス條件の成立)、權力者(この文脈では視覺表現を受容できる人々)でさへ參照が困難な文書に日常的に直面する事を考へると、どんなにかWebの程度は低いと感じる。

低品質×匿名

冒頭で書いた通り、ダークネット(ダークWeb)の質そのものには期待できない。同じ事を繰返すだけでなく、匿名性を曲解した人々による暴走が豫測できるからだ。無秩序の中では、良識や善意より、無關心惡意の方が遙かに勝る。現代社會/Webでさへ、まだ抑制されてゐる方だらう。これから起るであらう事を考へると(ダークネットへの誇大弘吿)、氣が滅入る。

個人の死と再生

現代のWeb——主にソーシャルメディア批判——で觸れられる、皆同じに見えるといふのは、何も視覺表現(サイトの外觀)だけを言つてゐるのではない。言動と思想が劃一化していく事の、個人の死について言つてゐるのである。

だから、ユーザが計劃された外觀でサイトを見てゐなくとも、あなたは充分個性的だ、と言ひたい。Webは紙や映像のやうに、表現とアクセスが固定的なメディアではない、といふ事を知つてもらひたいのだ。あなたは表現だけでなく、アクセス手段が自由なメディアを選んだ。多樣な人々のアクセスを可能にした。


もしユニバーサルなアクセスが氣になり出したら、いつでもサイトを改善できる。考へ、惱み、表現し、思つてもみないアクセスに備へよう。

創造と傳逹

私とて創造を脅かすつもりは無い。

ただ、低品質なマークアップには明確な害があり、一部の人々がアクセス不可能か困難な狀態に陷つてゐる、その現狀に不滿があるのだ。そして、多くの人々はその事實を知らない。問題はそこなのだ、自分のマークアップが誰かの障碍になつてゐる、その事實を知る術の無い事が。せめて有害性が知れ渡つてゐれば、ユーザがinvalid部分を指摘したり、アクセス性を損なふマークアップについて議論したり、といつた事が日常的になつてゐただらう。

criticisms of "faux nostalgia"が何を指してゐるのか判らないが、私がNeocitiesに落膽してゐるのは、HTMLやアクセシビリティに無知なだけでなく無關心なユーザが多い事、投稿サイトに低品質なマークアップが多いと見受けた事に起因する。私の經驗から言ふと、奇拔な外觀のサイトは、大抵無理なマークアップをし、且つアクセス性を損ねてゐる。だから私は、惡質さを懷かしんでゐるだけだ、と書いた。さう、惡質さだ。いつまでもWebと人間に無關心な我々の事だ。


批判の焦點はアクセシビリティにあつたのではないか、と想像する。アクセシブルなマークアップは創造性の一部だが、創作活動とは又別の話だ。殺到する批判に創作者はたぢろぐだらうが、アクセシビリティといふ焦點を明かした上でまだ創造性を攻擊されたと認識するなら、議題を理解してゐない事になる。

宿命と尊嚴

個人サイトが增えても上記のやうな調子なので、私はユーザスタイルシートを利用する。


タグ屋とテンプレート屋がゐて、Webリングがあつて、バナーが竝び、カウンターが動き、リンクは新しいウィンドウで開かれ、本文は疑似ウィンドウ(スクロール可能なボックスの事。昔はiframe要素が主流だつた)の中。何も變らない——驚く程變らない。


Cupid's ManifestoInternet Manifestosで見附けた。

私自身がWebの實感を話すなら、The Web KANZAKIJintrick.netのやうな面白い(知的好奇心を刺戟する)サイトを見附けるのが難しくなつた、といふ事か。はてな界隈はまだ良いブログがあるやうだが、氣に障るコンテンツが多いので、はてな自身にはアクセスしない。個人の檢索エンジンはまだ稼働してゐるが、知り得る全てがポルノを容認してゐるため、これもアクセスはしない。何と言ふのかな、もう個人サイト(特に創作サイト)はそれ程氣にしてはゐないのかも知れない——私は氣が移り易いので。巡囘先と言へば、Dev1 Galaxy ForumとかHyperForumとかだ。つまり、生活に必要なサイト(現在の關心分野)になつた。

まづは足元から

私は私の手に負へる事、理想、自分の幸せにしか興味が持てない。

今日不自由さを無くす事はできないが、手元の文書を仕上げる事はできる。自分の仕事に專念すれば、世界に一つだけまともな文書が增える。私に絶望は無い——それは私が鈍感で無知だから、そしてまだ文書を良くする方法を知つてゐるからだ。