關聯:
Tor經由でアクセスすると、Cloudflareにブロックされる。なぜ私がTorを利用してゐるか、なぜそれが大事か、訪問者の環境によつて情報へのアクセスを妨げられるべきでない、といふ事は上記の關聯記事で書いた。
特にサイト管理者には「なぜ」「訪問者を」ブロックしてゐるのかよく考へて欲しい。訪問者を蹴つてまで得る“メリット”とは何か?
參考:Stay away from CloudFlare
申譯無いが、私には公式サイトもWebカタログも確認できないので、それらのリンクは最小限にしてゐる。どうしても見たければWayback Machineで見る手もあるが。
以下、jimdosite.comとkurumed.jpもブロックされる事を附け加へておく。
前囘出店者として參加してから、何年が經つたらうか。急な思ひ附きで、私は東京36に足を向ける事にした。決めたのは一週間程前で、財布が空虛な事に氣附いたのは、その數日後の事だつた。だが、周圍に公言した手前、行くしかなかつた。その決斷に迷ひが生じる事もあつたけれど、何、私が緊張する事はない。私には何をする義務も無いのだから――氣樂にやれば良い。しかし、それは甘い見立てであつた。
ICカード――履歷の殘る支拂ひ方法――を拒絶して、終始切符で向かつた。JRから東京モノレールの乘換へ方法を學んだ。專用の劵賣機にJR/モノレールの切符を入れて、モノレール/JRの運賃を選擇するだけだ。ICカードだと改札へのタッチで濟んでゐたので、今まで乘換へを意識せずにゐた。
流通センター驛を出た、目の前から行列があつた――モノレールに乘合せてゐた殆どの人が、文学フリマ目當てだつたやうだ。好きなジャンルは第二展示場の方にあつたので、まづはそちらに行つた。受附でカタログと“Visitor A”と書かれたシールを受取り、胸に貼り附ける。一階では別のイベントがやつてゐたらしく、エスカレーターで二階に行く。コロナ禍では中止してゐた見本誌コーナーが目に入つたが、人が多過ぎてゆつくりと見る事ができなかつた。机の角つこの「ジャンル:官能小說」とある見本誌を手に取つたが、卷頭にも卷末にも18禁の記述は無かつた(全年齡向けの“官能小說”も存在しなくはないが)。書籍紹介欄は手書きで、正直なところ讀み辛かつた。Webカタログページで見本誌のデータ入力も兼用し、活字にしたらどうか。
ブース(出店スペース)の配置は事前に調べてゐたし(Torからのアクセスは諦めた)、カタログにも圖が載つてゐたが、實際に會場に入つてみると、位置感覺が摑めなかつた。確かに長机の端には「え 1〜18」などと書かれた張紙があつたが、ジャンルの區切も、場合によつてはブースの區切も判らなかつた。何より人、人、人。隙間を縫つて步くといふか、私が人の列を作るといふか。知らない者同士でドラクエのやうに後ろに誰かを引連れてゐる狀態になる。とてもぢやないが、「足を止める」事はできない。ブースの前に立つだけで邪魔になる可能性がある(事實、通行に支障が出た)。もう關心のあるジャンル、あるいは目を引くブースだけで止めようか、と思つたけれど、交通費を拂ひ、混合つた電車內で立ちつぱなしだつた手前、早々に諦めて歸つてしまふのは損な氣がして、一周グルッと廻る事にした。しかし壁から壁――列の頭からお尻まで辿り著くのでさへ大變な狀況で、ましてや列の最後尾――あ列〜く列――に向かふのは長い苦行に思はれた。多樣なブース、顏ぶれが見られて樂しかつたけれども。
第二展示場は座る場所がアンケート記入スペースとクルミドコーヒーの賣店くらゐしかなく、殆どの人は、休憩や手荷物の整理に、壁際に突つ立つて足を止めるしかなかつた。第一展示場には幾らか椅子はあつたが、當然、人で埋まつてゐた――さうして、會場にゐた約三時間、アンケートを書いてゐる時とトイレ以外、私が座る事は無かつた。
混雜と步行による體力の消耗もきつかつたが、最もこのイベント體驗を損ねたのは金缺だつたらう。突然の思ひ附き故に、私は豫算を計上できなかつた。貯金を崩す選擇肢もあつたらう――文学フリマで賣られてゐる書籍は、どこでも手に入るわけではないのだから。
まづ向かつたのは、以前から注目してゐた「翻訳ペンギン」(配置:え-71,72)だ。目次を見せてもらひ、靑表紙の新刋翻訳編吟12を買つた。500圓。次に、百合×シリアス
といふ單純明快なポップが目を引くサークル、駿河書房(舊・恵粗奈落の文学論)(配置:う-20)より駿河鵬命著十六夜の狼(百合×ミステリ
)、500圓。ぱらぱらと見た限り、今時のカジュアルな散文で、性的な話題もあるが、どうしても「百合」とつく書籍が一つは欲しかつたので、これに決めた。最後に、安藤昼夜
他にう列の“特殊部隊全滅アンソロジー”1000圓が讀みたかつたが、金が無く斷念。豫算が盡きてからはフリーペーパーをもらつてゐた――が、ぺらぺらの紙でも有料のものがあり、これとの區別がつき難かつた。ブースから勝手に取つて良いのかどうか。値札すら附けてゐない出店者もをり、不親切だと思つた。又、上述の通り通路をのろのろと步くのでさへ憚られ、視界を遮斷される事も少なくない中で、値札が細字――ボールペンで書かれてゐるのは見辛かつた。せめて油性ペンで明瞭に書いてくれればと思ふ。空いてゐるブースも幾つかあつたが、キャンセルした出店者のブースには「CANCELED」といふテープが貼られてゐた。これは良い改善。
ジャンル、配置番號、出店者(サークル)名――これがはつきりとしてゐれば、まだ探索はやり易くなる。きちんと揭示してゐたブースもあつたが、机上や他の來場者に氣を取られてゐると、目に入らない事もあり、どうしても「判り難い」と思つた。ジャンルを色で區別するにしても、ブースのレイアウトは出店者の任意だし、背後のスペースは活用できるか分らないから、難しいか。
100圓のコピー本を賣つてゐたき列の人には惡いと思つてゐる――あんなに薄いと、ぱらぱらと見てゐるだけでも殆どの「價値」を味はつてゐるやうで。今度から、薄い本は關心のある內容であれば買ふ事にする。
印刷所など法人が出店してゐるのは知つてゐたが、はてなブログ(配置:Z-01,02)がゐたのは驚いた。しかも頒布物は無料である。メインははてなブログの文学フリマ本 2023春。テーマは今だから話せること
で、ユーザーが書いた文章を書籍化してゐる(ネットでも讀めるのは良いね)。飾らずに書いてゐる良い文章ばかりだつた。橫書なのは仕方無いとして、誤字脫字もそのままなのはちよつと氣になつた。行頭空けなども入力のまんま(著者により空けたり空けなかつたり)。どうせ書籍化するんなら、直せば良いのに。悔やまれるのは、不要なシールやビラまでもらつてしまつた事。ビラは古紙として出せるが、シールはテープの代りとして使へば良いのかな?
ブースが1000以上、來場者はその何倍もゐる中で、關心ジャンルを物色するのは難しかつた。物理的にも精神的にも足を止められる餘裕が無いと、結局眺めるだけになつてしまひ、裝丁の美麗さや客引きの上手い出店者が有利になる。來場者も出店者も、⻝附いてやらうといふ氣槪が無ければ、文字通り流されるままになる。
この日は半日の斷⻝を伴つた。ターリー屋やクルミドコーヒーは出店してゐたが、高くて手が出せなかつた(コーヒー一杯350圓)。歸りに水を買ひ、手元には數十圓が殘るだけだつた(水筒は持つてきてゐたが、會場に到著した際に空になつた)。
文学フリマ/出店者から來場者に言ひたい事もある筈だ。出店者のイベントレポートにはそれも期待してゐる。
といふか、以前あつた「イベントレポート」の投稿フォームは無くなつてしまつたんだらうか? “ハッシュタグ”に移行したのか?
会場内およびWebサイト上に掲出している当イベントの参加規約やハラスメント防止ポリシーにご同意頂き、遵守頂くようお願い致します。同意・遵守頂けない方の参加はお断り致します。とあるが、會場に規約やポリシーが揭示されてゐた覺えが無い……參加する條件であるのなら、誰の目にも留るやう、せめてカタログ本文に記載する事。必要な情報まで省略しない。
アマチュアに觸れて感じるのは、柔軟さと勇氣である。そして情熱。私はその熱に觸れたくて、流通センターまで出向いた。殘念だつたのは、私が注意散漫で、出店者の顏を見られなかつた事だ。多樣な人が生活にまみれて書いてゐる事が救ひであり、どんなに糞な文章も存在してゐて良いといふ事が、私の唯一の希望、命綱であつた。
アンケートに(感想を述べる先として)ブログ、SNS、投稿サイトの選擇肢しか無く、私は當惑した――「いや、個人サイトだつてあるんだけど」。しかし「Webサイトの種類」で言へばブログに近いし、そもブログつてのはCMSで管理されたサイトだけを言ふのでない。だが「個人サイト」、と私は言ひたい。檢閲と干涉からは無緣な、獨立した自分のメディア。文学フリマが作家の自主性を制限するメディアを支持し、推奬してゐるのは實に殘念だ。彼らが理想としてゐたのは、このやうな「圍はれた」文學だつたのだらうか。
理想も糞も無い――文学フリマがかうした媒體の集權化に對して何の危機感も抱いてゐないなら、このイベントは、私の居場所ではない。どんなに健全な振りをしてみても、主催者の思想はありありとイベントの指針に反映される。
感想はどこに揭載しますか? それこそ「文學」ぢやないだらうか、本、新刋に感想を書きますといふのでも良いし、なぜインターネットが前提になつてゐるのだらう。
文学フリマとは | 文学フリマ (Wayback Machine):
既成の文壇や文芸誌の枠にとらわれず〈文学〉を発表でき、作り手や読者が直接コミュニケートできる「場」を提供するため、プロ・アマなどの垣根も取り払って、すべての人が〈文学〉の担い手となれるイベントとして構想されました。
でもね、今はSNSや投稿サイトが既成の文壇や文芸誌の枠
なんだよ。讀者が多いのか機能が面白いのか何だか知らないが、皆こぞつて同じ發行所に殺到し、讀者にも利用――同じ恰好――を促してゐる。
大きな力に依存する事の害は、私たちが主體性を失つてしまふ事にある。何を書き、どう見せ、誰と共有し、あるいは何を拒絶するか。私たちの夢は何か。何をしてゐるか。それは、私たち自身が問ひ續け、答へを出し、實踐する事だ。
私は我慢できたとしても、不自由な環境を利用してゐると、私を經由してアクセスする人々にも不自由を强ひてしまふ。それがよく實感できた。私が利用できなくて困つてゐるのに、どうして私は沈默し、しかもその不便なイベント/サービスを人々に紹介してゐるのだらう?
徹底して利用しない事だ。私はサービスを通して收入を得てゐるわけでもなく、出版する場所を探してゐるわけでもない。最も自由な身分なのだから、その自由を最大限利用して、正しい事に貢獻しなくてはならない。誰もやれないなら、自分で。